SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

仏教思想概要2:アビダルマ(第2回)

 仏教思想概要2の2回目です。

 前回は、主にアビダルマの発展の歴史を見てみました。今回はアブダルマの世界観を中心にご紹介します。

 

 

3.アビダルマの宇宙観

3.1.宇宙の創造者

 ここでの自然観、宇宙観は、アビダルマ仏教独特のものというより、むしろ仏教に取り入れられ、仏教思想に裏付けられた古代インドの一つの自然観・宇宙観とみるべきものです。

 はじめに、天地開闢(かいびゃく)のことからみてみます。『旧約聖書』でも『古事記』『日本書紀』でも、神による天地創造からスタートします。しかし、仏教においては、自然界の神などの絶対者、超越者といった造物主はいないのです。
 『倶舎論』によれば「サットヴァ・カルマン」によって生まれたとされます。
 サットヴァとは、「有情」または「衆生」つまり、この世に生命をもって存在するもの。カルマンとは、「業」つまり、行為、動作を意味します。つまりサットヴァ・カルマンとは、生命あるものの行為、生命体の生活行動となります。
 それでは、自然界はどのように創造されたのか。仏教では、自然界の前に生命体が存在し、生命体により自然界が生み出されると考えます。
 それでは、生命体はどう創造されたのかというと、広大な宇宙空間で、すでに存在する別の自然界があり、そこのサットヴァがカルマンの力で自然界を成立させるという考え方をとるのです。

 

3.2.宇宙の創造手順と消滅

 宇宙の形成は『俱舎論』によれば、次の手順に整理できます。

①はじまり:なんの存在もない広く虚しい空間に、サットヴァ・カルマンの力がはたらきだし、“微風”が吹き起ることから始まる。
②「大気の層」の生成:風が空間の中で密度を増し、円盤状の堅い「大気の層」を造り上げる。
③「水の層」の形成:大気の層の上に積層される。サットヴァ・カルマンのはたらきで、大気の層の中心部の上空に、雲が凝縮され、激しい雨となり積層される。しかも、サットヴァ・カルマンの風の力が周囲を垣根のように取り囲んで、水の層は左右に流れない。
④「黄金の層」の形成:水の層の上層七分の二はサットヴァ・カルマンの風の力で、黄金の層となる
⑤自然界の完成:黄金の層の表面が大地で、山や河が形成される。
⑥生物(「有情」(サットヴァ))の発生。
ⅰ)天の神々(天人、天女など)ⅱ)地表世界の人間・動物 ⅲ)地下の世界=地獄のサットヴァ
・宇宙の形成期間:二十アンタラ・カルパ(約三億二千万年)
 自然界の形成=1アンタラ・カルパ、生物界の形成=十九アンタラ・カルパ
・形成された世界の持続期間:二十アンタラ・カルパ
・世界破滅の期間:二十アンタラ・カルパ、その順序は、形成の順序とは逆で、地獄の生物の破滅からスタートし、虚しい空間に戻る
・虚しい空間の期間:二十アンタラ・カルパ
 ↓
 つまり、大自然の生滅のサイクルは、4×20アンタラ・カルパ=約十二億八千万年。これを「1マハー・カルパ」という
(仏教の宇宙のイメージ図1)
 

 

3.3.大地の世界=スメール世界

 大地(黄金層の表面)の世界は、スメール山(音写で、「須弥(しゅみ)」、訳して「妙高山(みょうこうさん)」)を中心とした下図のような構成となっています。これが、一つの自然界の単位で、仮にスメール世界と呼びます。(下図2参照)

(上から見た平面図)
 

(縦に切った断面図)
 

・小千世界:千のスメール世界
・二千世界(中千世界):1000個の小千世界
・三千世界(三千大千世界):1000個の二千世界=十億個のスメール世界=宇宙の総体
 各スメール世界は十二億八千万年周期で、生滅を繰り返している。1年ごとで1個のスメール世界が生滅していることになる

 

4.アビダルマの人間観

 以上、アビダルマの宇宙観を見てみましたが、アビダルマ哲学の主要な関心は、宇宙や自然界それ自体にあるのではなく、その中に生まれ死ぬいのちある者、すなわち有情(うじょう、サットヴァ)の上にあるのです。
 ここでは、アビダルマの示す有情一般の外面的、「生物的」なあり方を、さらにはその内面的、「精神的」あり方を見ていくことにしたいと思います。

4.1. 有情の外面的あり方-三界・五趣・四生

 アビダルマに説かれている有情の外面的なあり方は、ほぼ「三界(さんがい)」「五趣(ごしゅ)」「四生(ししょう)」に集約されると言えます。

 三界とは、以下(表8)のように「欲望」「物質」の存在状態を区分した世界です。

 ここで、当然ながら、欲界よりも色界、色界よりも無色界のほうが、よりいっそうすぐれた存在のしかたであり、その場所(地下、地表、天界)も上下関係があります。
 それぞれの場所には、それぞれの生活があり、これを「五趣(ごしゅ)」(地獄、餓鬼、畜生、人間、天)と呼びます。五趣は、時に「阿修羅(あしゅら)」を加えて「六趣」または「六道」と数えられます。

 有情は、五趣(あるいは六趣)のいずれかに属して生きています。やがて死ねば、このいずれかに生まれます。地獄から天へ、天から地獄へということもあり、天の神々もその寿命は永遠ではなく、五(六)趣のどれからどれへと生死の輪は廻ってやまないのです。

 そこで、「四生」とは、このように有情が輪廻していろいろな境涯に生まれ出る、その生まれ方の種類を分けたものです。
 ①胎生(たいしょう)
 ②卵生(らんしょう)
 ③湿生(しっしょう):湿気から生まれる意味(ウジ虫、ボウフラのように)
 ④化生(けしょう):忽然と生まれること

 以上、「三界」「五趣(六趣、六道)」「四生」の関係を整理すると以下のとおりです。
(下表9参照)

 

4.2. 有情の内面的あり方-その1「業」の理論

 それでは、外面的あり方である有情の輪廻的存在の生ずるもとは、何であるのかと言えば、アビダルマ論師たちは、明言します。それは「有情の行為(カルマン=「業(ごう)」)のいかんによる」、いわゆる「因果応報」であると。

 ただし、アビダルマ的には、因果応報とは呼ばず、以下のように呼びます。
「善因楽果(ぜんいんらくか)」:善の行為が原因で、その者にとって、好ましい安楽な結果が生ずること
「悪因苦果(あくいんくか)」:悪の行為が原因で、その者にとって、好ましからぬ結果が生ずること

 また、注意が必要なのは、「業論」は「宿命論」とは違う、ということです。
 その論拠は、以下のように整理できます。

①過去の業が現在の境遇を決定しているのと同様に、現在の業は将来の境遇を決定する。
 →業論を宿命論とみるか、逆に、明るい未来の開拓に向かわせる論拠としての、道徳的勇気の源泉とみるかは、全くその人による。
②業が有情のあり方の全てを決定するものではない。業とその結果の関係は、無数の多様な因果関係の一部分にすぎないから。
→業の報いは一面において拒否できないが、それが人生の全面、全生涯を決定的に支配しない

 さらに、業に対するもう一つの批判的見解として、仏教の無我説と業論の矛盾に対するものがあります。
 当然、仏教では「我」という輪廻の主体を認めていません。したがって、輪廻を認めるはずもありません。この点では、アビダルマも全く同じ立場に立ちます。
 善行が行われたときは、好ましい報いが必然に得られなければならない。悪行が行われたときは、好ましからぬ報いが必然に得られなければならない。アーガマに言われるように、「何人も他人に向かってその善悪を判断しえない」し、全知の神というようなものがどこかにいて人の善悪を審判してくれるわけでもないからです。

 アビダルマでいう輪廻の世界は、人間の平常的生の世界=道徳的な善悪の世界であって、このことは、業・輪廻の世界を究極のあるべき様相とは考えないし、輪廻の主体を認めるものでもないのです。→道徳律への畏敬であるといえます。
 功徳を積んで天などの好ましい境遇に生まれても、それは依然として輪廻の世界の中の話で、輪廻を越えた解脱の世界に出ることでは無いのです。

4.3. 有情の内面的あり方-その2「煩悩」の世界

 業が輪廻的生存を結果するときは、必ず煩悩を伴うといいます。
 「煩悩」とは、「心を煩わすもの、心を悩ますもの」、「心のけがれ、よごれ」、「人間の心がもつ悪いはたらき」のことです。さらに、アビダルマ的には、「悪い」作用に限らず、善くも悪くもない「中性」の心作用(中性であるが、正しい知恵の起こるのを妨げる)もあるとし、ただ、「善い」心作用である場合はないとしています。

 ところが、業が輪廻的な結果を起こすのは、「善い業」の場合もあります。それは、善因楽果もあるからです。では何故、「必ず煩悩を伴うのか」ということになります。
 その答えは、「有漏」という考え方によるのです。
 「有漏」とは、原語(サ・アースラヴァ:煩悩の意味)、「六根から漏れ出る」=「煩悩をもつもの」を意味します。
 凡夫の世界では、すべての存在が「煩悩の対象(厳密にいえば煩悩である「*心作用」とあい伴う「*心」)となり、あるいは煩悩をあい伴う」のであり、つまり有漏であるわけです。(*「心作用」「心」については詳細後述)
 さらに、ほとけそれ自体をを対象とした場合も人は煩悩を伴います。(但し、ほとけ自体は、さとりの領域に属するものであって「有漏」では無い=「無漏」です。)
 したがって、厳密には、「有漏」とは、それらが煩悩の対象となり、あるいは煩悩をあい伴うと同時に、煩悩がそれらの上に力を持ち、それらをけがす様なものであると定義できます(煩悩がほとけの上に力をもちけがすことはないから)。
 つまり、業・輪廻の世界に属する限りにおいては、全ての存在は、「善い」ものも、「中性」のものも、「悪い」ものも、そのような意味で有漏であるわけです。
 したがって、アビダルマ的に表現した平常の人間の生の世界では、「有漏」、「凡夫の世界」、「三界の輪廻的存在」「苦」は同意義であり、善悪の世界であり、迷いの世界であるわけです。

 しかし、迷いの世界は人間のあるべきすがたではありません。アビダルマにおいても、この迷いの世界から超出し、究極の真実のさとりの領域に至るべきことを説いています。但し、説一切有部アビダルマの場合、それを説き明かす基礎に独特の理論をもっています。

 そこで、次章以降でその理論の綱格(主要な論点といった意味合い?)に触れてみたいと思います。

 

 今日はここまでです。次回からいよいよアビダルマの本論・思想概要に入ります。3回ほどに分けてご紹介します。

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