俳句エッセイ わが愛憎句

毎月1回原則として第2土曜日に愛憎句のエッセイを掲載します。

第13回 愛憎(?)の句 岡嶋 真紀

2019-11-03 12:12:14 | 日記
注意事項
※家族以外からの着信に対しては、第一声は「ご迷惑おかけしてすみません」と言うようにしている人間が書いています。
※好き勝手に語っているため、お目汚しの際はお許しください。


 「愛憎」という言葉がはらむ、燃え上がるように激しい感情を抱くといった経験がない。恥ずかしながら。
 が、目の当たりにしてみて愕然とし、そしてだんだんと悔しくなって、最後には愛おしくなる俳句が世の中には溢れている。


  カンバスの余白八月十五日 神野紗希

  高校生の私が俳句と出会ったのは、顧問に頭を下げられて出場することにした俳句甲子園だった。どんな大会か分からず、「歴代最優秀句を見るぞな」と顧問より資料をもらったとき、その衝撃が訪れた。
 顧問(国語科目教師)の解説を上の空に、この衝撃を自分の関係者各位にどう伝えようか考えていた。
 ただの余白ではないのである。カンバスなのである。絵の具を塗りたくるはずの、あの布にまっさらな余白があって、あの特別な八月十五日なのである。
 手に取れるようで手に取れないその感覚を、今になっても把握しきれないことが悔しく、同時に安堵してもいる。


  冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城

 「冬=死」というのは大体の人が抱くことのある感覚だと思っている。(案外、冬の方が生き生きしているのではと最近思い始めてはいるが。)
 死にそうな蜂が歩いていく。もう諦めて動かなくなれば良いのに歩くのは何故か。「死にどころ」がないからか。では、この蜂にとっての「死にどころ」はどこなのか。この蜂を見ている人は、蜂が動かなくなるまで見るつもりなのか。死にどころがない人だからここまで蜂を見ているのかもしれない。
 時々この俳句を思い出しては、「死にどころなく」という表現から易々と思い浮かぶ蜂の様に恐れと哀れみを感じ、のちに待っている死の瞬間に苦しさを感じている。


  ウーロンハイたつた一人が愛せない 北大路翼

 不特定多数から愛する人を選べないのかもしれないし、そもそも誰かを愛することができないのかもしれない。「愛せない」とぼやく人なのかもしれないし、それを聞いている人なのかもしれない。何にせよ、「たつた一人が愛せない」とは救いのない哀しみにも怒りにも諦めも感じとれる言葉である。
 救いのない言葉の前に、救いのようにウーロンハイがある。でもそれは、烏龍茶のもとを薄めた上にアルコールを割った飲み物なのである。
 はたから見ると本当に救いのないように見えるが、私は違うと言いたい。ウーロンハイがあるから、この救いのないつぶやきがマイナスの感情をひっくるめていじらしくも愛おしさを感じさせるのである。



  立ち上がるときの悲しき巨人かな 曾根毅

 とてつもなく大きい巨人が立ち上がった。植物はちぎれ、重力に従って岩は埃のように、生き物はおもちゃのように落ちていき、その巨人の身体は雲を割って光を遮り、そして……
 とてつもなく巨大なものが人の形をしていたから、余計に悲しく感じられるのかもしれない。立ち上がったあと、巨人には生き物も無機物も何も近づけないのだから。
 また、大きすぎるものが動き始めたところを見た時の感動を分解したとき、驚き・わくわく・恐れの他に悲しみがあると思っている。自分を取り巻いている自然のルールさえものともせず、あの大きなものは動くのだ。私たちには抗えないというのに。
 だから、立ちあがるときの巨人が悲しいのである。


  白梅のあと紅梅の深空あり 飯田龍太

 色だけでなく、梅や空気の匂い、周りの寒さまで思いを巡らせて欲しい。
 愛憎を語る場ではあるが、すみません。この句についてはまだ何も消化しきれていません。

 愛憎と聞くとどうしても「この俳句が凄すぎる」という他に「これは凄いけれども…… 私も思いついていた……」という憎々しさも連想してしまう。鑑賞する際に抱いたことのある感情ではあるけれども、それは「憎さ」ではなく悔しさなので表に出さずそっと蓋をしておこうと思う。

 ただ、枚挙に暇がない状態で苦しい。世の中には凄い俳句が多く、短歌や詩も挙げて良いと言われた暁には気が狂っていた。


 愛憎の句について記事を書きましたが、いかがだったでしょうか。
 思いの丈を書き連ねただけなので、どうしようもなく汚らしい文章になってしまったのが心苦しいのですが、私に続いて誰か愛憎を語ってください。

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