5月の中旬のある日、家の近所の街路樹や道端の植え込みに新緑のエネルギーがイキイキとみなぎり始めたころ、自分の意識の焦点がある特定のことに吸い寄せられていました。
どこを見ても気になったのが、植え込みの新芽の伸び方の差です。
同じ株で、同じように日が当たり、同じように水をもらっているはずなのに、なんでこうも伸び方が違うんだろう?
とある植え込みの株に、一本だけ突出してニョキニョキと・・・
明らかに他の枝よりも太く強く長く伸びている枝がありました。
この株にとっては自然なことなんだろうけれど、この枝だけがなぜこうも異質なんだろう?
明らかに他とは違う、注目をひく特別な存在。
だからこそ、全体と調和しているとは言い難く、悪目立ちする。
他の枝に比べて風当たりも強く、この状況が続けば真っ先に剪定の対象になります。
まさに今、自分はこの枝みたいだと・・・なんとなく切ない感覚を覚えました。
この枝しか見えていなければ、それが一株の植物の命を他の枝と分け合っているのだという理解はありません。
でも、株全体を視野に入れてきちんと見ることができれば、この枝は一株の植物のエネルギーを、ある意味アンバランスに、いわば独占的に消費していることは一目瞭然です。
同様に、私は一つのチームの一部なのだという理解に立てば、私は私一人の力で成果を上げられているわけではないとすぐにわかります。表立って形を成しているように見える私が、表に出ることのないメンバーから、目に見えるわかりやすい形で成果を上げてはいないメンバーから、有形無形の支援をもらっている事実に気づきます。
なんとなく感じていた孤独感は少し癒え、感謝とともに、彼らから託されたエネルギーをちゃんと活かして自分の役割を全うしようという気概が湧いてきます。
5月15日にこの写真を撮影したのは、「そうだよね・・・」と気づいて、その記念の意味を込めてパシャっとシャッターを押したくなったからでした。
でも、あの時は頭で、理屈で、わかった気になっただけだったということが、今日わかりました。
この数日のいくつかの出来事で、同じ気づきが全く異なる質感で、ドスンと体に響きました。
一株のエネルギーを分け合っている枝同士なら、自分が今ここで感じていることは、当然仲間が感じていることと全く同じはずなのに、そのことがわかっていませんでした。
仲間の苦しさを感じられていませんでした。
それどごこか・・・というか、そうだからこそ、
自分の痛みにも気づけていませんでした。
ゆがんだ認識から来る、孤独と怒りと悲しみが私を満たしていたのに、
体よくマヒして、自分には問題がないと思い込んでいました。
5月15日に感じた感覚も、今ここで感じている感覚も、言葉にすれば「切なさ」。
けれど、その質感は結構違います。
あの時は、「私の切なさ」。
でも今は「私たちの切なさ」。
やろうとしていることがなかなかできない自分のふがいなさ。
やれていたつもりなのに、いつの間にか無意識的に道をそれていたことに気づいたときの衝撃。
その痛みと悲しみをしっかり感じながら、それでも意思をもって、やろうとすることをあきらめない。
目指していることは同じ。
今感じている感覚も同じ。
でも、一人一人が乗り越えようとしている課題は、各々ユニーク。
この感覚を「切なさ」と呼ぶこともできるけれど、同時に静かな強さをも孕んでいるのがわかります。
今日からまた、私にできることを、一歩ずつ。
どこを見ても気になったのが、植え込みの新芽の伸び方の差です。
同じ株で、同じように日が当たり、同じように水をもらっているはずなのに、なんでこうも伸び方が違うんだろう?
とある植え込みの株に、一本だけ突出してニョキニョキと・・・
明らかに他の枝よりも太く強く長く伸びている枝がありました。
この株にとっては自然なことなんだろうけれど、この枝だけがなぜこうも異質なんだろう?
明らかに他とは違う、注目をひく特別な存在。
だからこそ、全体と調和しているとは言い難く、悪目立ちする。
他の枝に比べて風当たりも強く、この状況が続けば真っ先に剪定の対象になります。
まさに今、自分はこの枝みたいだと・・・なんとなく切ない感覚を覚えました。
この枝しか見えていなければ、それが一株の植物の命を他の枝と分け合っているのだという理解はありません。
でも、株全体を視野に入れてきちんと見ることができれば、この枝は一株の植物のエネルギーを、ある意味アンバランスに、いわば独占的に消費していることは一目瞭然です。
同様に、私は一つのチームの一部なのだという理解に立てば、私は私一人の力で成果を上げられているわけではないとすぐにわかります。表立って形を成しているように見える私が、表に出ることのないメンバーから、目に見えるわかりやすい形で成果を上げてはいないメンバーから、有形無形の支援をもらっている事実に気づきます。
なんとなく感じていた孤独感は少し癒え、感謝とともに、彼らから託されたエネルギーをちゃんと活かして自分の役割を全うしようという気概が湧いてきます。
5月15日にこの写真を撮影したのは、「そうだよね・・・」と気づいて、その記念の意味を込めてパシャっとシャッターを押したくなったからでした。
でも、あの時は頭で、理屈で、わかった気になっただけだったということが、今日わかりました。
この数日のいくつかの出来事で、同じ気づきが全く異なる質感で、ドスンと体に響きました。
一株のエネルギーを分け合っている枝同士なら、自分が今ここで感じていることは、当然仲間が感じていることと全く同じはずなのに、そのことがわかっていませんでした。
仲間の苦しさを感じられていませんでした。
それどごこか・・・というか、そうだからこそ、
自分の痛みにも気づけていませんでした。
ゆがんだ認識から来る、孤独と怒りと悲しみが私を満たしていたのに、
体よくマヒして、自分には問題がないと思い込んでいました。
5月15日に感じた感覚も、今ここで感じている感覚も、言葉にすれば「切なさ」。
けれど、その質感は結構違います。
あの時は、「私の切なさ」。
でも今は「私たちの切なさ」。
やろうとしていることがなかなかできない自分のふがいなさ。
やれていたつもりなのに、いつの間にか無意識的に道をそれていたことに気づいたときの衝撃。
その痛みと悲しみをしっかり感じながら、それでも意思をもって、やろうとすることをあきらめない。
目指していることは同じ。
今感じている感覚も同じ。
でも、一人一人が乗り越えようとしている課題は、各々ユニーク。
この感覚を「切なさ」と呼ぶこともできるけれど、同時に静かな強さをも孕んでいるのがわかります。
今日からまた、私にできることを、一歩ずつ。