必要は記憶の母

2016年08月24日 | 日記




 元の話の文脈からはだいぶ外れちゃうけど、ニセ科学批判の意見のなかで時々見かける、「そんな知識は義務教育の理科か数学の中で習う範囲に入っているんだから知らないほうがおかしい」というのも、同じ理由で批判としてはちょっと筋が悪いかなーとは思っている。習ったばかりの小中学生の時には記憶に残っている知識だって、その後の人生の中で(応用的利用という間接的な形であっても)反復的に想起する機会がなければ、数年か数十年か経つうちに記憶から消え去るのは不思議ではない。
 もっとも、だいぶ前に別のところでこの話をしていた時には、「科学は個別知識ではなく“考え方”なのだから何年経とうが消え去るはずがない」と反論されたことがある。たぶんその人自身が、その“考え方”を義務教育終了後も何度となく反復していたから身についているだけなのだろうとは思ったが、その人の語調の中に、個別データならともかく科学の“考え方”を忘れるなんてあり得ないという、明らかにこちらを見下すというか哀れむようなトーンが見受けられたので、「この人の中ではそれが疑うべくもない自明なことなのだろうな」と思って、そこで話を打ち切ったという思い出がある。


サローヤン『我が名はアラム』

2016年08月16日 | 日記

 まだ最後まで読み終わってはいないけれど、サローヤンの『我が名はアラム』面白いね。一人称主人公が共通しているだけの、互いに独立した短編の連なりだけど、全体の構成からそこはかとなく「いずれ主人公も仲間入りするであろう、愚かで失敗ばかりの愛すべき人々から成るこの世の中」の肖像が浮かび上がってくる。前半では主人公アラム君の、視野が狭かったり偏見に囚われすぎている親類縁者が登場し、後半では学校の友達や教師などの社会的にアラムと縁のある人たちが描かれる。それぞれの短編のエピソードは独立していて、登場人物も複数のエピソードに共通して登場する人はいなさそうだけど、前半で描かれるアラムの身内の様々な愚かさのモチーフが、後半の諸エピソードでも少しずつ形を変えながら繰り返されることで、アラム少年が成長して少しずつ自分の生活の場を広げていっても、そこで立ち現れるのはやっぱり同じように愚かで失敗ばかりの人間であり、自分では気付かなくともアラム自身もまたその例外ではないのだ、という印象が浮かび上がる。
(とは言え、こういう読み方は昨今では「作者や監督が描いていないことを勝手に深読みするマン」として忌避されるんでしょうかね)
 ちなみに僕が読んでいるのは以前に(今は無き)福武文庫から出ていた三浦朱門訳版だけど、最近『僕の名はアラム』というタイトルで新潮文庫から新訳が出ているらしい。気が向いたらそっちも読んでみようかな。


細分化

2016年08月09日 | 日記

暴かれたネットの理想と現実。細分化された個を繋ぐfhánaの挑戦 ─ CINRA.NET 2016/8/8



 何だか印象的な話。ネット経由で世界へのリーチが拡大したらかえって人々が自分の現在の趣味の範囲内に閉じこもるようになった、という話は以前からちょくちょく目にしてはいたけれど。以前に一時期、そうした断片的に広がるネット上の人々や言説を横断的につなぐものとしての「キュレーション」概念が持ち上げられたりしたけど、それも結果的には共感ベースで偏見をさらに加速する「まとめサイト」文化に帰結しちゃったし。


 マイナーな趣味趣向(またはもっと真剣なマイノリティ文化)でも社会的に孤立することなく、比較的容易に仲間を見つけることのできるネット空間の意義は、今でも決して薄れてはいないと思うんだけど、その空間は同時に、偏見や排他の感情を速やかにマスに波及させられる機能も持っている。以前に某アニメ作品へのバッシングがネット上で過剰に拡大していった経緯を間近に見て、ネットの負の特性を否応なしに思い知らされたこともある。「馴染みの○○がいい、こんなのは嫌だ」は個人の感想としてはあっても不思議じゃないが、ネット上で大きな“ムーブメント”になるとまた別の話だ。


語彙

2016年08月02日 | 日記

 大衆に広く強く共有されるような「語彙」って、産み出そうと思って産み出せるものでもないからなぁ。かつて広く共有された「語彙」は、焼跡闇市B29といったリアル生活での全国規模の衝撃的な体験とその後遺症から生まれてきたものだし。段階的リセッションの時代には、めいめいが違った形や強度で抱く“漠とした不安”に由来する、雑多な「語彙」が乱立する感じになってもやむを得ないのかも、とは思う。


個人暴発とテロ

2016年07月27日 | 日記

 個人の暴発が、特定の属性を帯びた社会クラスタ全体への/からの攻撃という意味を、攻撃者の個人的・主観的信念として帯びるだけでなく、それを傍観する他者によっても(賛否の別はあれ)共有されうる事態……と捉えたらいいのかな。そう考えると、直接の組織つながりがないはずのローンウルフ的な襲撃が、そうした“集団的意義”を持つ行動として社会的に受容されてしまうような素地を作り上げたISの方針は、結果的に「テロリズム」概念を大幅に拡張したのかもしれない。


“深夜放送”ヨルナイト

2016年07月19日 | 日記

 三澤紗千香さんのヨルナイト月曜マンスリーアシスタント再登場に、何だか番組全体が“内輪に閉じていく”印象を受けてしまったのは否めないけれど、今まで鷲崎さんがヨルナイトやThe Catchの番組中や自著のエッセイあたりで語っていたことをいろいろ総合すると、今の鷲崎さんが(もしかしたら周囲のスタッフも)やりたいことってたぶん、リスナーの感じる親近感にもつながるようなある程度の心地よい“閉鎖性”をもあえて多少含んだ、昔ながらの深夜放送ラジオのノリを自分たちの手で作ってみたい、ということなのかもしれない。もちろん、これまでの鷲崎さんのレギュラー番組のような、声優・アニソン系アーティストのプロモーションの受け皿という側面が無くなったわけじゃないけど、今のところ純粋にその受け皿になっているのは毎週違うゲストが来る木曜くらいで、火・水は明らかにその枠から外れている。
 あえて関係者は誰も口にしないけどヨルナイトの番組企画時点で明らかに強く意識されていたであろう、まったく同じ時間帯の放送であるミューコミプラスの作り方と見比べると、「どこでミューコミとの差別化を図ったのか」という点で、そういう番組のカラーがより際立っているように思う。


「問題-解決」図式

2016年07月15日 | 日記

 複雑に組み合わさった社会の行為連関の中で進行する政治プロセスを、単純な「問題-解決」図式の束に落とし込んで、「問1の解法は?→答1のヒトラー方式で」「では問2の解法は?→答2のルーズベルト方式で」…みたいな一問一答で答えが出せると思い込んでしまっているのかな。実際には問1の答えを答1にした時点で、その後の問2や問3での答の選択肢が大幅に狭まったり、問4が「解無し」になったり、当初の問題集には無かった問5や問6が新たに発生したり……といったバタフライエフェクトがいくらでも生じてくるわけで。
 で、全てを完全に解決して後に何のバタフライエフェクトも残さない普遍的正解なんて、神ならぬ人間にはおよそ不可能なので、とりあえず経験的な積み重ねから「問1への解答を答1にするのは、一見よさげだけど後々かえってヤバいことになるんじゃね?」みたいな大まかな推測をしていくことになる。


デモンストレーション

2016年07月08日 | 日記

 一組織の代表者的立場ともなると、時にこうした対外的デモンストレーションも職務の一環に含まれてくるのよね……。どっかの某架空国家の大佐みたいに、「これでは道化だよ」とか自嘲的に思ったりする日もあるのかしら。


華氏

2016年06月17日 | 日記

 華氏とかヤードポンド法とか、アメリカは面白いところで歴史的経緯にこだわるんだなぁという印象がある。
 勝手な想像で書くけど、移民開拓者によって形成された歴史の新しい文化風土だけに、自分たちの関与していない過去の歴史の堆積には「そんな古いこと俺たちには関係ねー」となる一方で、日頃身近に使っている度量衡については「これは生活に密着した自然なものだから変えんじゃねー」ってなるのかな。抽象的な空理空論を嫌い自らの具体的な生活体験を重視するうプラグマティックな発想が、一方ではカトリシズムや王朝史のような古い神話的伝統からの解放をもたらし、他方では自分たちの経験に根差して定着した慣習に、それが外部世界との齟齬をもたらしたとしてもなお固執する、といった感じに見える。


『復活の日』の英原潜

2016年06月09日 | 日記

 映画『復活の日』を見返していて、ちょっと切なくなった台詞。いやこの作品全体が切なすぎる展開だらけではあるんだけど。

 MM-88感染者を乗せたまま南極上陸を強行しようとするソ連原潜T-232に割って入った英原潜の艦長。原文だと" Her Majesty's nuclear attack submarine Nereid, Captain McCloud at your service. "
 ここ、実際には艦名の名乗りをこんなに長くする必要はなくて、「HMS Nereid」だけで「英国軍艦ネレイド」であることは十分に伝わるし(艦名から潜水艦であることもソ連原潜側にはわかるはず)、そのほうがある意味リアルではある。恐らくはそういう言い回しを知らない観客を想定して、台詞をよけいに説明的にしてしまったのではないかと推測する。
 で、確かに見方によってはリアリティに欠ける部分ではあるんだけど、一方で「Her Majesty's~」(HMSのHM)という言い回しが入ることで、ネレイド号クルーたちの置かれている寄る辺ない状況を、さりげなく強調するような効果が生まれたように思う。何しろ物語中ではこの時世界中に「イタリア風邪」が蔓延して人類は絶滅の危機に瀕しており、ネレイド号の本来の主であるHer Majesty=英国女王も同じ運命を辿っているはずだ。主の「Her Majesty」は(恐らく)既にこの世にいないし後継者も絶えてしまったけれど、それでも今なお出航時に与えられた軍務に服している「Her Majesty's Ship」という、ネレイド号の置かれた立場の切なさを、この台詞の裏側に読み取るのもまた一興ではないかと思う。

(まあどう見ても原潜には見えないというお約束的ツッコミはさておくとして。『バルジ大作戦』だってどう見てもM47なやつを作中ではあくまで「タイガー戦車」として扱ってるんだからそれくらいいいじゃない)