今月は、本幹に参加しました。
関西総会でしたね。
アメリカSGIの方々の生命力には圧倒されました。
選挙と新聞の団体には無い歓喜があふれていました。
アメリカSGIの愛唱歌もよかった。
悠然たる曲調のなかに凛呼たる響きがあって、
覚えて歌いたくなりました。
日本の学会歌は、ちょいちょい新調されますが、
軍歌よりちょい進歩しただけの、昭和30年代の「モダン」をいまだに踏襲し続けるのはなぜでしょうか。
誰も口ずさむことなく消えていきます。
信心は強盛でも、心に響かない歌は歌えないのでしかたない。
池田先生が会長を辞任する一幕を、
再現VTRにしたものが放映されました。
池田先生の辞任の一報を聞いて、全員が、悔しさと怒りに震えた、
みたいに描かれていましたが、
そんなわけはありますまい。
創価学会の首脳幹部の総意によって民主的に会長の座を追われた池田先生のことを、
聖教新聞および全ての学会幹部たちは、「会長勇退」と表現し、
広宣流布をさらに発展させるため、池田先生が自ら望んで「勇退」されたのである、
と、周知徹底しました。
もちろん、ごく一部に、宗門の陰謀を見て取ったすごい人もいて、
その人の経験談によると、
「勇退」を否定し、池田先生が「辞めさせられた」と語ることを、
謗法であるかのように否定され、げきおこの幹部とマンツーで何時間も説教されたそうです。
僕も、日顕が馬脚をあらわすまでは、
少年少女部員会や、中等部員会で、
創価学会の歴史を学ぶとき、必ず「勇退」と教わり、
世界広布へと羽ばたくため、池田先生は計算づくで「勇退」されたのだ、
と教わりました。
そしてそう信じていました。
創価学会がそんなザマであったこと、
創価学会員が創価学会によって都合よく統制されていたことを、
ちゃんと事実として伝えないといけないのではないでしょうか。
とても重要な歴史であると思います。
あとから事実を塗りかえるのはよくない。
長くなってしまったのでこのへんでおわります。。
関西総会でしたね。
アメリカSGIの方々の生命力には圧倒されました。
選挙と新聞の団体には無い歓喜があふれていました。
アメリカSGIの愛唱歌もよかった。
悠然たる曲調のなかに凛呼たる響きがあって、
覚えて歌いたくなりました。
日本の学会歌は、ちょいちょい新調されますが、
軍歌よりちょい進歩しただけの、昭和30年代の「モダン」をいまだに踏襲し続けるのはなぜでしょうか。
誰も口ずさむことなく消えていきます。
信心は強盛でも、心に響かない歌は歌えないのでしかたない。
池田先生が会長を辞任する一幕を、
再現VTRにしたものが放映されました。
池田先生の辞任の一報を聞いて、全員が、悔しさと怒りに震えた、
みたいに描かれていましたが、
そんなわけはありますまい。
創価学会の首脳幹部の総意によって民主的に会長の座を追われた池田先生のことを、
聖教新聞および全ての学会幹部たちは、「会長勇退」と表現し、
広宣流布をさらに発展させるため、池田先生が自ら望んで「勇退」されたのである、
と、周知徹底しました。
もちろん、ごく一部に、宗門の陰謀を見て取ったすごい人もいて、
その人の経験談によると、
「勇退」を否定し、池田先生が「辞めさせられた」と語ることを、
謗法であるかのように否定され、げきおこの幹部とマンツーで何時間も説教されたそうです。
僕も、日顕が馬脚をあらわすまでは、
少年少女部員会や、中等部員会で、
創価学会の歴史を学ぶとき、必ず「勇退」と教わり、
世界広布へと羽ばたくため、池田先生は計算づくで「勇退」されたのだ、
と教わりました。
そしてそう信じていました。
創価学会がそんなザマであったこと、
創価学会員が創価学会によって都合よく統制されていたことを、
ちゃんと事実として伝えないといけないのではないでしょうか。
とても重要な歴史であると思います。
あとから事実を塗りかえるのはよくない。
長くなってしまったのでこのへんでおわります。。
都合よく統制
するどい指摘ですね
勇退当時の記憶は全く残っていませんが、学会員は信じることのスペシャリストなので、よくも悪くも、都合よく統制しやすいのではないでしょうか?
しかし、統制される方にも問題があるのではないでしょうか
ネットで様々な情報が入手でき、自分なりに深堀できる時代ですしね
とは言え、ネットに疎い世代は、身近な会員、幹部からの情報で判断するしかないでしょうから、都合よく統制されてしまうのでしょう
誠実な人ほど鋭く見抜いて、自分の納得した範囲で、楽しく学会活動できるようになるといいですね
僕の印象では、学会員の方々は、幹部から話を聞くとき、最初からそれを信じようと決めて聞いている、という感じがします。
どう考えればいいかわからないので、幹部に聞いて、それをそのままインプットする、という。
それは、ある種の善意とか謙虚さのあらわれだと思いますが、一方で、自分の頭で考えることを怠る、怠惰な姿と言えるかも知れません。