私の大好きな友人の一人にキクちゃんという女性がいる。
彼女は1つ年上であるのだが、円周率を求めたくなる程のまん丸の顔に眉の上で綺麗に切りそろえた前髪、それから注意しても注意してもかがむ度にのぞかせる白い背中がいつも彼女を無邪気な中学生のようにみせている。
彼女といると私は必ず癒される。
暖かいものが極々自然と自分の中に流れ込んできて、じんわりと穏やかな心持ちになる。
あたかも胃袋らへんにホッカイロを貼ったかの如く。
そして気付く、ああ自分はしばらく心が固くなっていたのだと。
年齢を重ねるごとに、虚栄の鎧を着け始める人の多さに時折ひどくうんざりしてしまう。
例えば洗面所に行ったらたまたま床が濡れていて履いたばかりの靴下が濡れてしまった時もうんざりするが、恐らくあれの10倍はうんざりしているのだから相当なうんざり度数だ。
そうは言っても勿論私自身にも虚栄心があるだろうし、過去にそれで人を傷付けてしまったこともあるに違いない。
きっと誰にでもあえて鎧を着けて出なければならない状況があり、そうして守りたいプライドもあるのだと思う。
考えてみれば当たり前のことだし、もしかしたらそれも生きている人間の持つ未熟な魅力なのかもしれない。
分かっちゃいるが、分かっちゃいるが時々どっと疲れるのだ。
「僕はこういう系の人間なんです、アーティスティックでしょう?」
「話は変わりますが私はこんなに才能があるんです」
「ほらほら自分はこんなに幸せなんですよ」
「こんなに多くの知り合いがいるんです、あ、驚いたでしょう?」
凄いですねぇ、良かったですねぇ、いやぁあなたは実に素晴らしく素敵な人なようだ!
・・・そんな風に誰かに言ってもらいたい本心が見え隠れする言葉に出くわす度に、何か一つの問題を解決しなければその人と分ち合えないのだろうというような「面倒臭さ」を感じる。
「ああこの人は本当は自分に自信がないのだろうなあ」としみじみ思ってしまう。
洒落た小物や空間や、人がいいなと羨ましがるような体験を本当に等身大とする人は絶対にひけらかしたりはしないし謙虚であるはずだ。
何でもない自分をどうして恥ずかしいと思うのだろうか。
自分の幸せを見せびらかす前に誰かの幸せを素直に祝福することは難しいことなのだろうか。
結局は一人で死んでいくと言うのにそんなにも孤独が後ろめたいのだろうか。
教えてくれよ、ゴータマ・シッダルタ!!
けれどもその内彼らからさりげなくバリアを張るように心を閉ざす自分もまた重たい鎧をつけているのと同じであり、それに気付いた瞬間に毎度の如く、小林製薬の薬用歯磨き粉「生葉」(ひきしめ実感タイプ)よりも更に苦い厭世観が口中に広がる。
だがそんな時に限ってメールが来るのも何故だか決まってキクちゃんなのは一体どういうことなのだろう。
「バスに乗ったら目の前の子供が眠りこけちゃって、とっても可愛い!幸せ!」
「あなたの明日がまたいい日になりますように!」
茹ですぎたモヤシのような現代小説の、酔いしれた小手先のリズムとは全く違った温かな言葉を彼女は私にくれる。
キクちゃんは一切を自慢しない。
例えばどこだかの何という洋菓子が口溶けが良いのだとか、
どこそこのシャツは仕立てがよろしくて肌触りが格別だとか、
それ自体は素敵な情報に違いはないが、一旦透かして見てみると結局「それを知っている私」が紙幣のホログラムの如く浮かび上がってきて、アラアラ愉吉も漱石もビックリ!というような本当は取るに足らないちっぽけな見栄の一切を持ち合わせない。
また他人に自分をこう見せたいだとか、これが得意なんだとか、そうしてサイズに合わない表現をしてみせることも一切ない。
けれども私は彼女から本当の幸福の匂いが滲み出ているのを感じる。
彼女は紛れも無く自分自身の人生を生きており、そして圧倒的に豊かだ。
歩んできた道は決して平穏なものではなかったはずなのに。
以前彼女と温泉に行った時。
不細工な鎧を着けない彼女の肩は美しくなだらかで、湯に浸かりながら清々しく目の前に広がる山を見つめる彼女の目元には満ち足りたしわが1本ずつ、うっすらと影を作っていた。
縞模様を描く熱い湯の上に白々と浮かび上がっていたのは果たして私の安堵感か、彼女のまっさらな心か。
自分のためだけにやりたいことをやる限りの人生はきっと幼い。
他人のために心を燃やそうとする自分をスッと頭に描ける方がどれだけ満ち足りていることか。
進んでいったその先にあるものが「自分」でしかない生き方はひどくちっぽけで淋しいものに思えてならないのだ。
昨日はキクちゃんと郊外まで芋掘りに行った。
次々と数珠繋ぎで現れるサツマイモを手に、キクちゃんはまた中学生のように笑っていた。
私も笑った。
飾らない心はやがて伝染し、輝かしい尾びれをもってひらひらと周りの人を幸福にしてゆく。