1909(明治42)年小澤村(現・共和町小沢)に生まれる。
幼少のころより画家を志し、1934年東京美術学校
(現・東京芸術大学)に入学、藤島武二に師事。
1943年、文展(現・日展)特選。戦後早稲田中学校と
高等学校の教師を勤め、1951年、42歳で単身渡仏する。
パリに住んで40余年、芸術家のひしめくフランスで
認められた数少ない日本人。
妻子を日本に残し単身渡仏、貧しさとフランスの画家達
の力の大きさに打ちのめされながら、創作を続け、
ついにピカソの画商カンワイラーに認められ、1971年、
渡仏後20年目にしてフランス政府より「芸術文化勲章」
を受け、73年には「ベルギー国際展グランプリ」
75年には「パリ.クリティック賞」78年「ユーマン、
プログレ勲章」と、やつぎばやに各賞を受けた。
2000年12月4日、東京にて逝去。91歳。
以前、パブロ・ピカソの青の時代のエッチングのコレクションを観に
岩内町にある荒井記念館へ行った。
ここは岩内湾を見下ろす岩内スキー場の下にある
ビューポイントに建ち、散歩もできる庭園がある。
観光コースにもなっているようで、なかなか
風光明媚なところ。
そこで、たまたま西村計雄の作品も同時に展示していて
すっかりファンになってしまった。
とにかく今まで出会った事のないとてもスピード感
を感じる絵で、正直ピカソのエッチングよりインパクト
があった。
また、この荒井記念館からそんなに離れていない、彼の出身地
である共和町には西村計雄記念美術館がある。
田園風景を見渡す美しい丘陵地だ。
収蔵作品は約150点。
http://www.tokeidai.co.jp/musee/
幼少のころより画家を志し、1934年東京美術学校
(現・東京芸術大学)に入学、藤島武二に師事。
1943年、文展(現・日展)特選。戦後早稲田中学校と
高等学校の教師を勤め、1951年、42歳で単身渡仏する。
パリに住んで40余年、芸術家のひしめくフランスで
認められた数少ない日本人。
妻子を日本に残し単身渡仏、貧しさとフランスの画家達
の力の大きさに打ちのめされながら、創作を続け、
ついにピカソの画商カンワイラーに認められ、1971年、
渡仏後20年目にしてフランス政府より「芸術文化勲章」
を受け、73年には「ベルギー国際展グランプリ」
75年には「パリ.クリティック賞」78年「ユーマン、
プログレ勲章」と、やつぎばやに各賞を受けた。
2000年12月4日、東京にて逝去。91歳。
以前、パブロ・ピカソの青の時代のエッチングのコレクションを観に
岩内町にある荒井記念館へ行った。
ここは岩内湾を見下ろす岩内スキー場の下にある
ビューポイントに建ち、散歩もできる庭園がある。
観光コースにもなっているようで、なかなか
風光明媚なところ。
そこで、たまたま西村計雄の作品も同時に展示していて
すっかりファンになってしまった。
とにかく今まで出会った事のないとてもスピード感
を感じる絵で、正直ピカソのエッチングよりインパクト
があった。
また、この荒井記念館からそんなに離れていない、彼の出身地
である共和町には西村計雄記念美術館がある。
田園風景を見渡す美しい丘陵地だ。
収蔵作品は約150点。
http://www.tokeidai.co.jp/musee/
芸術センスが 人並み以下以下・・・どん底っです☆笑
美術館も行った事ないしな~。私と違って 姉はセンスあるんですよ。絵や字に関しては。
だから 今度そこに 一緒に行きたいな~。
一生絵のために 生き続けた人。カッコイイ♪
至難の技だよね。
やっぱり、人並み外れた情熱と才能が必要。
でも、特別うまくなくてもいいんだよ。
いい味を出せれば。それが一番難しいんだけどね。
なんにしても死ぬまで自分と闘っている人はカッコいい。
そういう生活が理想だったけど結局、
お小遣い程度しか稼げませんでした。残念。