特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

柏08 初石駅行きと南柏から乗ってきた女の子

2017年10月19日 22時51分58秒 | 旅行

 まだTXとかつくばエキスプレスとか呼ばれる鉄道が登場する何十年も前の話です。
柏駅から初石駅行きというバス路線がありました。
初石駅は柏から東武野田線に乗れば10分もかからずに行ける駅ですが、私はこれに終点まで乗り通し鉄道ではなくバスで初石駅へ行ったことがあります。


 つくばエキスプレス開業前のバス路線改変案(広報かしわ 2004年)
この路線もやはり現在廃止され乗ることができません。
流山に免許センターができて柏のバス路線が改変された1999年でもこの方向幕を見た記憶があるのでその後、恐らく柏03と同じようにTX開業の時に喪失したようです。


 昭和57年の秋頃のある日曜日の朝、初石駅行きは2番のりばから出ていました。
昭和57年ともなると野田でも半分程度、柏にくると車両の7割以上が方向幕の大型化が施されていてわたくしが乗ったのも大きい前方方向幕にわずか漢字三文字で「初 石 駅」とあるものでした。


 2番のりばから出るバスは野田の小学生にはチンプンカンプンな地名ばかり掲げた車両が発着していて近寄りがたいものがありましたが、その中の初石駅行きだけは野田線の駅名なのでさすがに恐れ怯むことなく乗ることができました。



乗ったのは恐らく9時台のものだと思います(昭和55年『東武時刻表』)
 
 後扉の折戸が開くと流れる「整理券は要りません、危険物の持ち込みはお断りします」という音声は野田のバスよりもトーンが低く「吹き込みは違う人だな」とわかりました。

 豊四季台団地循環の1番のりばや野田行きが出る3番乗り場とは違って2番のりばの路線は入線から発車までの間が妙に短いものが多く、横付けして客積みを終えると間髪を入れることなくさっさと発車していて、初石駅行きもその例に漏れませんでした。

 その頃の西口のバス乗り場は子供よりも背の低い金属製の可動式柵を置いて客とバスとの境目を作る簡素なものでした。(『柏市の昭和』)

 夏・冬の学校長期休み中の平日に来ると、午前10時ごろにドボ眼鏡を掛けモップ箒とチリトリを手にしたおじいちゃんみたいな清掃員が現れて
「あぶないよ・・あぶないよ」とつぶやきながら柵を動かして路面の掃き掃除をしていました。

 
 3番までの乗り場は現在と全く同じポジションにあり、一方、現今の4・5番乗り場はまだ存在していません。
降車場所とのりばの位置は既に明確に分離されていましたが、柏の車両は三和銀行前、野田の車両の降車場は高島屋脇、今の4番辺りにありました。
高島屋の駐車場へ入りたがる一般車のせいで野田から来たバスはなかなか入れず、中には頭にきて前扉を開けて一般車に向かって「おう、開けろー、こっちは遊びで来てんじゃねえんだからよ」と啖呵を切る運転士さんがいました。
遊びでバスに乗ってる私は大変恐縮しつつも、混むのが分かるはずなのに駅前のデパートに自家用車でやって来る人々にも困ったものです。



 その初石駅行きに乗ったのは私一人だけでした。運転士さんは「ど根性ガエル」の梅さんのような顔をしたオジサンで、まだ暑さの残る季節でしたがYシャツに紺色のネクタイをしていました。
 テケテケと左最前席に私が掛けると同時にバスは動き出しテープ開始の緑ボタンをゴチンと手の平で一叩きすると発車案内が流れます。
テープは「南柏駅・・豊四季駅経由」と言っており「なに?終点が駅なのに途中にも駅が2つあるのか」と思いました。

バスは流山駅行きと同じく旭町の交差点から駅前を脱出しますが、国道6号を南下して南柏駅へ向かいます。

国道6号上には建設省前だのなんだの停留所が複数設けられていましたが、そのうちのどこだったからか風呂敷包みを2個くらい抱えた高齢のご婦人が一人乗ってきました。



 やがて南柏駅に着くと、駅前にはロータリーめいたスペースがありましたが日曜日の朝なので誰も掃除することがなく、白いポリ袋やらダンボールのきれっぱしがそこここに散らかっていて「不潔なところだな」と思いました。
 初石駅行きのバスは降車場で先のご婦人を降ろし、散らかるゴミの上をくるっとUターンしちょうどπだけ向きが変わってやや前進すると南柏駅停留所のバス停柱がポツリと立っていました。
 
 円板の行先欄には「初石駅  東武バス」と書いてありました。なお今ここで話している光景は流山免許センターが出来て南柏からバスが走るようになる何十年も前の話です。
 
 そこには瞳が小さくちょっと上を向いた鼻をもつ顔をした女の子がまぶしそうにバスを見上げて一人立っていました。
顔については私も人のこと言えませんが。

 女の子は手提げかばんと、緑地に明るい色の格子の柄をしたそろばんケースを持っていてケースの白アップリケに「○×小 5-▲ 誰々」とマジックで書いてあったので一つ年下であることがわかりました。
 
 バスは都合二人の小学生児童を乗せて南柏駅を出で、遥か彼方の野田・関宿まで通ずる旧日光街道をずいずいと北進していきます。
豊四季駅が近づくとせまっこいT字路を右折しますが右折先に軽自動車が1台いて、停止線より先にはみ出して停まっていて曲がれないので「プァァン」とクラクションを一発放って軽自動車を後退させて右折しました。


 後年表通りまでしか入らなくなったようですが、当時この路線のバスは豊四季駅の駅前へズボっと入っていきました。
東武バスイーストが野田営業所柏出張所と呼ばれていた途方もない太古の昔、豊四季駅には東武バスの車庫があったのです。
自動改札など皆無の時代なので薄暗い駅改札口には白シャツ姿の駅員が立っているのが見えました。


 
バス停は構内角の、教習所だの病院だのの擬似バス停があるこのあたりに、正真正銘のバス停として立っていましたがバス待ちはいませんでしたし、女の子も降りませんでした。
バス停の裏には放置自転車が山のように並んでいて狭い構内がますます狭く感じられました。

 豊四季を出ると、今日の流山おおたかの森~柏の葉キャンパス駅・江戸川台駅線と同じく駒木という地区を走り抜けていきました。
まだ江戸川大学なる学校はありませんで沿道には、大きな鉄骨を横向きに何本も寝かせておいてある得たいの知れない工場や広大な森しか見えませんでした。


  
 平成の今、バスの車内から久しぶりに見た駒木は幼き日にみた光景より建物がぐっと増えています。
右側の建物のいくつはまだ自然の森のままの状態で、森と工場が交互に見えたものです。
 当時、駒木停留所へ来ると黄色いテント屋根に赤い暖簾の大衆食堂らしきものが道路右側に建っていました。
不粋で色数が少なく面白味を欠いた車窓の風景にささやかな彩りを添えていました。


  
 平成8年頃の『千葉県内乗合バスルート案内』には「駒木」の次に「駒木二番割」がありますがわたくしは全く記憶にありません。
昭和時代は無かったでのはないでしょうか。


  
 女の子は「駐在所」という停留所で「ありがとうございました」と言って運賃箱へ小銭を放り込んで降りて行きました。
今は「高田原交番」などと長々しい名前になってますが当時は鄙びた名前の「駐在所」停留所でした。


 そして場所も全然異なり、ずばりこの先の駐在所の前にありました。場所も名前も全然異なるのでただの移動ではなく、駐在所停留所を廃止し高田原交番停留所を新設したのかもしれません。
駐在所停留所は周囲もまたすこぶる鄙びていて露地栽培の畑とその農家、駐在所、その向こうには目隠しのように背の高い樹木が植えられていて米軍柏基地の鉄塔の先っちょが木々の上から覗いていました。
こんなところで降りて一体どこに住んでいる子なんだろう、と思いました。
周辺に商業施設など全く見られず、信号機もなく駐在所の「交番」という赤い表示灯がよく目立つ交差点でした。

 ここから初石駅まで私一人となったわけですが、運転士さんは乗った時からちらちらミラーでこちらを観察してくる子供好きそうな人で、車内が私一人になると急にいろいろ話しかけてきて終点まで2,3会話をしながら過ごしました。

「野田から柏まで1時間かけてバスで来た」「なんで電車じゃないの?」「いつもそうだから」「バス高いでしょ」「子供だからそうでもない」「お父さんお母さんなにも言わないの?」「内緒」「あ、そう、内緒か(笑)」といった感じでいろいろ身の上改めのような会話をしました。

 会話しつつも通過していくバス停の位置のチェック、どのような名前の停留所を過ぎると運賃表示器の幕が「ジー」と回り出すのかすなわち運賃区界停留所はどこか、運転席にある行路表はどうなっているか、などなどマニアックで忙しいチェックをなしておりました。
さぞかし気持ちの悪い子供に見えたことでしょう。


 八木局入口。場所は変わってませんが裏のファミマはなくドライブインのようなお店だったように思います。
あの日バスから見た出光のスタンドがあの日と同じ姿で残っていたので驚きました。

   
 小学校入口。今は八木北小学校入口という名前でどこの小学校のことを指しているのか一目瞭然ですが、かつては校名が付いていませんでした。
 八木北小学校は大昔、鏑木学校といって明治はじめに出来た流山初の小学校だそうです。
 バス停は昭和50年代にも見た学校と同じ名前の自動車整備のお店屋さんのそばにあります。
 昔は自動車屋さんの本当に真向かいに立っていてこれほど歩道橋に近くは無かったと覚えていますが、停留所の位置をずらしたかも知れません。

これから向かおうとする初石駅は野田線開通時には「八木」という駅名で開業予定でした。
次なる江戸川台駅は昭和時代開業なのでまだ存在せず、そのまた次の運河は「東深井」、梅郷は「山崎」、野田町は「野田」が駅名として開業申請されています。
このうち「東深井」を除いてすでに同一名義駅が関西に存在していました。

開通5ヶ月前の明治44年3月24日、告森千葉県知事から「柏野田間軽便鉄道停車場名称変更届」が桂太郎総理大臣へ提出され各駅改称。今日に至っています。
「東深井」が「運河」に変更なったのは、利根運河が桜の名所として東京にも知れていたから、とか水運至便な駅をイメージさせて利用増を図るためとか諸説あってよくわかりません。






 小学校前の次に「西原住宅」というバス停がありましたが、その途中に「西柏台」という昭和には無かったバス停が設けられていて江戸川台駅へ行くバスはここから北上しているようです。
流山と柏とは地続きの関係にあり、野田に比すればはるかに市境線がぐちゃぐちゃしていて、この県道は西へ行くと柏→流山→柏→流山と目まぐるしく行政区域が変わります。



今はなき西原住宅バス停も柏市に属するところにありましたが、この手押し信号そば、「セキチュー」の看板たもとあたりにオレンジ色の初石駅行きのバス停が立っていました。
この信号は昭和時代にもありました。
左のファミマはなく「スーパー○×」と看板を出した個人のお店だったと思います。
信号を超えてすぐの所にもなにか個人商店があって柏駅西口行きのバス停は商店と商店の間に位置していました。
こんな信号のそばにバス停があっても差し支えないほど車が少ない美しい時代が流山にも野田にもあったのです。


 あの日乗ったバスは西原住宅を過ぎていよいよ終点初石駅へ向かいますが駅手前の踏切に引っかかりました。
ここで踏切待ちの間に運転士氏との会話がまた始まりましたが、話題は先ほどまで乗ってた女の子の話になってしまいました。

可愛かったねとか「忍者ハットリくんに出てくるあの忍者に似てたな」「ケムマキ?男ですよ」「いやいや女の子」「それ忍者じゃないでしょー」「かわいいんだから隣に座って僕と一緒に映画見に行きませんかとか好きな食べ物なんですかとか言わなきゃだめだよ」「しないです、そんなこと」などとからかわれるような会話をいたしました。
まあきっと同じ年頃の子供を持つお父さんだったんでしょうな、あの人は。

私はまだ第二次性徴を迎える前で女の子がかわいいだなんだかんだと言われてもピンときませんでした。

しかしながら、バスに関して申せばわたくしが路線バスに興味をもった年齢が成人後でも学生時代でもなく、大脳の海馬の記憶細胞が一番みずみずしいと言われる第二次性徴期直前であったことはまさに天佑神助であったと思っています。
この時期にバスを知れば、『三つ子の魂百まで』と言いますように死ぬまでバスを利用する癖がつきます。
未知の土地へ行くとまず一番先に探すのがコンビニでもトイレでもなくバス停です。太川陽介か田中要次のように振る舞います。
この機を逸すると蛭子さんのような大人になってしまいます。ですからバス会社の皆様はぜひ子供、とくに一人で乗ってきた小学生がいたら大事にしてください。


 
開業時の東武ストア初石店と現在。
終点、初石駅のバス停はタクシー背後のクリーニング屋の前辺りにありました。
東武ストアの自転車置き場は当時はなく愛宕のヨーカドーにあったのと同じような焼き鳥や大判焼きを売る露天がありました。
現在のようにタクシーはなくバスはここで上る太陽に鮮やかにボディの青を照らしながら緑色の系統番号数字と薄青い高島屋のマークを方向幕に掲げて待機していました。

 昭和57年に柏08を乗った人はそれこそ数多いでしょうが、運転士とここまで会話したという人はまずおられないでしょう。
 数年ぶりに開催される東武バスフェスティバルが目前に迫った今、古き良き東武バスの記憶としてここに記した次第です。

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