天晴れ(あっぱれ)な空☆

和風を好む私の徒然に日々想うことを綴る日記。いとおかし。

あれから7年。

2008年09月12日 | ひとりごと


今日は9月11日。

あの大悲劇からはや7年。

あの時、どこにいて何をしていたか。

いまだにハッキリと覚えている。

生涯で最大級の衝撃だったから。

にわかには信じることができない、そんなニュース映像であった。

仲間には実際に現場に行った人もいる。

やはりそこには惨劇の足跡だけがあったと教えてくれた。


あれから7年。

世の中は殺伐とするばかり。

お地蔵さんの姿などを拝み

まっとうな世の中になることを祈るのみ。





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幕末維新の理解

2008年09月11日 | もののふの本
『会津藩vs長州藩』
なぜ“怨念”が消えないのか
(ベスト新書)

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
明治維新の前夜、会津若松で激しい戦闘があった。
薩摩、長州の両藩を主力の新政府軍と、会津藩を含む奥羽越列藩同盟軍が戦った
戊辰戦争は、会津若松城下の戦いが最大の激戦となり、白虎隊ら多数の会津藩士が
命を落とした。会津藩の死者は数千人ともいわれ、戦闘は残酷を極めた。
その怨念は深く、百三十数年以上たった今日に至っても関係修復は図られていない。
この本は会津と長州の和解を念頭に、双方に横たわる根本問題を追い、
今後の展望をシミュレーションしたものである。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 会津藩とはなにか
第2章 長州藩とはなにか
第3章 新選組登場
第4章 会津と長州の激突
第5章 大どんでん返し
第6章 会津戦争は引き分け
第7章 和解への道

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
星亮一(ホシリョウイチ)
1935年、宮城県仙台市生まれ。
東北大学文学部国史学科卒、福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長を経て作家。
この間、日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程修了。
『奥羽越列藩同盟』で第19回福島民報出版文化賞を受賞、
またNHK東北ふるさと賞を受けている。



会津と薩摩と長州と。

幕末維新を理解するのは簡単ではない。

この3藩に朝廷・幕府・外国勢力を加えて

ひも解かないと英雄物語の側面ばかりが強調される。

悲劇や誤解や不明なことがたくさんある。






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なぜ袂を分かったのか

2008年09月09日 | もののふの本
『会津藩vs薩摩藩』
なぜ袂を分かったのか
(ベスト新書)

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
戊辰戦争での長州藩の仕打ちは、今も会津人に怨念を抱かせる。
だが、“長州憎し”と声高に叫ぶ多くの人々も、会津藩に温情を施した薩摩藩に話が及ぶと、
とたんに穏やかな顔になる。長きにわたる会津と長州の戦いに和解の道があるとすれば、
薩摩を仲介役にし、三者膝詰めでの話し合いにあろう。
本書は、会津と薩摩両藩の蜜月時代から戦争に至るまでの関係をひも解きながら、
戊辰戦争の裏側を描いていく。ふたたび、会津を救うのは薩摩であるかもしれない―。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 会津落城―薩摩藩の温情
第2章 都の守り人―京都守護職就任
第3章 西国の雄―薩摩という国
第4章 京を死守すべし―会津・薩摩の蜜月
第5章 寝返った友藩―薩長同盟成立
第6章 非情なる運命―会津藩VS薩摩藩

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
星亮一(ホシリョウイチ)
1935年、宮城県仙台市生まれ。
東北大学文学部国史学科卒、福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長を経て作家。
この間、日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程修了。
『奥羽越列藩同盟』で第19回福島民報出版文化賞を受賞、
またNHK東北ふるさと賞を受けている。


会津・薩摩・長州。

著者の星亮一さんの著作はとても興味深いものが多い。

幕末の傷跡はまだまだいたるところに残っている。

そう思わずにはいられない。






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上杉憲顕の墳

2008年09月07日 | もののふの地


上杉憲顕(憲秋とも)は氏憲の子。
享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と分倍河原の戦いに会戦、
深手を負い高幡寺に入り自刃した。

自然石はその墓標で、俗間信仰に茶湯石(服石)と言い、
百か日忌払い供養の伝承がある。(鎌倉大草紙)


分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、
室町時代後期の享徳4年(1455年)1月21日・1月22日に、
武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、
足利成氏率いる鎌倉公方勢と上杉顕房率いる(総大将は在京の上杉房顕)
関東管領勢との間で行われた合戦である。

この戦いをきっかけに応仁の乱と並んで室町時代最大の戦乱といわれる
享徳の乱の幕が開かれる事となった。



高幡不動の境内にある。

何度か供養の模様を目にしたことがある。

600年近く経過しても供養が続いていることに

なんとも言えない感動を感じたものだ。





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敦盛(あつもり)

2008年09月06日 | 武士(もののふ)


思へばこの世は常の住み家にあらず

草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

金谷に花を詠じ、栄花は先立つて無常の風に誘はるる

南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ


幸若舞 敦盛(あつもり)




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