池田 悟≪作曲家≫のArabesque

・・・深くしなやかに・・・(音源リンクしてます)

逆算の前奏曲

2006-02-19 | 作曲/全般

作曲する場合、必ずしも先へ先へ進めるのではなく、その前に何かあったらもっと映えるだろうと逆算し、後になって前の部分を作ることはよくある…「お膳立て」を付け足すような…。
有名な例ではドヴォルジャークの「交響曲第8番」のフィナーレ。変奏曲のテーマが出る前のトランペットの序奏は、スケッチの段階では無かったそうだ。

拙作でも、ヴィオラとピアノのための「ミラージュ」では、元々ヴィオラのソロで開始するつもりだったが、そういう始まり方はありきたりだと思い、後からその前に対照的なピアノの前奏を作った。その結果、リハーサルでヴィオラが登場した時、ピアニストの藤井一興氏は、前奏の柔らかなピアノのソロに比べ、あまりにも強烈なヴィオラの出だしに驚いたのか、ヴィオラの百武由紀氏にクレームをつけたそうで、ヴィオラは楽譜の指定を守らず、弱い音で開始していた(その誤った解釈は私が直した)。ちなみに、藤井氏は本番前日、高熱を出し、寝込んだそう…。
また「剣士のパヴァーヌ」も同様、初めは尺八の独奏で開始するつもりだったが、後から竜笛・箏・琵琶・打楽器による序奏をつけることにした。「剣道フェスティバル」のDVDでは、序奏は省かれ、尺八のソロから使われている。その眼力には驚いた。

ところで、自分の近作に、まるまる前奏曲1曲を新たに加えようという試みは、今回が初めてだ。「春の新作」は「プラネタリウム」の前奏曲との意図で作曲している。この場合、目的地は既に出来ている。そこに至るまでのプロセスを遡って創るのだ。目的地が何も決まっていないより、はるかに作りやすい。進むべき方向に導かれつつも時には遊び、のびのびと自由に大胆に。
前奏曲の作曲 vs. 交響曲の作曲―どちらがプレッシャーとして、重いだろう。言わずもがなだ。その前奏曲も4つ組み合わせ、1セットにすれば、交響曲と名乗れるではないか!
…自分が作曲した曲に、後から前奏曲を作る行為は、水面に投射した影を写し取るようなものか。
(写真:雪の残る小川の反映)



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