世界の詩最新事情

毎月1回原則として第3土曜日に世界の最新の詩を紹介いたします。アジア、ラテンアメリカ、中国語圏、欧米の4つに分け紹介。

第14回 エイミー・ネズィクマタティル(Aimee Nezhukumatathil)―アメリカ合衆国― 佐峰 存

2018-05-09 20:37:28 | 日記
 エイミー・ネズィクマタティル(Aimee Nezhukumatathil)は、現在米国で最も注目を浴びている詩人の一人だ。2018年4月に刊行された詩集『Oceanic』も話題を集めている。1974年にシカゴで生まれ、その後アリゾナ州・フェニックスやカンザス州、オハイオ州等を転々とし、旅人のように移り行く光景の中で育った。大学でネイオミ・シハブ・ナイの詩に触発され詩書きを志すようになってから、「Poetry Magazine」・「Ploughshares」を含む幅広い詩誌で活発に作品を発表し、現在はミシシッピ大学で文学を教えている。
 ネズィクマタティルは米国詩を形作ってきた様々な流れの接点にて“自己”という一葉舟を浮かばせる。フィリピン人の母親と南インド人の父親の間に生まれたことで、“アジアン・アメリカン”詩人として詩壇の期待を背負っている。同時に、彼女は大学で環境文学(Environmental Literature)を教えている事から、自然環境を題材としてふんだんに取り込んだ作品を望む読者もいるだろう。しかし、彼女の一葉舟は大きな帆を張っていて、行き先を決めるのはあくまで彼女自身だ。ネズィクマタティルは自身の個人的な体験を重視し詩作を行う。彼女の作品の“語り手”と(彼女自身である)“作者”は限りなく近いところにいる。
 自身の体験の“器”としてネズィクマタティルが高い熱量で取り組んでいるのが俳文(Haibun)だ。彼女がとある詩祭で語ったところによると、その散文と俳句を組み合わせた形式が、日々の生活を通じ書き留めたい事と合致するそうだ。散文と俳句の双方が互いに意味付けし合う均衡と調和に彼女は表現の極致を見出している。俳文の、特に“詩形”という要素が掬い上げられて、米国現代詩と融合していく。現在進行形の静かな事件だ。上述の『Oceanic』に収められた俳文を見てみたい。

Only a few people and three alley cats remember when the house was gray, not yellow. A pair of empty swing sets at the schoolyard rock themselves to sleep for a late-afternoon nap.(中略)Tulip bulbs that a girl once planted and sprinkled with pepper flakes have all been scratched up by brave squirrels who now strut the street with tiny blistered mouths. When they chew chickadee wing in their wet, hot mouths, the alley cats become accomplices. This is her legacy. Her footprints are everywhere:

every gate is her
red mouth on fire—birds want
to speak but cannot

(“Forsythe Avenue Haibun”, Oceanic, 2018, Copper Canyon Press)


その家が黄色でなく灰色だった頃のことは数人の人間と三匹の野良猫しか知らない。無人のブランコが校庭で午後の眠りに揺れている。(中略)女の子が植えて胡椒をかけたチューリップの球根は今や小さな傷だらけの口で通りを横切る猛々しいリス達に掘り起こされてしまった。彼らがアメリカゴガラの翼を柔らかく熱い口で噛むときは、野良猫も共犯になる。これが彼女の残したもの。いたるところに彼女の足跡がある。

あかい門
鳥にかわって
燃え語る

(同上、引用者訳)


 語り手は過去の「」を訪ねる。持ち主も変わり、明るい色になってしまった。かつて学校で「女の子」は花を期待して「球根」を植えたが、野生の動物はそのような想いを省みることはない。同じくアメリカゴガラも野生の牙にかかる。自然とはそういうものだ。「彼女の残したもの」とは何だろうか。獣に荒らされ無に帰したことを含む、全ての成り行きだ。球根を植えた彼女も因果の連なりの一部を担っている。故に「彼女の足跡」は消えることはない。その点を示した上で、ネズィクマタティルは人間と他の動物を分かつ一言を俳句として挿入する。食される鳥には言葉がないが、「女の子」には失われたものをいわば蘇生出来る“語り”がある。「あかい門」即ち“口”を潜るとそこには何かが残り続ける異世界が広がっている。野生と同様の激しさで「燃え語る」。共に無情(常)な世界で消えていく運命にありながら、この違いは大きい。
 このように対比を通じ主題を浮上させる手法はネズィクマタティルの作品に多く登場する。彼女の俳文ではない詩『Baked Goods』は伸び伸びとした言葉遣いが印象的な作品だ。

Flour on the floor makes my sandals
slip and I tumble into your arms.

Too hot to bake this morning but
blueberries begged me to fold them

into moist muffins. Sticks of rhubarb
plotted a whole pie.

(中略)

So be it. Maybe all this baking will quiet
the angry voices next door, if only

for a brief whiff. I want our summers
to always be like this—a kitchen wrecked

with love, a table overflowing with baked goods
warming the already warm air. After all the pots

are stacked, the goodies cooled, and all the counters
wiped clean—let us never be rescued from this mess.

(“Baked Goods”, Lucky Fish, 2011, Tupelo Press)


床の小麦がサンダルを
滑らせて 私はあなたの腕に倒れ込む。

今朝はベーキングには暑すぎるが
ブルーベリーの姿に乞われ

湿ったマフィンへと畳んでいく。棒状の大黄が
菓子全体をかたどる。

(中略)

これでよい。これだけ焼けば隣の家の
憤った声も鎮まるだろう、ほんの

束の間であっても。私たちの夏こそは
いつもこうあって欲しい―愛情で散乱した

キッチン、焼き上げたもので溢れかえるテーブルが
空気を一層温めて。全てのポットが

揃えられ、大好物は冷やされ、カウンターが
拭かれた後は―この汚さから私達を救い給うな

(同上、引用者訳)


 一見、非常に地に足のついたシンプルな作風だ。語り手はある日の何気ない出来事を丁寧に言葉に落とし込んでいく。“生まれなくてはならない”言葉、即ち自らを抑え切れずに飛び出して来た類の言葉だ。それらをネズィクマタティルの筆は見落とすことなく拾っていく。結果、朝の空気のように、軽やかに澄みわたりながらも深遠を覗き込むような言葉が出揃う。これから一日が始まるのだ。しかし、陽射しのように強い光度の背後に蠢いているのは“不穏な世界”だ。「隣の家の/憤った声(the angry voices next door)」が語り手の家の外、即ち現代の荒れた世界を暗示している。外を嵐が支配しているからこそ、語り手の室内の平穏さの意味合いは強まる。この構図を直視しなければ私達は先に進めない。
 ネズィクマタティルはそのような皮肉に満ちた世界を認識しつつ作品を書いているのであって、世界とある意味で断絶しつつ、同時に依存し合っている自己の存在に一握の憂いを覚えている。作品の川底に耳を澄ますと静かな短調音が聴こえて来るだろう。彼女の鮮やかな一葉舟が渡っている川は、ギリシャのレーテのような暗黒の輝きを時折放つ。
 その自覚が彼女が俳文に接近する遠因かも知れない。ネズィクマタティルは教職と家庭に根を張った今でも自らを“旅人”と位置付けていて、日々過ぎていく光景と個人として繋がりを持つために俳文を書くのだと言う。光景と自身を繋ぐ繊維は何か。彼女はエッセイでこう述べている―「それは“aware”(あはれ)の感覚だ、事物の中にある憧憬や悲しみ、直接的な共感を呼び起こすものだ(that sense of aware-the quality of certain objects to evoke longing, sadness, or immediate sympathy)」(“More than the Birds, Bees, and Trees: A Closer Look at Writing Haibun”, Poets.org, 2014, the Academy of American Poets)。
 ネズィクマタティルの示す“あはれ”は目の前にある自然に加え、宇宙までも対象に含んでいる。

To everything, there is a season of parrots. Instead of feathers, we searched the sky for meteors on our last night. Salamanders use the stars to find their way home. Who knew they could see that far, fix the tiny beads of their eyes on distant arrangements of lights so as to return to wet and wild nests? Our heads tilt up and up and we are careful to never look at each other.(中略)There are not enough jam jars to can this summer sky at night. I want to spread those little meteors on a hunk of still-warm bread this winter. Any trace left on the knife will make a kitchen sink like that evening air

the cool night before
star showers: so sticky so
warm so full of light

(“Summer Haibun”, Poem-a-Day, 2017, the Academy of American Poets)


全てには鸚鵡の季節がある。羽根の代わりに、私たちは最後の夜に空で隕石を探した。サラマンダーは帰路を見つけるために星を使う。彼らがそこまで遠くを見、眼の小さな玉を彼方の光の構成に定めて濡れた野生の巣に戻るなんて誰が知ってたろう?私たちの頭は上へ上へと向いている、目を合わせないように気を付けながら。(中略)この夏の夜の空を閉じ込めるにはジャム瓶が足りない。冬になったら、あれらの小さな隕石を温かさの残るパンの塊の上に広げたい。ナイフに跡が残ろうものならキッチンシンクはその夜の空気をかたどるだろう

星待てば
冷え張る夜に
灯り満ち

(同上、引用者訳)

 この宇宙を目前にした作品には寂しささえ漂わせる透明感がある。夜になりつつある空を見つめる「私たち」。「鸚鵡」の「羽根」の色をした空は、それ自体が「季節」と思えるほどに大きく、語り手達を包み込む。しかし語り手が探し続けるのは、空の暗くなった部分に筋を描く流星(「隕石(meteors)」)だ。語り手ははやる心を抑えるためか、ここでは敢えて“隕石”という無機質な言葉を使い、情動的な“流星”という言葉を避けている。願いを叶えたい想いを秘めつつも、ネズィクマタティルの分身である語り手は旅をするように流し目で、かけがえのない、しかし移ろい行く時間に接する。
 夜空の元に自然があって、生物の器官は星と共に進化をして来た。丁度「サラマンダー」が星を使ってゆっくりと「野生の巣に戻る」ように、同じ生物として語り手も星を使おうと密かに思う。星々は一見手に届かないものに見えて、私達生物にとって本来とても身近なところにある。“私”は星の焼き付く残光を頼りに、来る季節の「」の中で“あなた”を思い出すだろう。今手を伸ばせば“あなた”はすぐ隣にいるのに、“私”は柔らかな諦念の境地に自身を浸していく。ネズィクマタティルの送り込んだ語り手は情に満ちながら、その深みにゆっくりと沈み込み、何ものかに身を捧げるようにして自らの気配を消していくのだ。
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