すみこのツブログ

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「私は無価値だ」という妄想の功罪

2018-05-09 22:35:38 | 私の仕事
前回の投稿を読んでくださった複数の方から­­­「自分が無価値だ」と思っているから理想が高くなる、理想が高くなるから更に自分の無価値感が増す­­­という構造が、まさに自分に当てはまるという感想を頂戴しました。

それもそのはず、この無意識的な心理構造は潜在意識が私たちを守るために作り上げる自己防衛用のプログラムの最も普遍的な常套手段ですから。

今日はこのことについて、少し紐解いてみたいと思います。

おぎゃあと生まれた瞬間から、私たち人間の潜在意識は、自己保存・自己防衛のためのプログラムを作ります。

安全この上なかったお母さんのおなかからポンと外に出たあと、すぐに立って歩きだす馬の赤ちゃんと比べると、人間の赤ちゃんはかなりな年数頼りなく非力です。確実に生き延びていくために、その場その場で、身体的および心理的な安全安心を確保するために、両親をはじめ周囲の大人から受け入れられ、愛され、面倒を見てもらわなくてはなりません。周囲から受け入れられ、守ってもらえるようにするために「今ここで自分に適切な行動は何か?」なんていちいち考えていたら間に合わないので、自分が周囲に受け入れてもらうために機能する対処法を、刺激P→反応Q、刺激S→反応Tという形で、自動的に反応できるようにプログラム化されます。

人間は、安全に生き延びるために、やらなければならないこと・やってはいけないことを無意識的にインストールされているロボットみたいなものだということもできるかもしれません。

チンバンジーと人間のDNAは99%共通だという話を聞いたことがあります。たった1%の違いで、おさるさんと私の差が生まれると知って驚嘆しました。でも、それ以上に愕然としたのは、DNAレベルでは全く違いがない人間同士なのに、会社の同僚と私はどうしてかくも分かり合えないのか!?ということ。(笑)

個人の違いは、多くの場合上記の自動反応プログラムの中身が違うことから生まれます。

その個人にとって最も重要なプログラムは3歳くらいまでの幼少期に形成されます。10歳程度までには、ほぼ8割程度が作られるそうです。当然、赤ちゃんにとってみれば、自分の生まれた家庭に浸透している価値観に従うことが、周囲の大人から受容されるための行動の指針になります。それ以外にも、幼稚園や小学校の時の先生やお友達とのかかわりの中から、どんどんプログラムが出来上がります。育った環境や幼少期の経験が異なれば、それがプログラムの違いとなって、私たち人間の多様性を作り出しているのです。

無意識化しているプログラムを意識化して言語化してみると、まさにそれらのプログラムがその人らしさを描き出しているのがよくわかります。

披瀝するのはちょっと恥ずかしいですが(笑)、私が抱えているプログラムの典型的なものはこんな感じ。

自立していなければならない(人に依存してはいけない)
誠実でなければならない(嘘をついてはいけない)
努力しなければならない(怠けてはいけない)
優秀でなければならない(できないことが有ってはいけない)
謙虚でなければいけない(傲慢になってはいけない)
責任を果たさなければならない(無責任ではいけない)
他者を配慮しなければならない(自己中心的ではいけない)

しかも、前回の投稿で書いたように、他者と自分を比較することで各基準のハードルは上がり続けます。

これを全部完璧に満たすことが、私が理想の私になることなのですが(笑)、落ち着いて考えれば、スーパーマンでもない限りそんなの全く不可能。いつもやろうと思っているのに全然できなくて、いつもできないと感じているから、いつでもそこに向かってエネルギーを注ぎ続けてきました。すべては無意識的に。

まだ明晰な言語を獲得していない0歳~3歳くらいのときに作られたプログラムは、なかなか意識化されることがありません。意識化するには言語で表現する必要があるからです。

大人になるにつれて言語力や自己観察力が身についてくると、私たちは様々な局面で自分が大事にしている価値観を認識する(=意識化)するようになります。
しかし、多くの場合、自分の力で意識化できるのは非常に表層的な部分だけ。もともと内省的な傾向が強い方でも、コーチの力を借りることで、より深い部分まで意識化することが可能になります。そして、自分のプログラムを意識化できたとき、はじめてそこから自由になる可能性が拓かれます。

コーチングをしていて、クライアントさんが何らかの課題にぶつかってうまくいかないと感じておいでの時、そこにあるのは物理的な障害ばかりではありません。多くの場合、無意識的に心理的な障害を感じておいでです。「心理的な障害」というとつかみどころがないようにも感じられますが、別のいい方をすれば、それは「妄想」です。

無意識化された「〇〇でなければならない」、「△△をしてはいけない」といった自動反応のプログラムが、私たちの発想をゆがませ、あたかもそこに障害があるかのように妄想を見せます。

「〇〇でなければならない」のはなぜですか? 
コーチとして、私は注意深く集中して質問し、傾聴します。
これまで探求したことのない無意識下に沈潜し、クライアントさんが答えを探ります。
「そうしないと、△△になってしまうからです」。
また私は尋ねます。「△△になってしまうと、どうなってしまうと思っているのですか?」

出発点の「〇〇でなければならない」は千差万別、人それぞれですが、クライアントさんとの誠実で慎重な、そして理知的な探求の協働作業の先に・・・普遍的な深海の海底まで降り切ったとわかる瞬間があります。

「そうなってしまうと・・・私の存在価値がなくなってしまいます。」

更にお伺いします。

本当にそうですか? 
全く例外なく、どんな時も、いつでも絶対にそうですか? 

こうした特別な探求をしない限り、私たちは「〇〇でなければならない(しなければならない)。さもないと私には価値がない」という妄想を、あたかも真実であるかのように思い込んで、ずっとずっとそのパラダイムの中で生きていることにほとんど気づくことがありません。

そうだからこそ、私たちは価値ある人間になろうとして必死にもがき、経験を積み、リソースを身に着け、成長していきます。プログラムが妄想を見せてくれるおかげで、私たちはしっかりとした大人になれるわけです。

しかし、その一方で、妄想が過剰になりすぎて、自分自身を苦しめ視野狭窄を生み出し、ありもない障害があるかのように思い込まされることもあります。

「〇〇しなければならない。さもないと、私の存在価値がないから。」

少なくとも私は、そして私が過去にかかわらせていただいた方々も、このレベルの気づきを得たとき、深いところで何かが変わります。
 


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