みなさま、つつがなく給付金は振り込まれましたか?
わたくしの住む東京某区はどうしたことか未だ申請書どころかアベノマスクすら郵送されておりませんでまことに腹立たしい思いをしております。しかも区長は10万円給付を言い出したその某政党出身者だというからさらに頭にくる。
現代も未来も行政に期待できないならば過去のとある市役所の話をして思い残すことなく死んでいきたいと思います。
野田市は革新市政が20年も続く全国でも珍しい市でした。わたくしが前述の某政党に距離を置くのは幼時の市政が影響しているかもしれません。
あれは小学校入学を控えた遠い遠い昭和の御世、サングラスでひげもじゃなおじさんが歌う「およげたいやきくん」という子供向け歌謡が幼稚園でもどこでも大ヒットしていたあの日、わたくしは母に痛いくらいにぎゅっと手を握られてバスを待っておりました。
バス停の近くには物心ついた頃からずっと白いホーロー看板がありました。
看板には大きくて赤い手裏剣のような変ちくりんな形をした模様とごちゃごちゃ文字が書かれていましたが就学前のわたくしにはその看板が看板であることすらわかりませんでした。
バスは野田市駅行きでした。この行先のバスに乗るときは間違いなく愛宕のヨ―カドーへ買い物に行くので2階おもちゃ売り場でプラレールが見れるのが楽しみでした。しかしその日はわたくしの記憶が確かならばヨ―カドーへ行く前にまず野田市役所へ立ち寄りました。
バスに乗っかってどこをどうして市役所へ行ったか覚えてませんが、母が窓口のいかにも田舎小吏らしいドボ眼鏡で愛想のない今話題の「チー牛」のような面構えの職員の男と二言三言話すと、窓際の背もたれのない黒シート張りのチープな長椅子に母子ともに座って呼ばれるのを待ちました。窓の外を見て待ち時間をやりすごそうにも市役所の窓はステンドグラスのようなあるいは摺りガラスのような妙に凸凹のはげしい表面をした外の様子が見えないうす暗いガラス窓でした。野田に限らず市役所に子供の興味をひくようなものなどどこにもないのは今も昔も変わりません。
さて、市役所が退屈なわたくしは外の明るい方へとフラフラ歩きだしました。「変なとこ行っちゃだめよ」と母の声が聞こえましたが夏の夜の火に入る羽虫のようにわたくしは体の大きい大人たちの隙間をすり抜けて陽光明るい外へ出ました。
市役所の外は屋内より明るく、道路挟んだ向かいには市役所よりもずっと背の高い野田消防署の巨大な鐘楼が建っていました。大昔の山本直純のCMを引用するまでもなく男の子は大きいことはいいことですから鐘楼を根っこから先端まで凝視していると視界は突然やはり巨大なバスに遮られました。
バスは信号待ちで止まっていましたがその大きなどてっぱらにはバス停でいつも見かけるホーロー看板と同じマークの広告板が付いていました。
このキノエネ醤油の社屋がなんとこのほど国の『登録有形文化財』になったということでこれは非常に目出度いことです。
その文化財に指定されると修理するときにいくばくかの補助が国から下りるそうで10万円すらまだいただけないわたくしとは扱いが全然ちがう。それはともかく電通とパソナには769億円払って有権者には10万円も出さない政府から「これはよいものだから大事にしなさい」と言われたことは大変名誉なことであって、幼い頃キノエネ醤油の看板のついたバスに乗っていたことが何か価値あるもののようにも思えてわたくしもひとかたならぬ喜びを感じるところです。
大正10年、野田町一体にひろがるおびただしい醤油蔵。(『醤油のしるし』 野田市郷土博物館編)。
左の板壁の白いトレードマークは「クシガタ」という醤油の商標で醤油醸造家・茂木七左衛門氏のものです。キノエネ醤油の創業家・山下家はクシガタ醤油から枝分かれした茂木七郎衛門なる人から蔵を借り受け江戸時代に「白木」という商号で醤油醸造を始めたそうで、明治20年野田醤油醸造組合に参加し野田商誘銀行や野田人車鉄道の取締役も務めました。大正3年醸造組合によって設立され後にキッコーマンに移管された「野田病院」の初代院長には山下家から輩出した医学士・山下兵次郎氏が就任しています。
(『目で見る野田・流山の百年』郷土出版社)
やがて大正の御世となり、肥大化した組合組織が野田醤油株式会社へと発展的解消したさい会社経営には加わらず山下家独自の道を歩み、昭和11年に「キノエネ醤油合名会社」を設立しました。
キノエネ醤油は名匠小津安二郎監督と縁戚関係にあることでも知られておりかつて「アド街ック天国」に野田市が出た時13位で紹介されました。
小津監督はカラー作品では赤色を大切にしたそうですが「秋刀魚の味」の一場面に赤いキノエネマークの看板を使っています。秋刀魚がより美味しくなりますね。
また時を戻しますが昭和28年4月15日付「読売新聞」千葉県版に千葉県長者番付の記事が載っています。「長者番付の半分が醤油業者だ」と書かれています。堂々1位が昆布を仰山使ってるヤマサ醤油・浜口儀兵衛氏で2位に野田醤油・茂木順三郎氏がいます。残念ながらキノエネ醤油の名前はありませんが、この紙面を下まで見ていくと・・・・・・
いかなる記事よりもドでかくキノエネ醤油が載っています。また昭和30年『暮しの手帖』誌上の製品テストで「醤油」の最高得点品として紹介されたところたちまち全国から注文が殺到して関西に出張所を開設しています。関西方面に需要のある「白醤油」の生産量が年5000キロリットル超でシェア全国一。関東でも天ぷらチェーン「てんや」の天つゆ・丼たれの製造元として知る人ぞ知るところであって、秋葉原の中央通りにあるてんやに初めていったとき馴染み深い「子」マークのキノエネの醤油差しがカウンターに置いてあるのを見て驚くとともにバスにひっついていた巨大な広告板を懐かしく思い出したものです。
キノエネ醤油は旧市役所から歩いてものの1分ほどのところにあります。この看板の辺りにかつては「千葉塩業 野田営業所」という看板もあったような気がします。ちょっと前にTVでやってた「ドリームマッチ」の渡辺直美の“醤油の魔人”にキッコーマンが反応したそうですがもし塩の魔人の出番があったらキノエネ醤油が喜んだかも知れません。背後のマンションの場所もやはり醤油工場だったところですがただしキノエネではなく、キノエネと同じくらい黒っぽい色をした壁のキッコーマンの分工場でした。駅前ほどではありませんがバスの中に醤油の匂いがぷんぷんと入ってきたものです。
このマンションはローズハイツといい百貨店の「高島屋」が販売した分譲マンションです。子供の頃マンションなんて東京にでも行かないと見れない建物だと思っていました。完成前に野田営業所の東武バス車内に販売広告が掲示されていて、小学生になって一人でバスに乗っていると「なんだ?『高島屋マンション』もう完成すんのか」などと話す乗客の声が聞こえてきました。
(『目で見る野田・流山の百年』郷土出版社)
(野田市制35周年記念『ふるさとはみどり』)
かつて東武バスが走っていた時アナウンスは野田市役所のことを野田をつけずに「市役所」とだけ言っていました。それは野田市民としてちょっぴりうれしさがこみ上げる瞬間でした。なぜならば越谷市や松伏町の人も乗っていたバスで野田をつけずに市役所だけというのは、広島県の人が広島焼きを広島焼きというと怒り出し「お好み焼き」というのとちょっと似て、市役所と言えば越谷でも松伏でもなくただ野田市役所ひとつのことである、このバスは越谷でも松伏でもないただひとつ野田の路線バスなのである、とバス自ら高らかに宣言しているような気がして野田市の小学生であることが他市の小学生であることよりも幸いなことであったように感じたのです。
そしてそれゆえに、子供の頃の物心両面がすっかり失われた現在の野田市と野田市役所をわたくしは生まれ故郷のあるべき姿として未だにアクセプト出来ず、ことあらば市役所移転前の古い時代ばかり語りたがるのです。若い頃、年寄たちは理由なく昔話をする生き物だと思っていましたが今この齢になって初めて、昔話をなぜするか、それはしなければならない理由が人それぞれにあったからだ、と思うようになりました。
キノエネ醤油と市役所は近接していましたから市役所前の電柱には「子 キノエネ醤油 このサキ」という巻看板が付いていました。看板の「子」は自宅近所のバス停のとは異なりなぜか黒文字で書いてありました。久方ぶりに聞いたキノエネ醤油の名はまたわたくしを幼稚園児か小学5年生に戻してくれるような気がいたします。
コロナ渦でなかなか故地野田を訪れることができません。東京の駒込駅前の神社にはキノエネ醤油の献灯があります。これを見上げているとかつて小学生が誇りをもってバスの窓から眺めていた、そして今となっては二度と戻ってこないあの日あの時の市役所の姿がその背後に見えるような気がするのです。
お読みいただきありがとうございました。
わたくしの子供の頃はキノエネの看板が近所のあちこちにありましたので、
キッコーマンに比してもそれほどの中小企業感を感じずに見ておったものです。
かつてTBSラジオで昼前頃にOAしてた毒蝮三太夫の東食ミュージックプレゼントでは
永谷園、ソントン食品、日東紅茶と並んで必ずキノエネ醤油の名も読み上げられていたのをご記憶でいらっしゃるかも知れませんね。
子供の頃地元江戸川のスーパーに置いて有りました。
16才になってバイクで野田に行ったところ、
看板と社屋を発見し、野田の会社だと知りました。
江戸川では良く見かけた醤油でした。
埼玉やら 今住んでいる栃木では全く見かけません。
江戸川では売値がキッコーマンやヒゲタ、ヤマサより安かったので、
貧乏な我が家では常にキノエネでした。
しかし味もかおりもとても良く、他社に全くひけをとらない。
むしろ買い得な大変良い品物と思っておりました。
今住んでいる栃木では全く売っているのを見ません。
千葉出身なのに女房はキノエネを知りませんでした。
今度野田にドライブに行ったら
置いて居るお店を探して買います。
昔のように赤いラベルに黒でキノエネと書いてあれば
すぐに見つかるでしょうか。
それともラベルの色は変わったかなあ。
そして家族に教えて味わってもらおうと思います。
大企業に負けずに頑張っている中小企業を応援したいです。
キノエネさんにはいつまでも頑張って欲しいです。
縦型(櫛の歯型)と言えばいいのか、特異な形状だと思いました。
あまり行ったことがないのですが、昔からあのような形状だったのですかね。
綾瀬駅、新潟駅もこんな形状だったと思います。