作家、平野啓一郎の短編集『高瀬川』(講談社)に、「追憶」という作品がある。実験的作品が収められたこの本の中でも、取り分け不思議な作品だ。本を開き表題の「高瀬川」という短編小説を読み終えた後、確かに小説を読んでいるはずの自分は、突然、現れた「追憶」に混乱する。白紙の上に言葉が点在している。50頁ほどの文章中、最後の見開きを除いて、すべてが言葉の点在で表現される。しかし、この点在には色彩を反転させて降る雪片、或いは、紋白蝶のゆらぎのような有機的な視覚のリズムがある。この文章の余白を再現すること(しかも横書きで)は不可能なので、ここでは改行を似せて引用するが、完成された絵画を天地も気にせずにラフにスケッチしたようなもので、作品から立ち上るポエジーは、実際に本を開くことでしか現れようもない。
太陽
の
行方知れずとなっ た
晴天に 似
て
孤独な 苦痛の
沈黙
は 罅割れた
世界の最初の
裂口 に 照り映える
単純に美しいと詩だと思った。しかし、平野氏は小説家でこの本は短編集だ。本当に詩なのだろうか。混乱はすぐに好奇心に代わる。頁の上に散らばった言葉を、プリズムを通り分光される前の光を求めるように再び圧縮して、見開き分の言葉をメモした。
太陽の行方知れずとなった晴天に似て孤独な苦痛の沈黙は罅割れた世界の最初の裂口に照り映える
太陽が行方知れずになった晴天とは、平野氏のデビュー小説『日蝕』のことであろうかと直感する。追憶とは自身の執筆の記憶を辿る道なのだろうか?ここから何か物語がはじまるのだろうか?そんな疑問を持ちながら、次の頁からも余白を圧縮して読み、ノートとして気ままに感想を書く。初読時の再現だと思ってほしい。
僕の聞いていた絶え間ない二つの音は真昼の打ち立てた神話の懐かしい輪郭だった
沢辺の澄んだ岩肌僕をあの不在の岸に記す
肉の隙間に飛沫を上げていた垂直横倒しの倦怠二つは欄干の向こうで互いを触れ合った真昼の虚空の目眩のように 幻 汚穢の浸透 裏返された蘇生 裸体の結び目 輪郭を潜り抜けた裂口の淵
銀色に澄んだ目映い産湯の面で祝福されたその裸体僕の輪郭の最初の歓喜の窓辺その歌声
ここまで読んで、多用されるリフレインやメタファーや形式に、これは詩なのだと確信する。認識が小説から詩へと完全にジャンルを越境した瞬間、そこに明確な物語を探すのをやめた。詩から反射したイメージを抽象画のようにそのまま心象に置きつつ細部を自分なりに広げて読む。
私が「汚穢」という言葉を知ったのは、確かに『日蝕』だった。(穢れ、汚れ、糞尿など不浄のものの意味だが、実態ではなく、関係性において境界線を越え外から内へ入ってくるものを人は不浄とみなす。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の項目
https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9A%E7%A9%A2-161953が秀逸なので是非読んでほしい。)垂直と横倒し、澄んだ岩肌と汚穢、不在と肉、対立的な二つのイメージを裂いたり、結び付けたり、裏返したりしているのだろうか。
十一月の底にひっそりと埋め込まれていた刑架準備された無言はまだ知らなかった見出された不在の深い嘆息を
刑架という言葉は辞書にはなく、しかし意味は自明で。磔刑に処せられる者を支える柱だ。『日蝕』では魔女の焚刑の場面で「刑架」が登場する。魔女の処刑に主人公はキリストの磔刑を重ねて、対立する二項が完全に調和するような法悦を得る。しかしここでは、もっと個人的な記憶がイメージされていて、それが十一月という具体的な時間を表しているのではないかという気がした。それが何かはわかりようもないが、誕生や死、或いは過去を振り返った時、人生の分かれ道になるような特別な意味を持つ月は誰にでもある。
心臓に固く凝った沈黙白い手は西の稜線の向こうで何時までも震えていた最後の苦痛を抉じ開けて蘇生の結び目を世界の針穴に通すために
伝言の細い先端暗鬱な十一月に素早く刻んだ時の断面
「伝言の」ではじまる見開きの項はとりわけ美しい。左の頁は、「時の 断面」の四文字だけが記されている。溢れた余白が、例えこの世界が有限だとしても、永劫に続く観念の時空として感じられる。そしてそこに時の断面としてある十一月。
心臓を数え間違えて失われた真昼の内側で何時までも震えていた少年僕自身へと流れ込む太陽の不在
伝言は沢辺の岩肌に埋め込まれた欄干の向こうで取り残されていた僕の不在のその深い淵に
太陽の伝言を走り書きした紙切れは肉の木立の奥へと迷い込んで僕の隙間に一つの壮麗な鐘楼を準備しあの沈黙を無言を忍ばせていた
僕の心臓は数え間違えられた暮鐘の音のように西の張り裂けそうな空に苦痛のこだまの楽譜を記す
繰り返される「心臓」という言葉は、命のリミットを刻む時計として機能していて、それが沈黙したり、心臓を数え間違えるのは、時を流れてゆく命への大きな不安として感じる。それがなぜなのか、今ではもっと明確な答えを持っていて後述するが、それを知るのは、初めてこの詩を読んでから、随分と時が流れた後のことだった。子どもが大人になるほど時間だ。
小説を読む時、登場人物の聞こえないはずの声がその為人を知るにつれ、いつのまにか声を持ち耳ではない場所で聞こえるようになるのだが、この詩の「僕」は、初めて読んだ時から作者の声として聞こえてきていた。太陽の伝言は、文字通り太陽から伝えられた言葉として受け止めればいいのだが、平野氏の声が聞こえると、文学の構想や表現の啓示のような閃きの光のことかもしれないし、準備された鐘楼は例えば『日蝕』のことではないか。そんな風に私には思えた。
切断された血の奥で固く凝っていた倦怠失われた僕の鮮血裏返された分厚い世界の岸
僕を刺していた伝言を留める銀色のピンの暗鬱数え間違えられた暮鐘の絶え間ないその残響に震えて苦痛の浸透に照り返る葉脈
僕は銀色の冷たい金属製の刑架に取り残され孤独なあの沈黙に手を伸ばした
伝言を走り書きしたその血の底僕の手を滑るように西の稜線に張り裂けた目映い虚空の言葉の幻古びた神話の補色の断面に見出された不在の裂口の
血液の赤、葉脈の緑。動物と植物が捕色の関係にあることに気づく。人間が二項対立的に見做しているものを、補色という関係性で捉え直して二つが交じり合ったとき、それは補いあう眩い光だ。目映い虚空の言葉の幻とはそんな世界ではないのか。そのことに考え及び、『日蝕』のクライマックスを想起せずにはいられない。美と醜、男と女、聖と俗、生と死、有と無、渾然一体となって現れる光。しかし、ここでは捕色を混ぜ合わせてできる銀色は僕に太陽の伝言を射している暗鬱なピンの色であり、苦痛の沈黙を留めている形架だ。その沈黙に、「僕」はついに手をのばす。例えば、遠藤周作が描いた『沈黙』では、究極の場面でも神は決して応えない。こういった沈黙への複雑な心情を愛憎と呼べるのではないか。愛憎とは、どんなに想っても決して顧みられることがなく苦痛を伴う、単純に愛とだけでは表現しきれない感情のことではないか。そういう思いがあって、愛憎をテーマに依頼を受けたとき、「追憶」について書くことを選んだ。この詩の中で沈黙の行き着く先は一体どこなのだろう。
太陽は紙切れだったのでは手の中で飛沫を上げて流れ出した言葉の吐き気を催すような僕自身への浸透 緑の僕のまだ知らなかった世界の針穴に見出された窓辺での深い嘆息
信じていたあるイメージが実はただの言葉ではないのかという不安、自家中毒を起こすような言葉の浸透、その中で掴み取るもの、この感覚は言葉に真剣に向き合ったことのある人間にはわかると思えた。
僕の走り書きした沈黙今一つの言葉最後の神話の太陽は不在の岸を潤し裂口の淵を記す
僕は静けさの奥で十一月の沢辺を探していた失われた僕の産湯の祝福に手を伸ばすために
暗鬱な十一月には沈黙の留められた刑架が埋め込まれているはずだ、しかし、刑架から想起される死の補色はなんだろうか、死に対する観念の捕色は誕生だ。産湯が輝き出す。
僕を触れたのはああ懐かしい最初の歌声
白い乳のひっそりと溢れ出した瑞々しい結び目僕を潤すその
僕の心臓に暗鬱な沈黙の晴天を刻んだ欄干の緑の眩暈を瑞々しい蘇生に変えようとしていたそれは僕を世界の最初の針穴に通した匂やかなしずくだった歓喜は不在の岸を潜り抜け嘆息の淵に照り映える
「未来は過去を変える」というのは、平野氏の小説『マチネの終わりに』に繰り返し現れるもモチーフで、過去の出来事の認識を時が流れた未来で問い直すことで、同じ出来事が全く別の意味合いを持ち得るという意味だが。彼はこの時すでに自身の生を文学的遡行によって、覚えていないはずの過去へと戻り、死と誕生のひかりの絵の具を混ぜ合わせ、錬金術の如く新たな境地を精製したのではないだろうか。
二つの水は白い真昼の言葉に祝福されてああ浄められた世界の歓喜の岸に新しい楽譜を記す
白。嗚呼、補色を混ぜ合わせたときの光の色だ。
一見ばらばらに点在していた言葉は、緻密に散りばめられ、フーガのようにモチーフを繰り返しながら練り上げられた音楽だと思えた。
そしてその楽譜の全体は、この詩の最後の頁に改行詩として記される。まるで魔術師の種明かしだ。この後、引用する改行詩の言葉を抜き出して、それより前の頁に散りばめることで点在の詩にしていたのだ。しかも、抜き出された言葉は印字されている場所までぴったりと重なる。そのことが一見無秩序に見える散らばった言葉に法則性を与えていたからこそ、視覚的リズムを持ち得たのだった。これは本を開くことでしか味わえない美しいリズムだ。『高瀬川』を手にして「追憶」を読んで欲しい。そうすれば、絵画的な詩情にも感嘆できるし、頭の中で何枚もの透明な紙を作り出し、そこに印字された全てのページの文字が重なり完全な一編として影をつくるのを楽むこともできる。それにしても、構造の全貌が明らかになっても、詩の神秘は失われず、冗長なところはない。解説や全体図が最後の頁にあるのでない。最後に全体を置くことで、点在(有在)の頁に欠落(不在)を意味できるようになるのだ。ここでも対立する事象を捕色の観点で、平野氏は混ぜ合わせている。また、構造だけでなく情動的にも不安で息が詰まるような閉塞感から目の前が開ける喜びは、この詩のすべての空間と時間を経てこそ体感できる。
僕の心臓に 太陽を刺していたのは
伝言を走り書きした紙切れを留める 銀色の細いピンだった
その先端は 肉の木立に切断された血の 暗鬱な静けさの奥へと迷い込んで
十一月の底に固く凝った 沢辺の冷たい沈黙を探していた
僕は 数え間違えられた暮鐘の隙間に
行方知れずとなっていた 二つの水の音を聴いていた
一つは 白い 乳のように澄んだ手の中で
飛沫を上げていた 絶え間ない 垂直の
今一つは ひっそりと岩肌を滑るように溢れ出して
横倒しの晴天に 素早く西の稜線を刻んだ 倦怠感に似た
二つの音は 埋め込まれた欄干の向こうで
互いの縁を触れ合った その張り裂けそうな残響は
失われた真昼の 目映い 金属製の虚空の内側で
何時までも 目眩のように震えていた
僕は 言葉の壮麗な刑架を打ち立てて
鐘楼に取り残された少年の孤独な空に 最後の苦痛の幻を準備した
古びた神話の産湯の 吐き気を催すような汚穢の面で
僕自身をあの沈黙へと抉じ開けて 流れ込む鮮血の祝福された浸透を
捕色の緑の 裏返された瑞々しい蘇生に変えようとしていた
ああ その時 太陽は 罅割れた分厚い無言の断面に
浄められた 懐かしい裸体のこだまを忍ばせていた
それは僕のまだ結び目を知らなかった輪郭を
世界の最初の針穴に通した 匂やかなしずくだった
見出された歓喜の窓辺で 僕は 不在の岸を潤す その歌声に手を伸ばした
潜り抜けた裂口の深い嘆息の淵に 照り映える葉脈の 新しい楽譜を記すために
さて、わたしは、この詩の中に出てくる「心臓」を、時を流れてゆく命への大きな不安と前述した。なぜそう感じたのか、そしてこの詩の本当のテーマが何だったのか、『高瀬川』の刊行は2003年だが、2019年になって平野啓一郎デビュー20周年の講演を直接聞く機会を得て知る。
「『
追憶』は、どうしてもストレートに父の死のことを書けなかった僕が、詩の形式を借りて書いた作品です。まず、父の死の情景を比喩的に語った一編の詩を書きました。そしてその言葉をランダムに抽出しながら、あるいは再比喩化し、またあるいは通常の叙述の文に解きほぐしながら、文章を何度も再構成しています。そうすると、非常に不思議なことですが、すべての言葉を再構成し終わった時には、最初のテキストを物語的に一層、深化させた全体ができあがります。(中略)それらの言葉には作品との関係性だけではなく、実は相互に一定の親和性があるのではないか。だからそれらを自由に組み合わせても、結果的に作品の主題接近できるのではないか、という発想です。」
(小説を書くきっかけとなった父親の死については)
「
父は、僕が一歳のときに亡くなっています。休日に昼食を食べていて畳で横になっていたらそのまま心臓が止まってしまった。三十六歳でした。僕は小さすぎたのでどんなに回想しようとしてもどうしても父の記憶にはたどり着けません。でも父のことはよく知っています。母や姉や親戚が、生前の父や亡くなったときのことをいろいろ説明してくれましたので。(中略)父は柔道をやっていて体格が良く、病院に行くこともないくらい健康な人でした。そういう人でもあるとき、突然、心臓が止まって死んでしまう。小さい頃の僕は、その事実自体の不思議さに強い影響を受けて成長しました。今は、自分の心臓が動いているけれど、これが止まったら死んでしまうということなんだろうか、と」
(『新潮』「平野啓一郎による平野啓一郎」令和元年十月号)
平野氏がこの詩で描いた「沈黙」とは、話しかけても、どんなに想像を巡らせても、決して応えが返ってこない死者の無言の沈黙のことだったのだ。「心臓」が突然止まることの不思議や不安も、詩の中に悲痛なまでに表われていた不在が亡き父親への思いだったことも、この講演を聞いた今では、詩から読み取れる。
とても長い時間をかけて詩を読んでいると、ある日、偶然、その背景を知ることもある。では、わたしが詩から読み取った『日蝕』をめぐる「追憶」は誤りだろうか?そうではないのだ。読者としての読み、作者が込めた思い、今では両者が詩の上で溶け合っている。それで、恩地孝四郎の「ポエム№22 葉っぱと雲」という版画作品を思い出した。『抽象の力』(亜紀書房)の中で岡崎乾二郎は次のように恩地の言葉を解説している。
出来上がった版画は見かけの一枚の画面ではなく複数の異なる版木の重なり、まさに「時所を異にした現象」たる異なる幾つもの絵の重なりあいとしてあるという主張でもあった(「」内は恩地の引用)
私は、絵画的な美しさと評したが、構成を考えると版画こそがより相応しい。本の中で重なり合う言葉、時代の中で巡り合う異なる主題、作者の思いにそれぞれの読者が重ねていくイメージ。抽象的な詩空間だからこそ出来上がる重層と、新しい読者や新しい時代を経て起こるさらなる重なり合いの可能性を感じている。そして、その重なり合いが捕色関係のように眩い白を生み出すことが想起されて、今では詩が白く輝いて白紙の頁を幻視する。そういえば、『日蝕』にもノンブルだけの印象的な頁があった。わたし個人の読みの試みも可能性もこれからも続いていく。
どうかこの乱文を読まれた方も、完全な詩の形である本を開いて、自身の感覚を重ね合わせて欲しい。私は次にこの詩を読むとき、平野啓一郎詩集刊行の可能性を、一読者の熱烈な願望として重ねようと思う。私はずっと「追憶」を現代詩の読者に届けたかったのだ。