例えば、「諸宗教の議会」という考えは19世紀の末、1893年のシカゴでの万国博覧会のとき生まれました。
その2年前には、ルター派、メソジスト、ユニテリアン、ユダヤ教のラビ・ヒルシュそしてシカゴのカトリック大司教フェチャン(Fechan)猊下より成る委員会が作られました。この委員会はすべての信仰の代表者たちに「1893年の博覧会で人類の宗教的調和の絵をこの世に贈るために」協力してくれるように招待し、宣言を公表しました。
「歴史上初の世界中の宗教の代表者たちを集めて会議を開き」「これらの様々な宗教の共通の宝である、基本的な真理の性質とその数とを面白く人々に見せる」ことを提唱しました。ギボンズ(Gibbons)枢機卿は「この諸宗教の議会の目的は真理を捜し求める人々に、様々な宗教のそれぞれの資格を示し、彼らがそれらの中から自分の良心に訴えるものを選ぶことが出来るようにするため」だと発表しました。言い換えると、政党の代わりに宗教がそれぞれ自分の綱領を自慢しあって選挙運動をさせる、と言うのです。しかし、選挙運動がそうであるように、投票者によいイメージを売らなければなりません。そこで、アメリカのカトリック信者はローマ教会の教義上のいくつかの教に関して沈黙を守った方がよいのではないか、と言う考えが心を奪うのです。
アメリカ人たちはフランスに来てフランスのカトリック信者にこう教えるのです。例えばギボンズ枢機卿はパリでこうお説教しました。「フランス人司祭はこの世代の人々にこの世代の言葉を話さない。彼らは昔のように話し世の中が変わったことを知らない人が住む遥か彼方の辺鄙な所から来たかのように見える。」
それに対して、アルチュール・ロト(Arthur Loth)というカトリックの素晴らしいジャーナリストがラ・ヴェリテ紙にこう勇敢に答えています。
「福音はすべての時代、すべての国々、すべての社会状態のために成された。…近代社会の教えは福音の教えと全く正反対である。…勿論、福音の宣教は、宣教する時と国によって相応しく適応される。しかし、我々の住む社会のように物質主義の社会のただ中において効果的であるために、聖職者とカトリック信者との行動は何よりもまず聖パウロの勧めから息吹を受けなければならない。この勧めは、フランスにおいてと同じようにアメリカにおいても相応しいものである。『“Nolite conformari huic saeculo.”この世代と妥協しないようにせよ。』」
1895年9月15日、教皇レオ13世は『諸宗教の市(いち)』という原理そのものを排斥し、ギボンズ枢機卿にこう書いています。「我は、『宗教問題、あるいは道徳問題を取り扱うために、カトリック信者が区別なく教会を離れたものたちと一つに集まる集会』をアメリカにおいて開催しようとしていることを耳にした。自分の信条(parti-pris)を省略し、カトリックの教えのいくつかの原理を忘却の彼方に追いやるその沈黙の事実にいかなる罪もない等と信じてはならない。これらのすべての真理は如何なるものであれ、その真理の創立者にして教師は同じ一人しかおられない。すなわち天父の懐のまします御独り子である。」
しかしそれにもかかわらず17日間、ギボンズ枢機卿は深紅の枢機卿の服を着け、ブラーマンは赤の服を身にまとい頭には緑のターバンを巻き、仏教とは白い衣を身につけ、中国人と日本人の僧侶は絹の服を身に纏い、人間の霊的・物質的幸福について自分のやり方で礼拝をして皆に見せていました。
その2年前には、ルター派、メソジスト、ユニテリアン、ユダヤ教のラビ・ヒルシュそしてシカゴのカトリック大司教フェチャン(Fechan)猊下より成る委員会が作られました。この委員会はすべての信仰の代表者たちに「1893年の博覧会で人類の宗教的調和の絵をこの世に贈るために」協力してくれるように招待し、宣言を公表しました。
「歴史上初の世界中の宗教の代表者たちを集めて会議を開き」「これらの様々な宗教の共通の宝である、基本的な真理の性質とその数とを面白く人々に見せる」ことを提唱しました。ギボンズ(Gibbons)枢機卿は「この諸宗教の議会の目的は真理を捜し求める人々に、様々な宗教のそれぞれの資格を示し、彼らがそれらの中から自分の良心に訴えるものを選ぶことが出来るようにするため」だと発表しました。言い換えると、政党の代わりに宗教がそれぞれ自分の綱領を自慢しあって選挙運動をさせる、と言うのです。しかし、選挙運動がそうであるように、投票者によいイメージを売らなければなりません。そこで、アメリカのカトリック信者はローマ教会の教義上のいくつかの教に関して沈黙を守った方がよいのではないか、と言う考えが心を奪うのです。
アメリカ人たちはフランスに来てフランスのカトリック信者にこう教えるのです。例えばギボンズ枢機卿はパリでこうお説教しました。「フランス人司祭はこの世代の人々にこの世代の言葉を話さない。彼らは昔のように話し世の中が変わったことを知らない人が住む遥か彼方の辺鄙な所から来たかのように見える。」
それに対して、アルチュール・ロト(Arthur Loth)というカトリックの素晴らしいジャーナリストがラ・ヴェリテ紙にこう勇敢に答えています。
「福音はすべての時代、すべての国々、すべての社会状態のために成された。…近代社会の教えは福音の教えと全く正反対である。…勿論、福音の宣教は、宣教する時と国によって相応しく適応される。しかし、我々の住む社会のように物質主義の社会のただ中において効果的であるために、聖職者とカトリック信者との行動は何よりもまず聖パウロの勧めから息吹を受けなければならない。この勧めは、フランスにおいてと同じようにアメリカにおいても相応しいものである。『“Nolite conformari huic saeculo.”この世代と妥協しないようにせよ。』」
1895年9月15日、教皇レオ13世は『諸宗教の市(いち)』という原理そのものを排斥し、ギボンズ枢機卿にこう書いています。「我は、『宗教問題、あるいは道徳問題を取り扱うために、カトリック信者が区別なく教会を離れたものたちと一つに集まる集会』をアメリカにおいて開催しようとしていることを耳にした。自分の信条(parti-pris)を省略し、カトリックの教えのいくつかの原理を忘却の彼方に追いやるその沈黙の事実にいかなる罪もない等と信じてはならない。これらのすべての真理は如何なるものであれ、その真理の創立者にして教師は同じ一人しかおられない。すなわち天父の懐のまします御独り子である。」
しかしそれにもかかわらず17日間、ギボンズ枢機卿は深紅の枢機卿の服を着け、ブラーマンは赤の服を身にまとい頭には緑のターバンを巻き、仏教とは白い衣を身につけ、中国人と日本人の僧侶は絹の服を身に纏い、人間の霊的・物質的幸福について自分のやり方で礼拝をして皆に見せていました。