現在の米国詩壇を俯瞰してみると、自身の人種・文化的な背景を交えながら詩的表現を追求するマイノリティ詩人の活躍が目覚ましい。そのような中でアンジ・ムリンコ(Ange Mlinko)は独自の道を歩む。自身のアイデンティティを強くは前面に出さず、あくまで詩の言語芸術性を見据えながら作品を書いている。『POETRY』や『The Paris Review』など掲載基準の厳しい詩誌において最も頻繁に作品を発表している詩人の一人だ。
その作品に、私はウォレス・スティーヴンズを想起する。ムリンコは詩そのものの完全性を米国詩の歴史的な表現・技法に立脚しながら目指す。突き詰めた表現は難解とも言えるが、読み解いた時にひらける視界は格別だ。
米国詩の営みの根底には、古代ギリシアから脈々と続く西洋文学の系譜がある。オウィディウス『変身物語』にて記述されたギリシア・ローマ神話など、古典を中心に詩の書き手・読み手の間で共有される情景があって、ムリンコは隅々までそれらと繋がりながら現代を描こうとする。
「Listening Posts(聴音哨)」はムリンコのこうした詩風が余すことなく見られる作品だ。日常生活の中で戦争の足音を聴く語り手の姿が描かれる。原文では二行ずつ韻を踏んでいる。言葉の音に注意を払うことで、作品自体が聴音哨を体現する。四行で構成された連が三連ずつ纏められ、聴音哨が収集する信号を模している。三連の内、第一・第三連は句読点で締められ、第二連の言葉は連を跨って展開される。
作品は視覚的な鮮やかさを以て始まる。語り手の息子がビデオゲームの画面の中でF-16戦闘機を飛ばしている。
As these things go, it’s fun
to watch my riveted son
fly an F-16 on a tiny screen
topographically green.
His speed on airstrips
achieves its own eclipse
as he sublimes into the blue.
率直にいうと、私の息子が
釘づけになってF-16を飛ばすのを
見るのは楽しい、緑の地形の
小さな画面の中で。
彼は滑走路で加速すると
一面の青に昇華して
独自の日蝕を作る。
冒頭から一気に語り手の“複雑な”心境が伝わってくる。「私の息子が/釘づけになって(my riveted son)」はこの作品・語り手を理解する上で鍵となってくる、キリストを連想させる表現だ。語り手はキリスト教の神や聖母の目線も有する。同じく「緑の地形の(topographically green)」にも留意したい。この表現が想起させるのは地形詩(topographical poem)だ。地形詩は特定の地形とその地形に対する語り手の平たく謙虚(non-hierarchical)な向き合い方を模索する取組で、マリアン・ムーア、W・H・オーデン、エリザベス・ビショップらも手がけた。語り手は同様の態度でゲームに夢中になっている息子を見守っている。
語り手は息子と現実世界において戦地で死に直面する青年達を重ね合わせる。浮かび上がってくるのは制服に着替えて飛び立とうとする血行のよいパイロットの姿ではなく、既に棺に入っている死者達の影だ。
Antennae of the listening post,
alight, seemed to scan for ghosts
amid the voices of the Med,
dust the mint and fennel fed.
Standing on the limestone rock
with family, run out of talk
as an hourglass its sand―
聴音哨のアンテナは
輝きながら、亡霊達を監視するように見えた
衛生科の声の直中で、食べさせる
ハッカ とウイキョウの埃を払い。
石灰岩の上に家族と共に立ち
会話から走り出る、
砂時計、砂として―
語り手は“息子を生かし続けるための”食事の準備をする。食材である植物の名称に連なる文脈を辿ってみよう。「ハッカ(the mint)」は米国詩において度々参照される植物で、ギリシア神話において植物に変えられてしまったハーデースの恋人メンテーを暗示する。同じく「ウイキョウ(fennel)」も現れる。こちらはロングフェローの作品「The Goblet of Life」で目を良くする植物としてうたわれている。「石灰石(the limestone rock)」は明らかにW・H・オーデンの詩「In Praise Of Limestone」を参照している。この作品は前述の地形詩として知られている。これらの表現から、語り手の中を行き来する報われない心持ちや淡い期待が伝わってくる。
語り手は宝石をつけた両耳を聴音哨に見立て、息子をも巻き込むかも知れない災厄の接近を感じ取っている。
Meanwhile I, with sapphire
posts in both ears, beg to differ
if this sand-flourishing thistle
is not equally epistle
from the backyards of hackneyed
plant life we call weed.
It whispers of the coming battle
feeding dust to thyme and basil.
その傍らで、両耳にサファイアの
聴音哨をつけた私は反論する、
この砂上に繁殖する
アザミは
私達が雑草と呼ぶ、ありふれた
植物の裏庭から届く書簡ではない。
タイム とバジルに埃を与える
戦闘の接近を囁いているのだ。
一つひとつの言葉の立てる微かな物音に留意したい。まず目につくのは「サファイア(sapphire)」という表現だ。この言葉(原文)の最初の四文字はサッポー(Sappho)を連想させる。周知のとおり、サッポーはフェミニズムの文脈で語られることが多く、語り手がその視点に立っていることが示唆される。
植物に対する言及はここでも豊かだ。「アザミ(thistle)」には棘があり、スコットランドでは国土を外敵から守ったとの言い伝えがある。戦争から語り手達を守る存在として、語り手の思いが込められている。「タイム(thyme)」は調味料であると共に、欧米文学においては妖精の棲む場に生える草とされている。シェイクスピア『真夏の夜の夢』におけるオーベロンの言葉「I know a bank where the wild thyme blows」はよく知られており、ムリンコも意識しているだろう。さらには「バジル(basil)」も登場する。こちらは詩の音楽性を追求した英国のモダニスト詩人Basil Buntingを連想させる。短い表現の中に歴史的な戦乱、妖精、そして実在した詩人の面影が凝縮され、読み手は語り手の混沌としつつも瑞々しい意識を追体験する。
私はこの作品の語り手に強い関心を覚え続けている。何者なのだろう。その輪郭は、例えば与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」の語り手のような“等身大の個人”に留まらない。前述のとおり、キリストの親と同様の視座に立ちながら、西洋における文学や文化の系譜の生ける結節点としても存在している。起伏の激しい地形の中で平静を装いながら、“受肉した西洋の精神”そのものが立ち尽くしている。その幽かな佇まいが滲み広がる。
その作品に、私はウォレス・スティーヴンズを想起する。ムリンコは詩そのものの完全性を米国詩の歴史的な表現・技法に立脚しながら目指す。突き詰めた表現は難解とも言えるが、読み解いた時にひらける視界は格別だ。
米国詩の営みの根底には、古代ギリシアから脈々と続く西洋文学の系譜がある。オウィディウス『変身物語』にて記述されたギリシア・ローマ神話など、古典を中心に詩の書き手・読み手の間で共有される情景があって、ムリンコは隅々までそれらと繋がりながら現代を描こうとする。
「Listening Posts(聴音哨)」はムリンコのこうした詩風が余すことなく見られる作品だ。日常生活の中で戦争の足音を聴く語り手の姿が描かれる。原文では二行ずつ韻を踏んでいる。言葉の音に注意を払うことで、作品自体が聴音哨を体現する。四行で構成された連が三連ずつ纏められ、聴音哨が収集する信号を模している。三連の内、第一・第三連は句読点で締められ、第二連の言葉は連を跨って展開される。
作品は視覚的な鮮やかさを以て始まる。語り手の息子がビデオゲームの画面の中でF-16戦闘機を飛ばしている。
As these things go, it’s fun
to watch my riveted son
fly an F-16 on a tiny screen
topographically green.
His speed on airstrips
achieves its own eclipse
as he sublimes into the blue.
(“Listening Posts”, Distant Mandate, 2017, Farrar Straus & Giroux)
率直にいうと、私の息子が
釘づけになってF-16を飛ばすのを
見るのは楽しい、緑の地形の
小さな画面の中で。
彼は滑走路で加速すると
一面の青に昇華して
独自の日蝕を作る。
(同上、引用者訳)
冒頭から一気に語り手の“複雑な”心境が伝わってくる。「私の息子が/釘づけになって(my riveted son)」はこの作品・語り手を理解する上で鍵となってくる、キリストを連想させる表現だ。語り手はキリスト教の神や聖母の目線も有する。同じく「緑の地形の(topographically green)」にも留意したい。この表現が想起させるのは地形詩(topographical poem)だ。地形詩は特定の地形とその地形に対する語り手の平たく謙虚(non-hierarchical)な向き合い方を模索する取組で、マリアン・ムーア、W・H・オーデン、エリザベス・ビショップらも手がけた。語り手は同様の態度でゲームに夢中になっている息子を見守っている。
語り手は息子と現実世界において戦地で死に直面する青年達を重ね合わせる。浮かび上がってくるのは制服に着替えて飛び立とうとする血行のよいパイロットの姿ではなく、既に棺に入っている死者達の影だ。
Antennae of the listening post,
alight, seemed to scan for ghosts
amid the voices of the Med,
dust the mint and fennel fed.
Standing on the limestone rock
with family, run out of talk
as an hourglass its sand―
(“Listening Posts”, Distant Mandate, 2017, Farrar Straus & Giroux)
聴音哨のアンテナは
輝きながら、亡霊達を監視するように見えた
衛生科の声の直中で、食べさせる
ハッカ とウイキョウの埃を払い。
石灰岩の上に家族と共に立ち
会話から走り出る、
砂時計、砂として―
(同上、引用者訳)
語り手は“息子を生かし続けるための”食事の準備をする。食材である植物の名称に連なる文脈を辿ってみよう。「ハッカ(the mint)」は米国詩において度々参照される植物で、ギリシア神話において植物に変えられてしまったハーデースの恋人メンテーを暗示する。同じく「ウイキョウ(fennel)」も現れる。こちらはロングフェローの作品「The Goblet of Life」で目を良くする植物としてうたわれている。「石灰石(the limestone rock)」は明らかにW・H・オーデンの詩「In Praise Of Limestone」を参照している。この作品は前述の地形詩として知られている。これらの表現から、語り手の中を行き来する報われない心持ちや淡い期待が伝わってくる。
語り手は宝石をつけた両耳を聴音哨に見立て、息子をも巻き込むかも知れない災厄の接近を感じ取っている。
Meanwhile I, with sapphire
posts in both ears, beg to differ
if this sand-flourishing thistle
is not equally epistle
from the backyards of hackneyed
plant life we call weed.
It whispers of the coming battle
feeding dust to thyme and basil.
(“Listening Posts”, Distant Mandate, 2017, Farrar Straus & Giroux)
その傍らで、両耳にサファイアの
聴音哨をつけた私は反論する、
この砂上に繁殖する
アザミは
私達が雑草と呼ぶ、ありふれた
植物の裏庭から届く書簡ではない。
タイム とバジルに埃を与える
戦闘の接近を囁いているのだ。
(同上、引用者訳)
一つひとつの言葉の立てる微かな物音に留意したい。まず目につくのは「サファイア(sapphire)」という表現だ。この言葉(原文)の最初の四文字はサッポー(Sappho)を連想させる。周知のとおり、サッポーはフェミニズムの文脈で語られることが多く、語り手がその視点に立っていることが示唆される。
植物に対する言及はここでも豊かだ。「アザミ(thistle)」には棘があり、スコットランドでは国土を外敵から守ったとの言い伝えがある。戦争から語り手達を守る存在として、語り手の思いが込められている。「タイム(thyme)」は調味料であると共に、欧米文学においては妖精の棲む場に生える草とされている。シェイクスピア『真夏の夜の夢』におけるオーベロンの言葉「I know a bank where the wild thyme blows」はよく知られており、ムリンコも意識しているだろう。さらには「バジル(basil)」も登場する。こちらは詩の音楽性を追求した英国のモダニスト詩人Basil Buntingを連想させる。短い表現の中に歴史的な戦乱、妖精、そして実在した詩人の面影が凝縮され、読み手は語り手の混沌としつつも瑞々しい意識を追体験する。
私はこの作品の語り手に強い関心を覚え続けている。何者なのだろう。その輪郭は、例えば与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」の語り手のような“等身大の個人”に留まらない。前述のとおり、キリストの親と同様の視座に立ちながら、西洋における文学や文化の系譜の生ける結節点としても存在している。起伏の激しい地形の中で平静を装いながら、“受肉した西洋の精神”そのものが立ち尽くしている。その幽かな佇まいが滲み広がる。
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