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新野辺まちづくり協議会公式ブログ

加古川市別府町新野辺で郷土の歴史遺産を次代に伝えることが目的の団体。
祭り、住吉神社、大歳家保存会から成る。

新野辺住吉神社の歴史年表

2016-07-22 04:00:51 | 新野辺住吉神社

昨日に引き続き、住吉神社の歴史についてお話しいたします。

新野辺住吉神社に鳥居や狛犬、石灯篭などがあるのをご存知ですか?
鳥居は、昨日ご紹介した昭和46年ごろの白黒写真にも
はっきりと写ってましたな。

では、これまでどんな経緯で今の住吉神社になっていったのか、
江戸時代の新野辺村と住吉神社の動きを年表にしてみました。
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■文禄4(1595)年:加古川の大洪水で別府川も氾濫する。

■万治年間(1658~1661)頃:阿閇神社からご神体を授かる。

■寛文12(1672)年:浜ノ宮天神社境内図に住吉神社が描かれる。

■寛文8(1688)年:治良兵衛より石灯篭、3反の田が寄進される。
 ※1反は300坪

■宝永2(1705)年:境内は松林で、年貢免除地であった
 ※新野辺明細帳に記載がある。

■元文2(1737)年:当時の境内の大きさはおよそ東西23.2m、
 南北32.4mほどの大きさで、現存のものより小さかった。
 ※新野辺明細帳に東西24間×南北18間と記載されている。




■延享2(1745)年:梅谷重傳が石の鳥居を寄進、


 同年、綿屋源四郎が石灯籠1対を寄進。



■宝暦12(1762)年:大阪・農人橋1丁目の山田屋加兵衛が狛犬一対を奉納。


同じころ、石の瑞垣(みずがき)建立。


■明和7(1770)年:撞鐘堂、撞鐘建立
 ※姫路宗門所に届けられている記録。

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この年表の最後1770年は、加古川の洪水で困った村人が、住吉神社を建立してからすでに175年経過しています。
その間に色んな人たちが、様々な寄進をして村の農作物の祈願や海運の無事、
家族のために祈っていたのかと思うと、現存するこれらの石造物にも様々な物語があるんだと実感しますね。

また、寄進者の名前にも注目です。
今後少しずつ、何人かの寄進者のことについてお話ししたいと思います。

新野辺住吉神社拝殿

2016-07-21 03:52:21 | 新野辺住吉神社




野辺三善(のべみよし)が今日もご案内役です。

最近は、新野辺の住吉神社は、新野辺以外の人にはあまり知られていないようです。
「社寺明細帳・天明二年(1782年)」の記録では、かつて神社の境内には立派な松が生い茂っていたといいます。
今の浜ノ宮神社の松林のような雰囲気だったのでしょうか・・・。
長い年月ですっかり様変わりしてしまいましたね。





また、『加古川市誌(第二巻665p)』にある住吉神社の写真では、
鳥居の向こうに松の木と、立派な玉垣、そして大きな拝殿があります。
この拝殿は2004年まで現存していましたので、ほんの数十年前までは、
昔の風景が若干残っていたようです。


上記の図は、神社境内模式図で、多くの神社で見られる様式です。
▼wikipedia「神社」より引用

神社の入口には、境内と俗界の境界を示す鳥居があり、社殿まで参道が通じる。
参道のそばには「身を清める」手水舎もみられる。
社殿は本殿(神殿)や拝殿からなる。人々が普段参拝するのは拝殿で、神体がある本殿は拝殿の奥にある。


時代と共に、町の様子が変わっていこうとも
新野辺の人々をみまもる鎮守(氏神さん)として
少々形を変えながらもいつまでも住吉神社を残していきたい、
そう思う三善でした。


住吉神社のお百度石

2016-07-16 01:20:37 | 新野辺住吉神社


新野辺住吉神社には「百度石」という文字が書かれた石柱があります。
みなさんは、この「百度石」が何かご存知ですか?
実は、百度石は、百度参りに使われる石柱です。

お百度参りの歴史は古く、平安時代末期に起こったそうで
個人的な願いを叶えるために同じ社寺や神社などに
百回参って祈願する民間信仰です。

回数を重ねることで神様や仏様と顔なじみになり、
信仰心のあつさと、願い事の切実さを訴えてご加護を得る・・・
という考え方です。





お百度は通常、参道の入口から本堂までの間を往復します。
百度石があればそこを基点として本堂までを往復します。

何度参ったのか回数を間違えないように、小石やこよりなどを
百個用意しておいて参拝のたびに拝殿・本堂に1個ずつ置いて
数えたりするのがポピュラーです。

百度参りは人に見られないように行うとか、
裸足で行った方がより効果があるなどとも言われます。

昔の新野辺の村人が、家族の病気の快癒、金銭や食糧問題、
遠く離れた子供の無事など、
この百度石を目標に何度も何度も参っていた姿を想像すると
何とも切ない気持ちになりますね。

新野辺住吉神社の神様は4人

2016-07-16 01:11:02 | 新野辺住吉神社


以前の記事で、1595年に洪水の被害があって田畑は荒れ、
マムシが多くなって新野辺の村人は困り果て、
1660年頃に今の播磨町にある
「阿閇(あえ)神社」にお願いしました。

この時に、実は阿閇神社からご神体として
「小石を4つ」授かって社(やしろ)に奉納しました。
これが、今の新野辺住吉神社のはじまりです。

四つあるということは、神様は4人いるということですね。

実は、前回の「つつのお3兄弟(住吉三神)」のほかに、
もう一人女性の神様をお祀りしてるんですよ。

それが「神功皇后」の名前で有名な、
本名、息長帯姫命(おきながの すくねの みこ)です。

この「神功皇后」、実は日本神話の中で最強ともいえる女性で
住吉三神に導かれ、今の朝鮮半島に攻め込んでいきました。

海の魚が皇后の船を支え、追い風が船を勢いづかせます。
まさに神がかった勢いで攻めてくる姿を見た
朝鮮半島の王たちは神功皇后の力に驚き、
貢物(みつぎもの)をする約束したと記されています。

そしてこの戦の後、大阪の住之江に「住吉神社」を建て、
住吉三神をお祀りしました。

後世になって、住吉三神と神功皇后は一緒に祀られるようになり、
住吉神社のご神体となっているのです。




今の播磨町は、大阪の住吉神社と大きな関わりがあったため、
阿閇神社など複数の住吉神社が建てられました。

新野辺村の住吉神社も、阿閇神社からご神体を授かっているので
このころは、もしかしたら「すみよっさんブーム」だったのかもしれません。

だけどいつも見る本殿の中に、
小石が祀られているとは皆さんご存知でしたか?

※最後になりましたが、神様の数え方は、神様は一柱・二柱というように、柱(はしら)で数えます。ですので、記事の中では分かりやすく4人と書きましたが、4柱と言うのが正しい数え方です。



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※参考サイト
住吉大社の由緒・伝統について
http://www.sumiyoshitaisha.net/dictionary/faq_sumi.html

ひろかずのブログより阿閇神社の写真をお借りしました。
http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630/

そもそも住吉神社とは?その1:筒男命(つつのおのみこと)3兄弟誕生の話

2016-07-16 01:00:21 | 新野辺住吉神社


日本には「八幡さま」や「お稲荷さま」をはじめ数多くの神社がお祭りされています。

その中でも「住吉神社」は、日本全国でおよそ2000社以上も祭られている神社で、主に水に関わる安全を祈願する神様として「漁師」や「海運の民」に広められました。

ではなぜ、「海」に関係する守り神なのでしょうか。

主に、住吉神社に祭られているのは
住吉三神と呼ばれている神様で

・底筒男命(そこつつのおのみこと)
・中筒男命(なかつつのおのみこと)
・表筒男命(うわつつのおのみこと)

という3人の兄弟です。覚えやすくするために
「つつのお3兄弟」とでもいいましょうか。

この3兄弟、皆さんよくご存知の「古事記」で
「イザナギ」が海に入って禊 (みそぎ)をした時に生まれ出た
神様たちなのです。
(大変有名なアマテラス・ツクヨミ・スサノオのお兄さんになります)

このとき、
瀬の深いところで底筒男命が、
瀬の流れの中間で中筒男命が、
水表で表筒男命が、
それぞれ生まれ出たとされます。

つまり、海は生命(いのち)の源であり、
禊(みそぎ)や祓(はらい)という行為も
「水で生命力を更新する」ものです。

そういった理由で、住吉三神は
・お祓い
・航海の安全
・産業育成(豊かになるように祈願)

など、人々の「生命(いのち)」そのものを守護される
尊い神さまと言われ、古くより多くの民の崇敬を受けてきました。

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参考:
※住吉大社の由緒・伝統について
http://www.sumiyoshitaisha.net/dictionary/faq_sumi.html



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