世界の詩最新事情

毎月1回原則として第3土曜日に世界の最新の詩を紹介いたします。アジア、ラテンアメリカ、中国語圏、欧米の4つに分け紹介。

第13回 テレンス・ヘイズ(Terrance Hayes)―アメリカ合衆国― 佐峰 存

2018-04-14 11:53:01 | 日記
 テレンス・ヘイズ(Terrance Hayes)はトレイシー・K・スミスらと並び米国の現代詩を引率する若手詩人で、様々な詩形やテーマを取り入れながら、アフリカン・アメリカンのアイデンティティを見つめる多くの作品・詩集を発表している。サウスカロライナ州出身で、現在は大学で文学も教えつつピッツバーグを拠点に活動している。
 ヘイズの作品は、語り手が自身について語るものが多い。個人的な体験から自ずと米国内の人種問題の葛藤へとテーマが広がっていく。「National Book Award」を受賞した2010年の詩集『Lighthead』を紹介したい。2018年現在、人種問題が再び水面に浮上し米国の世論を激しく揺らしているが、この詩集はその10年近く前からそこに至る米国社会の地鳴りを感じ取っている。社会の地層変動はまずは個々人の意識下に姿を現す。ヘイズはそれを詩の言葉ならではの、比喩を多用した明瞭かつ直接な形で表現している。
 深刻なテーマを扱いつつも詩の形式にウィットとユーモアを忘れないのがヘイズ作品の特長だ。『Lighthead』にも、例えばしりとりのように行から行へ共通の言葉が継承されていく作品など、形式の面白さに踏み込んだ作品が多く見られる。結果、詩は寧ろ独特の緊張関係に置かれる。それが“読ませる作品”に昇華させる。
 中でも“pecha kucha”という形式に精力的に取り組んでおり、同詩集では4篇の作品がこの形式で書かれている。“pecha kucha”は日本の起業家コミュニティによって発案された20枚のスライドを計20分で説明するビジネス・プレゼンテーション・スタイルだ。聴き手への伝わり易さを重視するビジネス的な発想から生まれた形式ではあるが、その軽やかさを詩の読者に向けて活用しようとするところにヘイズの革新性がある。“pecha kucha”詩は20枚のスライドならぬ20連で構成される。それぞれの連にタイトル行とそれを肉付けする4行がある(朗読をする際は、1分以内に読み上げるのだろう)。同詩集に収録された“pecha kucha”詩のうち、特にその形式自体に意識を傾け書いたであろう作品「Twenty Measures of Chitchat」から、ヘイズの呼吸の流れが感じられる連に焦点を当てて読み解いていきたい。

[EVERYTHING HAPPENS TO ME]
In the portable book I read how blacks were troubled
by none of the troubles of today. To become invisible, it said,
one need only walk through rain. I tried this, but it did not work.
I chased the dream, but when I woke, the spell endured.

[LUNCHING]
I was scratching our name into the bark of a tree.
I was throwing up and down on my hands and knees like a soul
who is not a ghost yet. I wouldn’t have made it without those
tiny tablets. I swallowed four, and then, baby, I was good to go.

(“Twenty Measures of Chitchat”, Lighthead, 2010, Penguin Books)


[全てが私に起こる]
手にした冊子の中で、過去の黒人は
今日の問題に苛まされていなかったと読んだ。透明になるには、
雨の中を歩くだけでよいそうだ。私もやってみたが、うまくいかなかった。
夢を追いかけてみたが、目覚めた後も、魔術は解けなかった。

[昼に食す]
私は私たちの名前を樹の皮に刻んでいた。
私は上下に、手や膝に吐いていた、亡霊になりきっていない魂
のように。これらの小さな錠剤がなければ助かっていなかっただろう。
四錠飲み込むと、ほら、準備万端だ。

(同上、引用者訳)


 これらの連を通じ、語り手は自らの体験を省み自身のルーツに向き合う。しかし人種問題の根は強固だ。「冊子(the portable book)」に書かれた処方箋の乾いた響き。そのような持ち運びの出来る空虚な処方箋を語り手は初めから信じてなどいなかっただろう。それでも書かれた通りに実際にやってみるところに、理性も感情も飛び越したかなしみの“はたらき”がある。
 平易な言葉遣いの中に、「雨の中を歩くだけ(only walk through the rain)」という密かに心臓を抉られるような表現が差し込まれる。確かに、人は肌の色に関わらず等しく雨に濡れる―「透明になる(become invisible)」。しかし、それとは異なる次元で一人の人間の心の持ちようのみでは払い切れない「魔術(the spell)」が語り手の存在に染み込んでいる。
 「LUNCHING」。私には一瞬、その言葉が“LYNCHING”に見えた。19世紀、多くのアフリカン・アメリカンが大きな樹の元で迫害された―米国社会で時代を超えて共有されている光景だ。南部の香りがする樹を削りながら、語り手は自らの身体の感触を感じ取っている。「亡霊になりきっていない魂(a soul / who is not a ghost yet)」は身体を持っていて、その“自身のもの”であるはずの身体に、社会が先入観を押し付けてくる。語り手の嘔吐が自身の「手や膝に(on my hands and knees)」に降りかかるのは自然の成り行きだ。そこに、両義性を湛えながら「小さな錠剤(tiny tablets)」が登場する。人の器官のみならず心を物理的な現象として捉え、その理(ことわり)で解決しようとする現代の薬学。それが十字を切るときの指の感触と同数(「四錠(four)」)ある。語り手にとって、医学や宗教は確かに救いを齎すが、同時にどこかに救いがない。樹を削る行為にも同様の意味の重なりが見られる。語り手は「私たちの名前(our name)」を刻印するが、その行為を通じ樹に消せない痕を残していく。かつて祖先に向けられた社会の負のエネルギーが、巡り巡って語り手の手にも薄らと帯電している。それを自覚しつつ語り手は吐く。

[A HISTORY OF SELF-RELIANCE]
The façade of solitude: a serious black man
reading a book at happy hour in a bar. The façade
of newness: pier stilts along the Mississippi painted
so white, you have to touch them to know their age.

[WESTERN WIND]
Since it is true that waiting on the dead requires living,
true that death means in its way, we are alive or will grasp,
when the future arrives, what it means to be dead,
call me to your arms, and I will come fiercely sweetly.

(“Twenty Measures of Chitchat”, Lighthead, 2010, Penguin Books)


[自立の歴史]
孤独の正面:ひとりの深刻な黒人の男
がバーのハッピーアワーで本を読んでいる。新しさの
正面:ミシシッピ河の桟橋の柱は本当に白く
塗られていて、どれだけ古いかは触らないと分からない。

[西の風]
死者を待ち続けるには生きていなければならない、
死を知るということは、我々が生きているということでもあって、
未来がやってきたら、死ぬということを掴めるということ、
君の腕に僕を呼んでくれ、激しく甘く僕は辿り着く。

(同上、引用者訳)



 “pecha kucha”という形式に忠実に、ヘイズの詩の中でもスライドのように光景が切り替わる。バーが写真のように映し出され、「正面(façade)」という言葉を軸に対比が展開される。人々が交流するハッピーアワーに交じらず、しかしそこを場として選び本を読む男。それは語り手の姿でもあるだろう。その姿と対比されるのは白く塗られた「ミシシッピ河の桟橋の柱(pier stilts along the Mississippi)」だ。本を読むという行為が有色人種と切り離されていた時代が米国にはあった。語り手はその時代を思い出し、心穏やかではない。敢えてバーで“行う”読書は本を読むためのみのものではなく、一種の自己表現でもある。表層は伝わり易く、人々の意識に巣食い易い。しかし個人の体温や歴史は直に触れないと分からないのだ。
 続く連では、バーの光景の余韻と繋がる形で語り手の死生観が簡潔に表現される。自らのアイデンティティを意識するということは、生と死を意識することと大凡等しい。語り手は自らに言い聞かせる、生きていかねばならないと。それこそが死者と接点を持つことだ。語り手はアフリカン・アメリカンとしての自覚のもと、自身を死者と切り離して語ることが出来ない。「君の腕に僕を呼んでくれ(call me to your arms)」-誰に語りかけているのか。生者である“あなた”か。それとも歴史に刻まれてきた数々の死者か。その曖昧さ・多義性こそが語り手の立ち位置を明確に、生々しく示す。語り手は「激しく甘く(fiercely sweetly)」生きる衝動に駆られている。社会に向けられていた目線はいつしか、どこまでも私的な心身の希求に帰って来た。

[THE SHAPE OF THE HEAD]
When I said my past was a severed tail, I had my eyes
closed, so the lie wouldn’t sting. When I had my head
between your knees, I was looking for where it was
I’d come from, and how it was I could escape.

(同上)


[頭のかたち]
私が私の過去は切断された尻尾だと言ったとき、私は眼を
閉じていた、嘘が痛まないために。私が私の頭をあなたの膝の間に
置いていたとき、私は私がどこから来たのか、
そこからどう逃げ出せたのか、探していた。

(同上、引用者訳)



この連で作品は締め括られる。トカゲの尻尾のように切り離し、遠くに置いてきたはずの過去。その認識は偽りだった。しかし、もう大丈夫だ。“私”はそこから言葉を介して抜け出ることが出来たのだから。「あなたの膝(your knees)」に辿り着いた時点でこの物語は一つの完結を迎える。語り手の「頭(THE HEAD)」は考え苦悩する頭であると共に、手足のように自ら動き、“探し求める”頭でもある。ふと、詩集の題名『Lighthead』に思いを馳せた。
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