わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第39回 ―大森靖子― 鈴木 康太

2021-03-08 18:44:14 | 日記
時々自動ドアをくぐると勇気をくれる、

  きみが通ってきた自動ドアは
  私が全部手動で開けてたんだよ

(私は面白い絶対面白いたぶん)


 僕はずっと大森靖子が聞かず嫌いだった。その理由は、僕の周りにいたメンヘラな女子が熱狂的に大森靖子が好きだったからだ。メンヘラ女子は常識を知らない。常に暗く首にヘンなタトゥーをしている。ドタキャンを何回もする。リストカットの痕をみせてきて、意味深な同意を求める。所謂そういうおんなのこ、が好きな音楽なんだな、という勝手な先入観が聴くことを遠ざけていた…ごめんなさい。
 で、時が過ぎて、カラオケにきていて歌っている僕がいる。というのもこのカラオケ店は珍しく手動式なのだ。(私は面白い……)の歌は難しいけど、「きすみぃきるみぃ」は歌いやすい。自分が歌いやすいキィにして歌う。

  大冒険なコロシアムGOOGLE マップで君んちみつけた
  一キロで何百マイル?
  きすみぃきるみぃきすみぃきるみぃ
  はやく会いに来なきゃ

(きすみぃきるみぃ)


 やっぱり怖い……僕の男声でなお怖い……そう、愛憎詩を紹介してくださいといわれ(「好き」な詩ではなく「愛すべき憎き詩」らしい)、線引きが難しいなと思いながら、ああこれじゃん、僕の声では生理的に「歌えないけど歌いたい」詩。歌えるという「美」から引きはがされる真空状態(カラオケ)のなか、なにか救いを求めたい。純粋ななにか。それは埋め尽くされる想像力の中にある宝石のようなもので、その宝石は精神や肉体のぶつかり合いで磨かれる。腕と刃物の関係であったり、恋愛の関係であったり、各々がおのずと選択してきた幻想の仲介で、「遠くはない」ところから意志を伝えてくれる。足跡をのこしてくれる。

  オレンジジュースに突っこんだ
  小バエの羽がばたついた
  生きるって超せつなかった
  もう好きじゃなくなったのかな

(エンドレスダンス)

 
 ばたついて死ぬ間際のハエについて考える。それを見つめる作者について考える。ばたつきの振動をフルに感じる。蛙とびこむ水の音のように、「ハプニング」から歌ははじまることがおおい。拡張して広まっていくハエの体液、と言葉(パロール)が似ているように、飛躍的だが愛も体液で感じるときがある。ほかの人には感じられないものが、いとおしい。
 で、僕が帰宅途中口ずさんでいる曲だ。心をズタズタにしながらもやっぱり勇気をくれる。「ときわ公園」じゃない家の近くにある霊園に差し掛かったとき、白い光のようなものが漂って、ああメンヘラなのは僕の方だなとつくづく思った。

  アンダーグラウンドから君の指まで
  遠くはないのさiPhone のあかりをのこして
  ワンルームファンタジー
  何を食べたとか街の匂いとか全部教えて

(ミッドナイト清純異性交遊)


第38回 ―清岡卓行―「子守唄のための太鼓」 浜田 優

2021-01-23 16:53:07 | 日記
 私の愛憎詩? 私がある人を、誰かを、その他者を愛するように、何かの詩を愛する、ということがあるだろうか。まして憎むとは? もちろん好きな詩、感嘆する詩、読むたびに心を動かされる詩はある。しかしそのときの心の動きに「愛する」という言葉はそぐわない。私にとって「愛する」という言葉、というより行為には、愛する対象に触れたい、通じ合いたい、そしてなにより相手に愛されたい、という欲求が含まれている。私は愛することで愛する相手に変わってほしい。そして時としてじっさいに変わるのだ。詩の一篇を愛したところで、詩が変わることはない(読み方は変わるかもしれないが)。やはり私にとって愛の対象とは、生身の人間(と近しい動植物)くらいだろう。
 いま「私にとって」と言った。「私」とは誰のことか。もちろんこの私(浜田)のことである。だからといって、「これは私(浜田)の主観だから、他の人がどうなのかは知らないよ」と言って済ませるわけにはいかない。なぜなら「愛する」という行為はいま言ったように、愛する対象を変えてしまうくらいに強い力(拘束力)をもっているのだから。いまどき「愛」という言葉は手垢にまみれて、巷間に溢れかえっているけれども、そんなに容易に口にできる言葉なのだろうか。愛するという営みが幼年期の自己愛(ナルシシズム)から始まり、やがて他者への執着や依存、さらには憎しみへ転じていく過程を明らかにしたのは精神分析だが、なにも精神分析の言説を借りるまでもない。「愛」と口にするその言葉のうらはらに、どれだけの支配欲や所有欲が隠されているか、「愛する」という感情にどれだけのナルシシズムやエゴイズムがまぎれ込んでいるか、私たちは日常的に経験して知っているはずだ。「愛と平和」という二語も陳腐なカップリングだが、もし愛が容易に平和をもたらすというなら、その愛は他者への無関心と同義ではないのか。
 愛は人と人との関係のうえで織りなされる。愛は人を独我的なまどろみから連れ出し、愛する者を変え、愛される者をも変える。今日の私はもはや昨日の私ではない。風景が違って見え、音楽が違って聞こえ、未来が違ったものに変わる。愛は未知の私を発見する歓びであるとともに、ナルシシズムやエゴイズムの温床でもありうる。愛は驚異であり、恐怖ですらある。そんな経緯を謳った詩を、かつて読んだことを思い出した。清岡卓行の「子守唄のための太鼓」である。

  二十世紀なかごろの とある日曜日の午前
  愛されるということは 人生最大の驚愕である
  かれは走る
  かれは走る
  そして皮膚の裏側のような海面のうえに かれは
  かれの死後に流れるであろう音楽をきく
  人類の歴史が 二千年とは
  あまりに 短かすぎる
  あの影は なんという哺乳動物の奇蹟か?
  あの 最後に部屋を出る
  そのあとで 地球が火事になる
  なにげなく 空気の乳首を噛み切る
  動きだした 木乃伊(ミイラ)のような恐怖は?
  かれははねあがる
  かれははねあがる
  そして匿された変電所のような雲のなかに かれは
  まどろむ幼児の指をまさぐる
  ああ この平和はどこからくるか?
  かれは 眼をとじて
  誰からどのように愛されているか
  大声でどなった


第37回 ―露古― 「眠らないヤギ」 川鍋 さく

2020-11-09 20:54:55 | 日記
 詩というものにしっかりと触れるようになってから4年弱。読んだ詩作品や知った詩人の数はまだまだ少ないが、目にする詩作品はどれも新鮮で、印象深ものも多い。その中でも、圧倒的に強く印象に残っている、一篇の詩がある。


     眠らないヤギ

  眠らないヤギが木戸を掻いている
  「なぜ殺したのですか」と私は問う
   
  まるで夢のようだ

(「眠らないヤギ」全文)


 この作品は私が参加している同人誌『Lyric Jungle』の26号に掲載されていた作品で、作者は露古さんという詩人だ。同じ同人誌のメンバーであるのだが、同誌は参加メンバーが多く、またメンバーの在住地もばらばらなため、面識のない方も多い。露古さんにも、私はお会いしたことがないし、どのような方なのか、年齢や性別すらわからない。ただ、同誌ともうひとつ、『新次元』という詩サイトに毎号掲載される作品だけが、私にとってのこの詩人との接点である。
 露古というお名前は以前から同誌で認識していたのだが、この「眠らないヤギ」という作品が、圧倒的なインパクトをもって私の中にこの詩人の存在を刻み付けた。なんと言えばいいのだろう。鋭さ、不穏さ、“暗さ”と言い切るには違和感のある掴みどころのない暗さ、浮遊感、静かさ、潔さ……。決定的な“何か”を描いているような気もするし、そのような“何か”などここには描かれていないのかもしれない。
 とにかく、何とも言えぬ凄みのある存在感。その存在感は、時として私の日常の中の平穏な一場面を侵すことさえある。食後に一息つくタイミングで、夕方買い物に出かける道すがらで、布団に入りうとうとし始めたタイミングで……。不意に、どこからか「眠らないヤギ」が私の中に現れ、その度に、木戸を掻くヤギの蹄と、ガタガタと揺れる木戸が目に浮かぶのだ。おかげで私の思考や睡眠は一時中断してしまう。それほどまでにこの「眠らないヤギ」は、驚くほど容易に、そして鋭く、私の感性の領域に入り込んできた。それはつまり、この詩が私にとって魅力的だということなのだが、その魅力があまりにも強いものなので、今後私が詩を書くときに、無意識にも必要以上にこの詩の影響を受けてしまうのではないかと不安にもなる(こういうことを言うと、私が純粋な自分の感性で書いたものでも、この詩に影響されたのではないかと言われそうで正直少し悔しいのだが)。
 このような詩を書く露古さんとは、どのような方なのだろう。お会いしてみたい気もするが、このままこれ以上の接点を持たずにいた方がいいような気もする。そうでなければ、この詩や、露古さんが書く他の詩作品が纏う神秘性が濁ってしまうような気がするのだ。それはもちろん、読者としての私の一方的な都合なのだが。

 詩、あるいはその他の作品を読んだり観たりするときに、多くの人にはどうしても、その作品を読み解こうとする癖がある。自分でも詩を書いたり何か創作に携わるような人は、特にそうではないだろうか。もちろん、作品を読み解いていくのは鑑賞者としての楽しみの一つであり、鑑賞の醍醐味の一つでもある。作品に込められた作者の意図、テーマ、施されている技巧、喩の裏にあるもの、その作品が作られた背景……と、追究し始めると興味深くてきりがない。追究することによって、作品に対する新たな観方を発見し、より深くその作品を楽しむこともできるだろう。
 しかし中には、読み解こう、理解しようとすることが、かえってナンセンスとなる作品もあると思う。私にとって、「眠らないヤギ」はまさにそれだ。「眠らないヤギ」とはどんな生き物か?「私」は誰に「なぜ殺したのですか」と問うているのか? いったい誰が誰を殺したというのか?この詩の根本にあるものは何なのか?そんな事を一つ一つ読み解こうとしても、この詩の輪郭がどんどん霞んでいくばかりである。追究しているうちに、頭の中で詩が崩れてばらばらになって、やがて見失ってしまうだろう。そんなことをするよりも、この詩そのものの存在感を、そこに在るまま直感のまま、素直に受け取ればいいのだと思う。
 私の好きな詩集の一つに、谷川俊太郎さんの『定義』がある。その中に、「なんでもないものの尊厳」という詩篇がある。

――筆者はなんでもないものを、なんでもなく述べることができない。筆者はなんでもないものを、常に何かであるかのように語ってしまう。その寸法を計り、その用不用を弁じ、その存在を主張し、その質感を表現することは、なんでもないものについての迷妄を増すに過ぎない。
(「なんでもないものの尊厳」抜粋)


 詩を書く立場、表現する立場だけでなく、詩を読む立場、鑑賞する立場としても、なんでもないものをなんでもなく受け取るのは案外難しい。しかし「なんでもないものの尊厳」にも記される通り、なんでもないものは、奥まで掘り下げて掴んでやろうとすると姿をくらまし、私たちはどうしようもない、それこそ「迷妄」の中に取り残されるのである。あるいは、安易に手を伸ばせば噛み付かれてしまうこともある。これはきっと、読み解きたい・核心を捉えたいという、表現者・鑑賞者のエゴに対する、詩(を含めたあらゆる作品)自身からの正当な仕打ちであろう。
 「眠らないヤギ」に限らず、本来すべての詩や作品は、初対面の段階であれこれ解読しようなどとすべきではないのかもしれない。礼儀をもって、まずはその存在そのものとシンプルに対峙することが必要なのだと感じる。はなから解読してやるつもりでぎらぎらと目を光らせていては、その詩はこちらに対して心を許してはくれないだろう。
きっと詩というものは皆、神秘的でありごく自然な“なんでもない存在”なのだと思う。その事を、「眠らないヤギ」はその強い存在感で私に示してきた。野生の獣が威嚇するときの眼差しのような圧をもって。このような詩に、詩人生の中で早いうちに出会えたことは幸運であると思う。と同時に、これから先ずっと、この詩のオーラが私の視界の端にちらつくのだと思うと、少々尻込みし嫉妬してしまいそうである。

第36回 ―平野啓一郎― 「追憶」対立を捉え直す光の捕色 中家 菜津子

2020-09-20 12:47:31 | 日記
 作家、平野啓一郎の短編集『高瀬川』(講談社)に、「追憶」という作品がある。実験的作品が収められたこの本の中でも、取り分け不思議な作品だ。本を開き表題の「高瀬川」という短編小説を読み終えた後、確かに小説を読んでいるはずの自分は、突然、現れた「追憶」に混乱する。白紙の上に言葉が点在している。50頁ほどの文章中、最後の見開きを除いて、すべてが言葉の点在で表現される。しかし、この点在には色彩を反転させて降る雪片、或いは、紋白蝶のゆらぎのような有機的な視覚のリズムがある。この文章の余白を再現すること(しかも横書きで)は不可能なので、ここでは改行を似せて引用するが、完成された絵画を天地も気にせずにラフにスケッチしたようなもので、作品から立ち上るポエジーは、実際に本を開くことでしか現れようもない。



       太陽

              の
行方知れずとなっ         た
 
   晴天に           似






     て
孤独な           苦痛の
    

  沈黙
 
   は 罅割れた

世界の最初の

      裂口 に 照り映える


 単純に美しいと詩だと思った。しかし、平野氏は小説家でこの本は短編集だ。本当に詩なのだろうか。混乱はすぐに好奇心に代わる。頁の上に散らばった言葉を、プリズムを通り分光される前の光を求めるように再び圧縮して、見開き分の言葉をメモした。

太陽の行方知れずとなった晴天に似て孤独な苦痛の沈黙は罅割れた世界の最初の裂口に照り映える

 太陽が行方知れずになった晴天とは、平野氏のデビュー小説『日蝕』のことであろうかと直感する。追憶とは自身の執筆の記憶を辿る道なのだろうか?ここから何か物語がはじまるのだろうか?そんな疑問を持ちながら、次の頁からも余白を圧縮して読み、ノートとして気ままに感想を書く。初読時の再現だと思ってほしい。

僕の聞いていた絶え間ない二つの音は真昼の打ち立てた神話の懐かしい輪郭だった

沢辺の澄んだ岩肌僕をあの不在の岸に記す

肉の隙間に飛沫を上げていた垂直横倒しの倦怠二つは欄干の向こうで互いを触れ合った真昼の虚空の目眩のように 幻 汚穢の浸透 裏返された蘇生 裸体の結び目 輪郭を潜り抜けた裂口の淵

銀色に澄んだ目映い産湯の面で祝福されたその裸体僕の輪郭の最初の歓喜の窓辺その歌声


 ここまで読んで、多用されるリフレインやメタファーや形式に、これは詩なのだと確信する。認識が小説から詩へと完全にジャンルを越境した瞬間、そこに明確な物語を探すのをやめた。詩から反射したイメージを抽象画のようにそのまま心象に置きつつ細部を自分なりに広げて読む。
 私が「汚穢」という言葉を知ったのは、確かに『日蝕』だった。(穢れ、汚れ、糞尿など不浄のものの意味だが、実態ではなく、関係性において境界線を越え外から内へ入ってくるものを人は不浄とみなす。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の項目
https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9A%E7%A9%A2-161953が秀逸なので是非読んでほしい。)垂直と横倒し、澄んだ岩肌と汚穢、不在と肉、対立的な二つのイメージを裂いたり、結び付けたり、裏返したりしているのだろうか。

十一月の底にひっそりと埋め込まれていた刑架準備された無言はまだ知らなかった見出された不在の深い嘆息を

 刑架という言葉は辞書にはなく、しかし意味は自明で。磔刑に処せられる者を支える柱だ。『日蝕』では魔女の焚刑の場面で「刑架」が登場する。魔女の処刑に主人公はキリストの磔刑を重ねて、対立する二項が完全に調和するような法悦を得る。しかしここでは、もっと個人的な記憶がイメージされていて、それが十一月という具体的な時間を表しているのではないかという気がした。それが何かはわかりようもないが、誕生や死、或いは過去を振り返った時、人生の分かれ道になるような特別な意味を持つ月は誰にでもある。

心臓に固く凝った沈黙白い手は西の稜線の向こうで何時までも震えていた最後の苦痛を抉じ開けて蘇生の結び目を世界の針穴に通すために

伝言の細い先端暗鬱な十一月に素早く刻んだ時の断面

「伝言の」ではじまる見開きの項はとりわけ美しい。左の頁は、「時の     断面」の四文字だけが記されている。溢れた余白が、例えこの世界が有限だとしても、永劫に続く観念の時空として感じられる。そしてそこに時の断面としてある十一月。

心臓を数え間違えて失われた真昼の内側で何時までも震えていた少年僕自身へと流れ込む太陽の不在

伝言は沢辺の岩肌に埋め込まれた欄干の向こうで取り残されていた僕の不在のその深い淵に


太陽の伝言を走り書きした紙切れは肉の木立の奥へと迷い込んで僕の隙間に一つの壮麗な鐘楼を準備しあの沈黙を無言を忍ばせていた

僕の心臓は数え間違えられた暮鐘の音のように西の張り裂けそうな空に苦痛のこだまの楽譜を記す


 繰り返される「心臓」という言葉は、命のリミットを刻む時計として機能していて、それが沈黙したり、心臓を数え間違えるのは、時を流れてゆく命への大きな不安として感じる。それがなぜなのか、今ではもっと明確な答えを持っていて後述するが、それを知るのは、初めてこの詩を読んでから、随分と時が流れた後のことだった。子どもが大人になるほど時間だ。
 小説を読む時、登場人物の聞こえないはずの声がその為人を知るにつれ、いつのまにか声を持ち耳ではない場所で聞こえるようになるのだが、この詩の「僕」は、初めて読んだ時から作者の声として聞こえてきていた。太陽の伝言は、文字通り太陽から伝えられた言葉として受け止めればいいのだが、平野氏の声が聞こえると、文学の構想や表現の啓示のような閃きの光のことかもしれないし、準備された鐘楼は例えば『日蝕』のことではないか。そんな風に私には思えた。


切断された血の奥で固く凝っていた倦怠失われた僕の鮮血裏返された分厚い世界の岸

僕を刺していた伝言を留める銀色のピンの暗鬱数え間違えられた暮鐘の絶え間ないその残響に震えて苦痛の浸透に照り返る葉脈

僕は銀色の冷たい金属製の刑架に取り残され孤独なあの沈黙に手を伸ばした

伝言を走り書きしたその血の底僕の手を滑るように西の稜線に張り裂けた目映い虚空の言葉の幻古びた神話の補色の断面に見出された不在の裂口の


 血液の赤、葉脈の緑。動物と植物が捕色の関係にあることに気づく。人間が二項対立的に見做しているものを、補色という関係性で捉え直して二つが交じり合ったとき、それは補いあう眩い光だ。目映い虚空の言葉の幻とはそんな世界ではないのか。そのことに考え及び、『日蝕』のクライマックスを想起せずにはいられない。美と醜、男と女、聖と俗、生と死、有と無、渾然一体となって現れる光。しかし、ここでは捕色を混ぜ合わせてできる銀色は僕に太陽の伝言を射している暗鬱なピンの色であり、苦痛の沈黙を留めている形架だ。その沈黙に、「僕」はついに手をのばす。例えば、遠藤周作が描いた『沈黙』では、究極の場面でも神は決して応えない。こういった沈黙への複雑な心情を愛憎と呼べるのではないか。愛憎とは、どんなに想っても決して顧みられることがなく苦痛を伴う、単純に愛とだけでは表現しきれない感情のことではないか。そういう思いがあって、愛憎をテーマに依頼を受けたとき、「追憶」について書くことを選んだ。この詩の中で沈黙の行き着く先は一体どこなのだろう。

太陽は紙切れだったのでは手の中で飛沫を上げて流れ出した言葉の吐き気を催すような僕自身への浸透 緑の僕のまだ知らなかった世界の針穴に見出された窓辺での深い嘆息

 信じていたあるイメージが実はただの言葉ではないのかという不安、自家中毒を起こすような言葉の浸透、その中で掴み取るもの、この感覚は言葉に真剣に向き合ったことのある人間にはわかると思えた。

僕の走り書きした沈黙今一つの言葉最後の神話の太陽は不在の岸を潤し裂口の淵を記す

僕は静けさの奥で十一月の沢辺を探していた失われた僕の産湯の祝福に手を伸ばすために


 暗鬱な十一月には沈黙の留められた刑架が埋め込まれているはずだ、しかし、刑架から想起される死の補色はなんだろうか、死に対する観念の捕色は誕生だ。産湯が輝き出す。

僕を触れたのはああ懐かしい最初の歌声

白い乳のひっそりと溢れ出した瑞々しい結び目僕を潤すその

僕の心臓に暗鬱な沈黙の晴天を刻んだ欄干の緑の眩暈を瑞々しい蘇生に変えようとしていたそれは僕を世界の最初の針穴に通した匂やかなしずくだった歓喜は不在の岸を潜り抜け嘆息の淵に照り映える


 「未来は過去を変える」というのは、平野氏の小説『マチネの終わりに』に繰り返し現れるもモチーフで、過去の出来事の認識を時が流れた未来で問い直すことで、同じ出来事が全く別の意味合いを持ち得るという意味だが。彼はこの時すでに自身の生を文学的遡行によって、覚えていないはずの過去へと戻り、死と誕生のひかりの絵の具を混ぜ合わせ、錬金術の如く新たな境地を精製したのではないだろうか。


二つの水は白い真昼の言葉に祝福されてああ浄められた世界の歓喜の岸に新しい楽譜を記す

 白。嗚呼、補色を混ぜ合わせたときの光の色だ。
 一見ばらばらに点在していた言葉は、緻密に散りばめられ、フーガのようにモチーフを繰り返しながら練り上げられた音楽だと思えた。
 そしてその楽譜の全体は、この詩の最後の頁に改行詩として記される。まるで魔術師の種明かしだ。この後、引用する改行詩の言葉を抜き出して、それより前の頁に散りばめることで点在の詩にしていたのだ。しかも、抜き出された言葉は印字されている場所までぴったりと重なる。そのことが一見無秩序に見える散らばった言葉に法則性を与えていたからこそ、視覚的リズムを持ち得たのだった。これは本を開くことでしか味わえない美しいリズムだ。『高瀬川』を手にして「追憶」を読んで欲しい。そうすれば、絵画的な詩情にも感嘆できるし、頭の中で何枚もの透明な紙を作り出し、そこに印字された全てのページの文字が重なり完全な一編として影をつくるのを楽むこともできる。それにしても、構造の全貌が明らかになっても、詩の神秘は失われず、冗長なところはない。解説や全体図が最後の頁にあるのでない。最後に全体を置くことで、点在(有在)の頁に欠落(不在)を意味できるようになるのだ。ここでも対立する事象を捕色の観点で、平野氏は混ぜ合わせている。また、構造だけでなく情動的にも不安で息が詰まるような閉塞感から目の前が開ける喜びは、この詩のすべての空間と時間を経てこそ体感できる。

僕の心臓に 太陽を刺していたのは
伝言を走り書きした紙切れを留める 銀色の細いピンだった
その先端は 肉の木立に切断された血の 暗鬱な静けさの奥へと迷い込んで
十一月の底に固く凝った 沢辺の冷たい沈黙を探していた

僕は 数え間違えられた暮鐘の隙間に
行方知れずとなっていた 二つの水の音を聴いていた

一つは 白い 乳のように澄んだ手の中で
飛沫を上げていた 絶え間ない 垂直の
今一つは ひっそりと岩肌を滑るように溢れ出して
横倒しの晴天に 素早く西の稜線を刻んだ 倦怠感に似た

二つの音は 埋め込まれた欄干の向こうで
互いの縁を触れ合った その張り裂けそうな残響は
失われた真昼の 目映い 金属製の虚空の内側で
何時までも 目眩のように震えていた

僕は 言葉の壮麗な刑架を打ち立てて
鐘楼に取り残された少年の孤独な空に 最後の苦痛の幻を準備した
古びた神話の産湯の 吐き気を催すような汚穢の面で
僕自身をあの沈黙へと抉じ開けて 流れ込む鮮血の祝福された浸透を
捕色の緑の 裏返された瑞々しい蘇生に変えようとしていた

ああ その時 太陽は 罅割れた分厚い無言の断面に
浄められた 懐かしい裸体のこだまを忍ばせていた
それは僕のまだ結び目を知らなかった輪郭を
世界の最初の針穴に通した 匂やかなしずくだった
見出された歓喜の窓辺で 僕は 不在の岸を潤す その歌声に手を伸ばした
潜り抜けた裂口の深い嘆息の淵に 照り映える葉脈の 新しい楽譜を記すために



 さて、わたしは、この詩の中に出てくる「心臓」を、時を流れてゆく命への大きな不安と前述した。なぜそう感じたのか、そしてこの詩の本当のテーマが何だったのか、『高瀬川』の刊行は2003年だが、2019年になって平野啓一郎デビュー20周年の講演を直接聞く機会を得て知る。

 「『追憶』は、どうしてもストレートに父の死のことを書けなかった僕が、詩の形式を借りて書いた作品です。まず、父の死の情景を比喩的に語った一編の詩を書きました。そしてその言葉をランダムに抽出しながら、あるいは再比喩化し、またあるいは通常の叙述の文に解きほぐしながら、文章を何度も再構成しています。そうすると、非常に不思議なことですが、すべての言葉を再構成し終わった時には、最初のテキストを物語的に一層、深化させた全体ができあがります。(中略)それらの言葉には作品との関係性だけではなく、実は相互に一定の親和性があるのではないか。だからそれらを自由に組み合わせても、結果的に作品の主題接近できるのではないか、という発想です。
(小説を書くきっかけとなった父親の死については)
父は、僕が一歳のときに亡くなっています。休日に昼食を食べていて畳で横になっていたらそのまま心臓が止まってしまった。三十六歳でした。僕は小さすぎたのでどんなに回想しようとしてもどうしても父の記憶にはたどり着けません。でも父のことはよく知っています。母や姉や親戚が、生前の父や亡くなったときのことをいろいろ説明してくれましたので。(中略)父は柔道をやっていて体格が良く、病院に行くこともないくらい健康な人でした。そういう人でもあるとき、突然、心臓が止まって死んでしまう。小さい頃の僕は、その事実自体の不思議さに強い影響を受けて成長しました。今は、自分の心臓が動いているけれど、これが止まったら死んでしまうということなんだろうか、と
(『新潮』「平野啓一郎による平野啓一郎」令和元年十月号)


 平野氏がこの詩で描いた「沈黙」とは、話しかけても、どんなに想像を巡らせても、決して応えが返ってこない死者の無言の沈黙のことだったのだ。「心臓」が突然止まることの不思議や不安も、詩の中に悲痛なまでに表われていた不在が亡き父親への思いだったことも、この講演を聞いた今では、詩から読み取れる。

 とても長い時間をかけて詩を読んでいると、ある日、偶然、その背景を知ることもある。では、わたしが詩から読み取った『日蝕』をめぐる「追憶」は誤りだろうか?そうではないのだ。読者としての読み、作者が込めた思い、今では両者が詩の上で溶け合っている。それで、恩地孝四郎の「ポエム№22 葉っぱと雲」という版画作品を思い出した。『抽象の力』(亜紀書房)の中で岡崎乾二郎は次のように恩地の言葉を解説している。

出来上がった版画は見かけの一枚の画面ではなく複数の異なる版木の重なり、まさに「時所を異にした現象」たる異なる幾つもの絵の重なりあいとしてあるという主張でもあった(「」内は恩地の引用)

 私は、絵画的な美しさと評したが、構成を考えると版画こそがより相応しい。本の中で重なり合う言葉、時代の中で巡り合う異なる主題、作者の思いにそれぞれの読者が重ねていくイメージ。抽象的な詩空間だからこそ出来上がる重層と、新しい読者や新しい時代を経て起こるさらなる重なり合いの可能性を感じている。そして、その重なり合いが捕色関係のように眩い白を生み出すことが想起されて、今では詩が白く輝いて白紙の頁を幻視する。そういえば、『日蝕』にもノンブルだけの印象的な頁があった。わたし個人の読みの試みも可能性もこれからも続いていく。

 どうかこの乱文を読まれた方も、完全な詩の形である本を開いて、自身の感覚を重ね合わせて欲しい。私は次にこの詩を読むとき、平野啓一郎詩集刊行の可能性を、一読者の熱烈な願望として重ねようと思う。私はずっと「追憶」を現代詩の読者に届けたかったのだ。

第35回 ―エミリー・ディキンソン― 鷲 みどり

2020-07-05 02:16:07 | 日記
 エミリー・ディキンソン。19世紀の、アメリカを代表する有名な詩人であるが、海外の詩をほとんど読まずにきてしまった私が彼女の存在を知ったのは、一冊の絵本からであった。マイケル・ビダート作、バーバラ・クーニー絵、掛川恭子訳の『エミリー』(ほるぷ出版・1993)は、十八歳で学校を中退してから、その生涯を終えるまでほとんど家から出ずに詩を書いていた彼女の、近くに越してきたある少女とのささやかな交流を描いたそれ自体が詩的な情緒に溢れた絵本である。絵本の中の彼女は白いドレスに白いショールを纏い、儚げで不思議な雰囲気を持つ女性として書かれている。エミリーの家に招かれた少女は彼女とこんな印象的なやりとりをする。

  「それ、詩なの?」
  「いいえ、詩はあなた。これは、詩になろうとしているだけ」


 私はそれから二冊のエミリー・ディキンソン翻訳詩集を買った。そして、エミリーの先ほどの台詞が、彼女の詩観に基づいたものであることを知った。
 しかし私が彼女を追う道のりは、日本語以外の詩に真剣に取り組むのが初めての私にとってなかなか険しいものであった。訳者によってあまりに印象の異なる詩語たちに振り回され、時に愕然とさせられつつ、詩行を目で追う度、私は彼女の豊かな、あまりにも鋭敏な感性の世界の広大さに飲み込まれていくのを感じた。生前は一冊の詩集も出さなかった彼女に対して何とはなしに私が抱いていた、【孤独な隠遁者】というイメージを生気に満ちたそれらの作品は見事に打ち砕いた。勿論、彼女の作品には死や自身の葬儀に関するものが数多くある。しかしそこには死に裏打ちされた、死の影によってこそ鮮やかに飛翔していく生があった。「手負いの鹿は――もっとも高く跳び上がる――」(『対訳 ディキンソン詩集――アメリカ詩人選(3)』亀井俊介編 岩波書店・1998)にそれは最も顕著に表れている。     
 彼女の死や永遠といったものに対する関わり方は、そこで生涯を費やした当時のニュー・イングランドと何より彼女の家庭に色濃く残っていたピューリタニズムの思想、〈死による永遠の生〉が背景にあることは確かである。しかし彼女の書く作品は教理や哲学といったものから一歩距離を置いて、できるだけ自身の肌感覚に従って書かれていると私は感じた。神の存在を一方で信じつつもそれに対する疑心を隠そうともしない。彼女は自身の内奥を出来うる限り無垢に見つめ続けた詩人であり、自身の世界を何よりも信じ愛していた。
 彼女の詩にこんな一節がある。「独りで私はいられない/大勢客が訪れるから/記録のないこの仲間たちには/鍵は役立たない」(『海外詩文庫2 ディキンスン詩集』 新倉俊一訳編 思潮社・1993)。彼女の住む家とその庭は、彼女にとって途方も無い刺激の来客たちで溢れていて、目も眩むほどの深い〈意味〉があちらこちらにぽんと置かれていた。彼女はその目に見えない〈意味〉を拾い集め続けることにその一生を費やした。私が学生時代にとうに失った感覚を、彼女は五十五歳で死去するまで持ち続けた。そんな彼女のことばに触れる度、私は惨めに打ちのめされる。そしてまたページをめくる手を止められないでいるのだ。