聖ピオ10世教皇が今、この世界を見たら・・・
教皇庁諸宗教対話評議会
議長 フランシス・アリンゼ枢機卿
2002年灌仏会(花祭り)によせて
親愛なる仏教徒の皆さん
今年も灌仏会にあたって、教皇庁諸宗教対話評議会を代表し心からのお祝いを申しあげます。世界中の仏教徒の皆さんが喜びに満ちた素晴らしい祝日を迎えることが出来るようお祈りいたしております。
今このお祝いの言葉を述べながらも去年の9月11日に起こったあの衝撃的な出来事を思い出さずにはいられません。あの時以来世界中の人々が未来に関して新たな恐れを抱いています。このような恐れの最中にあって、未来に向けてより平和な世界の実現のため、希望をはぐくみ、そしてこの希望に基づく文化を築き上げるのは、善意あるあらゆる人々と共にキリスト教徒、仏教徒としてのわたしたちの義務ではないでしょうか。
今日、わたしたちは高度に発展した技術社会に生きています。この事実は、人間的価値観促進に関して様々な問題を提起します。このことについて皆さんと一緒に考えてみたいと思います。受胎の最初の瞬間から自然死に至るまでの各自の生命に対する権利は、人間的価値の中で疑いもなく最も重要なものの一つです。しかしながら、この生命に対する権利が、高度に進歩した技術に操作されると言う深刻なパラドックスともなっていると考えるべきです。このようなパラドックスは「死の文化」を作り出すまでになっています。そこでは、中絶や安楽死、または生命そのものに関する技術的実験行為が、あるところではすでに、また他のところではこれから法的にも認可されるだろうという事態にまで発展しています。何のとがもない無防備な生命や回復の希望のない病に犯された生命を死に追いやるような「死の文化」と何千という罪なき人々を虐殺するというあの9月11日のテロリズムとの間に何らかの相関関係を見出すことが出来るのではないでしょうか。双方とも人間の生命についての概念に起因するものです。
仏教の教えや伝統は、ありとあらゆるもの、たとえ何の意味もないように見えるものをも尊重しています。何の価値もないようにみなされるものに対してもこれほどの配慮を示すのであれば、わたしたちキリスト者が、神ご自身の似姿として創造されたと信じる人間に対してはどれほどの尊敬を抱くことでしょう。人間の尊厳とその権利は、確かに近年カトリック信者たちが関心を示す最も重要な問題です。生命の権利が、自然死に至るまで完全に保護され、かつ、人間の尊厳に相応しい具体的な生き方が出来るための必要条件が、すべて整えられるような「生命の文化」をカトリック信者と仏教徒は、共に手を携えて築き上げるべきです。これこそ「死の文化」を阻止し打ち破るための方策だと思います。
人間の生命に対する尊敬は、社会的な現実となる以前に人々の心の中にこそはぐくまれるものだというのが、わたしたちの共通の確信です。ここでわたしは、おそらく、自分たち自身が目の当たりにしたあの悲劇的な出来事に躓き、最もその心を痛めている若者たちに特別な注意を向けてみたいと思います。生命の尊重に向けての若者たちの教育は今日最も急を要する事柄の一つです。青少年たちの間で確固たる倫理的確信や生命の文化が何よりも価値をもつようにするために、若者たちの教育についてわたしたちはそれぞれの宗教団体を通じて分かち合いをすることが出来るでしょう。社会全体の中に生命の文化と倫理がなによりも大切にされるようになって、はじめて生命尊重の原理が社会の中にも法制度にも根づくのを期待することが出来るのです。
親愛なる仏教徒の皆さん、これが今年皆さんと分かち合いたかった思いです。すべての人々にとってより平和で幸福な世界をもたらすだろうとの希望をもって、共に未来に目を向けましょう。灌仏会おめでとうございます。
2002年4月8日 バチカンにて、
教皇庁諸宗教対話評議会
議長 フランシス・アリンゼ枢機卿
カトリック中央協議会訳
http://www.cbcj.catholic.jp/doc/romadoc/02hana.htm
フランスの大司教および司教たちに宛てた
シヨン運動に関する教皇聖ピオ10世の回勅
『私の使徒的責務』(1910年)
尊敬すべき兄弟たちへ
私の使徒的責務により、私は信仰の純粋さとカトリックの規律を完璧に維持するために目を配らねばなりません。この責務はまた、私が信徒を悪と誤謬から守ることを求めますが、それは特に悪および誤謬が魅惑的な言葉で提示される場合にとりわけ必要となります。なぜなら、こういった言葉遣いは、熱情的な感情と響きの良い言葉使いとで、あいまいな概念やどうにでも取れる表現を包みかくし、一見魅力的ですが、しかし実際は不幸な結果をもたらすことになることを追求させようと人々の心を燃え立たせるのが常だからです。
(・・・)さらに奇妙であり、同時に懸念と悲しみとを呼び起こさずにはおかないのは、カトリックと自称し、上で述べたような条件で社会の再編を図る者たちの大胆不敵かつ軽薄さです。彼らはカトリック教会の枠を越え出たところで、あらゆる所からの労働者と共に、たとえこれらの労働者たちがどんな宗教を奉じていてもあるいは一切奉じていなくても、たとえ信仰を持っていようともいなくとも、自分たちを互いに隔て分けてしまう宗教的および哲学的信念といったものを放棄し、反対に「その源を問わず広い心に根ざした理想主義と道徳的力」という互いに一致させるものを共有する限りにおいて、これら労働者たちと共に「愛と正義の支配」を地上に打ち立てることを夢見ています。
しかるに私たちがキリスト教国家を築くために必要とされた力、知識、超自然的徳を考えてみるとき、また何百万という殉教者の苦難、教会の教父ならびに博士たちの光、愛徳の英雄たちの献身、天から生まれた強固な位階秩序、天主の聖寵の大河、天主の知恵であり人となった御言葉、イエズス・キリストの命と精神によって建てられ、固められ、染み渡った全てを思うとき、そうです、これら全てを思うとき、新しい使徒たちが、あいまいな理想論と市民道徳を共通項に持って、カトリック教会がかつてしてきたことよりももっと良い業ができると夢中になっているのも見てぞっと震えます。彼らは一体、何を生み出そうとしているのでしょうか。かかる共同作業の結果として、何が生じてくるのでしょうか。それは単に言葉の上だけの幻想的な構築物に過ぎません。そしてその中には、誤って理解された「人間の尊厳」に基いた自由・正義・博愛・愛・平等および人間の発揚という言葉が混ざりながら映し出され、混沌のうちにも人の心を誘っています。・・・私はさらに悪い事態が生じはしないかと恐れます。あらゆる信条・主張の混合から最終的に生ずるもの、また、この世界市民的な社会活動から利益を被るのは、・・・カトリック教会よりも普遍的な宗教(なぜならシヨン主義とはシヨンの指導者らが述べるところによれば一つの宗教なのですから)であり、ついに兄弟、同志となった全ての人々を「天主の御国」において一つにまとめる別の宗教です。彼らは言います。「我々は教会のためにではなく、人類のために働く」と。今やあらゆる国々で企てられつつある世界統一宗教を打ち立てるために、ある大きな棄教的運動の中のあわれな一支流と化してしまいました。そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も無く、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、「自由」と「人間の尊厳」との名のもとに(もしもそのような「教会」が立ち行ってゆけるならば)合法化された狡知と力の支配する状態と、弱者および労苦するものらの圧迫を世界にもたらしてしまうだけでしょう。・・・
私たちの救い主の真の福音であると彼らが誤って信じた新しい福音へと彼らは運び去られてしまいました。・・・また必要なただ一つのことは、真の意味で社会の復興のために働く人たちの助けを借りて、フランス革命がうち砕いた過去の諸々の機構を再び採用し、それらを生み出したのと同じキリスト教的精神において、現代社会の物質的発展に由来する新たな環境にそれらを適合させることです。事実、人民の真の友は革命家でも革新派でもなく、伝統主義者なのです。」
1910年8月25日 ピオ10世教皇
教皇庁諸宗教対話評議会
議長 フランシス・アリンゼ枢機卿
2002年灌仏会(花祭り)によせて
親愛なる仏教徒の皆さん
今年も灌仏会にあたって、教皇庁諸宗教対話評議会を代表し心からのお祝いを申しあげます。世界中の仏教徒の皆さんが喜びに満ちた素晴らしい祝日を迎えることが出来るようお祈りいたしております。
今このお祝いの言葉を述べながらも去年の9月11日に起こったあの衝撃的な出来事を思い出さずにはいられません。あの時以来世界中の人々が未来に関して新たな恐れを抱いています。このような恐れの最中にあって、未来に向けてより平和な世界の実現のため、希望をはぐくみ、そしてこの希望に基づく文化を築き上げるのは、善意あるあらゆる人々と共にキリスト教徒、仏教徒としてのわたしたちの義務ではないでしょうか。
今日、わたしたちは高度に発展した技術社会に生きています。この事実は、人間的価値観促進に関して様々な問題を提起します。このことについて皆さんと一緒に考えてみたいと思います。受胎の最初の瞬間から自然死に至るまでの各自の生命に対する権利は、人間的価値の中で疑いもなく最も重要なものの一つです。しかしながら、この生命に対する権利が、高度に進歩した技術に操作されると言う深刻なパラドックスともなっていると考えるべきです。このようなパラドックスは「死の文化」を作り出すまでになっています。そこでは、中絶や安楽死、または生命そのものに関する技術的実験行為が、あるところではすでに、また他のところではこれから法的にも認可されるだろうという事態にまで発展しています。何のとがもない無防備な生命や回復の希望のない病に犯された生命を死に追いやるような「死の文化」と何千という罪なき人々を虐殺するというあの9月11日のテロリズムとの間に何らかの相関関係を見出すことが出来るのではないでしょうか。双方とも人間の生命についての概念に起因するものです。
仏教の教えや伝統は、ありとあらゆるもの、たとえ何の意味もないように見えるものをも尊重しています。何の価値もないようにみなされるものに対してもこれほどの配慮を示すのであれば、わたしたちキリスト者が、神ご自身の似姿として創造されたと信じる人間に対してはどれほどの尊敬を抱くことでしょう。人間の尊厳とその権利は、確かに近年カトリック信者たちが関心を示す最も重要な問題です。生命の権利が、自然死に至るまで完全に保護され、かつ、人間の尊厳に相応しい具体的な生き方が出来るための必要条件が、すべて整えられるような「生命の文化」をカトリック信者と仏教徒は、共に手を携えて築き上げるべきです。これこそ「死の文化」を阻止し打ち破るための方策だと思います。
人間の生命に対する尊敬は、社会的な現実となる以前に人々の心の中にこそはぐくまれるものだというのが、わたしたちの共通の確信です。ここでわたしは、おそらく、自分たち自身が目の当たりにしたあの悲劇的な出来事に躓き、最もその心を痛めている若者たちに特別な注意を向けてみたいと思います。生命の尊重に向けての若者たちの教育は今日最も急を要する事柄の一つです。青少年たちの間で確固たる倫理的確信や生命の文化が何よりも価値をもつようにするために、若者たちの教育についてわたしたちはそれぞれの宗教団体を通じて分かち合いをすることが出来るでしょう。社会全体の中に生命の文化と倫理がなによりも大切にされるようになって、はじめて生命尊重の原理が社会の中にも法制度にも根づくのを期待することが出来るのです。
親愛なる仏教徒の皆さん、これが今年皆さんと分かち合いたかった思いです。すべての人々にとってより平和で幸福な世界をもたらすだろうとの希望をもって、共に未来に目を向けましょう。灌仏会おめでとうございます。
2002年4月8日 バチカンにて、
教皇庁諸宗教対話評議会
議長 フランシス・アリンゼ枢機卿
カトリック中央協議会訳
http://www.cbcj.catholic.jp/doc/romadoc/02hana.htm
フランスの大司教および司教たちに宛てた
シヨン運動に関する教皇聖ピオ10世の回勅
『私の使徒的責務』(1910年)
尊敬すべき兄弟たちへ
私の使徒的責務により、私は信仰の純粋さとカトリックの規律を完璧に維持するために目を配らねばなりません。この責務はまた、私が信徒を悪と誤謬から守ることを求めますが、それは特に悪および誤謬が魅惑的な言葉で提示される場合にとりわけ必要となります。なぜなら、こういった言葉遣いは、熱情的な感情と響きの良い言葉使いとで、あいまいな概念やどうにでも取れる表現を包みかくし、一見魅力的ですが、しかし実際は不幸な結果をもたらすことになることを追求させようと人々の心を燃え立たせるのが常だからです。
(・・・)さらに奇妙であり、同時に懸念と悲しみとを呼び起こさずにはおかないのは、カトリックと自称し、上で述べたような条件で社会の再編を図る者たちの大胆不敵かつ軽薄さです。彼らはカトリック教会の枠を越え出たところで、あらゆる所からの労働者と共に、たとえこれらの労働者たちがどんな宗教を奉じていてもあるいは一切奉じていなくても、たとえ信仰を持っていようともいなくとも、自分たちを互いに隔て分けてしまう宗教的および哲学的信念といったものを放棄し、反対に「その源を問わず広い心に根ざした理想主義と道徳的力」という互いに一致させるものを共有する限りにおいて、これら労働者たちと共に「愛と正義の支配」を地上に打ち立てることを夢見ています。
しかるに私たちがキリスト教国家を築くために必要とされた力、知識、超自然的徳を考えてみるとき、また何百万という殉教者の苦難、教会の教父ならびに博士たちの光、愛徳の英雄たちの献身、天から生まれた強固な位階秩序、天主の聖寵の大河、天主の知恵であり人となった御言葉、イエズス・キリストの命と精神によって建てられ、固められ、染み渡った全てを思うとき、そうです、これら全てを思うとき、新しい使徒たちが、あいまいな理想論と市民道徳を共通項に持って、カトリック教会がかつてしてきたことよりももっと良い業ができると夢中になっているのも見てぞっと震えます。彼らは一体、何を生み出そうとしているのでしょうか。かかる共同作業の結果として、何が生じてくるのでしょうか。それは単に言葉の上だけの幻想的な構築物に過ぎません。そしてその中には、誤って理解された「人間の尊厳」に基いた自由・正義・博愛・愛・平等および人間の発揚という言葉が混ざりながら映し出され、混沌のうちにも人の心を誘っています。・・・私はさらに悪い事態が生じはしないかと恐れます。あらゆる信条・主張の混合から最終的に生ずるもの、また、この世界市民的な社会活動から利益を被るのは、・・・カトリック教会よりも普遍的な宗教(なぜならシヨン主義とはシヨンの指導者らが述べるところによれば一つの宗教なのですから)であり、ついに兄弟、同志となった全ての人々を「天主の御国」において一つにまとめる別の宗教です。彼らは言います。「我々は教会のためにではなく、人類のために働く」と。今やあらゆる国々で企てられつつある世界統一宗教を打ち立てるために、ある大きな棄教的運動の中のあわれな一支流と化してしまいました。そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も無く、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、「自由」と「人間の尊厳」との名のもとに(もしもそのような「教会」が立ち行ってゆけるならば)合法化された狡知と力の支配する状態と、弱者および労苦するものらの圧迫を世界にもたらしてしまうだけでしょう。・・・
私たちの救い主の真の福音であると彼らが誤って信じた新しい福音へと彼らは運び去られてしまいました。・・・また必要なただ一つのことは、真の意味で社会の復興のために働く人たちの助けを借りて、フランス革命がうち砕いた過去の諸々の機構を再び採用し、それらを生み出したのと同じキリスト教的精神において、現代社会の物質的発展に由来する新たな環境にそれらを適合させることです。事実、人民の真の友は革命家でも革新派でもなく、伝統主義者なのです。」
1910年8月25日 ピオ10世教皇