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SWAN日記 ~杜の小径~

お盆ですね

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昨日の夏コミ1日目の参加も無事終わり、今日は午前中の早いうちに盆迎えのお墓まいりに。

朝のうちに霊園に足を運ぶ人も多いですね。

帰りにお店に寄っておはぎを購入。一昨日の夜オカンが「おはぎ食べたいね」と言ってたのを思い出したので(^_^)a

 
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昨日は8月12日。
1985年夏、日航機の墜落事故。
群馬県上野村の御巣鷹山の尾根に墜落した日航機事故から昨日で38年。
520名がお亡くなりになり、生存者は4名だけ。
学生だったけど、地元群馬での大惨事に驚いた。群馬と長野の県境の御巣鷹山。
高校の頃、新人でやってきた体育の男性教師の出身は藤岡市だった。
体育大学も夏休みで帰省中だった時の事故で、学生でも地元の青年団として収集があったそう。
上野村に大きな収容スペースは無い為、国道や高速道路、公共機関などを考えれば上野村からは車で1時間ほど距離があるけれど、最寄りの都市部といえば藤岡市。藤岡市の学校の体育館にご遺体や遺留品が集められた。
その体育の先生も言っていた‥
「2度と体験したくない。つらい経験だった」
御巣鷹山の尾根も、体育館も。
先生も多くは語らなかったけれど、夏の暑さと山の惨状、体育館にこもる匂い、ご遺族の泣き叫ぶ声‥‥、話を聞いただけでは判らない、その場にいた人達の脳裏に焼き付いた記憶は一生消えないのだろうと思う。
 
上野村は自然豊かな所なのです。
一時期、上野村まで友人とよくドライブに行っていました。
御巣鷹山には登っていないけれど。
鍾乳洞やスカイブリッチ、日帰り温泉もある。
当時、藤岡市を越えて国道をひたすら上野村に向かって車を走らせて。
ふと思い出して、高校の新人先生の日航機事故の話をしたら、友人がこんな話をしてくれた。
「◯さんのお家って病院なの知ってるよね。その頃、お爺ちゃん先生は引退して◯さんのお父さんが病院任されてたから、医師だったお爺ちゃん先生も収集かかったんだって。損傷の激しい遺体も多くて、若い先生達は大変だったみたいだよ」
‥戦争体験者のお爺ちゃん医師は色々経験値も高かったけれど、若い医師の先生達が見た惨状の現場は目を覆うものだったのだろう。
捜索やご遺体の照合に携わった方々も、少しでも早くご家族の元に帰れるように‥との一心だったのだろうと思う。
 
その後、藤岡市の高校の体育館は取り壊されたと聞いたけれど。
夏場の事故だったせいもあり、匂いが消えなくて、生徒も怖がり体育の授業をできるような環境では無くなってしまったため、とのことでした。
 
そういえば。実家の2軒お隣りさんは日航機事故の御遺族だと母から聞いた覚えがある。
事故の数年後、群馬に家を建てて引っ越ししてきたご夫婦さん。
 
今でも色々謎が残るらしい日航機事故。
人里離れた山中。
墜落場所の特定は難しかったのだろう。
捜索映像をみれば、かなりの急斜面。
墜落したのは夕刻、夜の山は暗闇だけれど。
暗闇の山は危険であることも判る。でも、昔から地域にお住まいの方々の土地勘って侮れないのでは?と思う。
もしも。もう少し早く捜索と救助の判断をしていれば、あと数名の生存者がいたかもしれない‥とも思う。
殆どの乗客の方々は即死に近い状態だったとのことですが、生存者4名は機体の後部席にいた人達で、墜落直後はしばらく他の生存者の声も聞こえていたとの証言もあるのだから。
夜の山中、意識がなくなる寸前まで救助を信じて声を掛け合っていたのかもしれない。
日航機は機首から山頂にぶつかり、胴体後部は裾野の沢に後ろ向きで雪崩れ(なだれ)こんだ形で、山の樹々がクッション代わりになったのではと推測されるようです。
テレビで流れたボイスレコーダーの音声、機長さん達も最後まで頑張ってくれていたのだと思う。
4名の生存者がいたことで事故当時の様子も判ったのですから‥‥。
 
この事故でお亡くなりになった方々の魂が無事にご家族の元に還帰られたことを願ってやみません。
日航機事故から38年もの月日が流れましたが、お盆を迎える度に思い出します。
 
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