俳句エッセイ わが愛憎句

毎月1回原則として第2土曜日に愛憎句のエッセイを掲載します。

第15回 「究極の非日常・究極の日常」 北柳 あぶみ

2021-04-04 22:02:49 | 日記
 父の兄である伯父太郎は、二十歳のとき、フィリピン・ルソン島にて戦死した。父次郎は、七十五歳で病死。二人は双子だった。
 ほぼ同じ時期に生を受けた双子でも、その人生は違う。しかし、次の双子はどうだろう。
 
  双子なら同じ死顔桃の花      『龍宮』照井翠 
 
 東日本大震災から十年の月日が過ぎた。
 当時、照井翠氏は岩手県釜石市在住。被災した後、教え子である高校生達と体育館で避難生活を送っている。そこで詠まれたのが、句集『龍宮』だ。このたび上梓された句集『泥天使』、エッセイ『釜石の風』と合わせて、震災三部作となる。
 掲句の双子は、共にあの日の津波にのまれてしまったのだ。
 日本中に流れた津波の映像、その後新聞や雑誌に掲載された瓦礫だらけになった町の姿。私達はその報道に打ちのめされた。しかしあれは、映してはならない部分を排除した情景にすぎない。その場にいた人達にしか見えなかったもの。それが、「死」の現実だ。
 あの日岩手県内陸部にいて、一ヶ月後に沿岸部を訪れた私は、そこに住む親戚や近所に越してきた被災者から話を聞くことはあっても、「被災者」ではない。どこか、ずっと宙ぶらりんのまま十年を過ごした。
 
  春の星こんなに人が死んだのか    照井翠
  つばくらめ日に日に死臭濃くなりぬ   〃

 二〇一一年三月末に沿岸を訪れたときにはなく、五月再訪の際にあったのが「臭い」だ。流され死んだ大量の魚が腐り、悪臭が町を覆いつくしていた。とても車の窓を開けていることができず、生き延びた人々は、この臭いの中で日々を送っているのかと申し訳なく思った。
 そこで作る俳句は、やはり所詮はよそ者が通りすがっただけのものという、ジレンマも味わった。
 同様に究極の非日常としては、戦争がある。戦時下で作られた俳句も多数残っているが、
 
  戦争が廊下の奥に立つてゐた     渡辺白泉

 を揚げたい。無季であることが、なおのこと寒々しい。
 究極の非日常を生き抜いた人がいて、私達の日常がある。今日本中に年賀状に添える写真のような俳句があふれているが、究極の日常句を絞り出している俳人も確かにいる。
 
  鳥の巣に鳥が入っていくところ    波多野爽波

  ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子

 ただごとの中に発見があり、宇宙が内包されている。
 第20回俳句甲子園東京大会で出た、開成高等学校の、

  しやぼん玉の中は土砂降りかもしれず 渡辺光
 
 も忘れられない。この句が出たことで、しゃぼん玉の中はあるいはどしゃぶりかもしれないという概念が生まれたという審査員の言葉に共感した。
 この春、テレビは、十年が経った被災地やその年月を生きた人々の姿を映し出した。それを画面越しに見る私は、日常の中で垂れ流す凡句が自然消滅し、その先に究極の非日常をつかみ取る瞬間があることを信じて作り続けるしかない。

 わたくしはわたくしなりに北開く    辻桃子

 の如くに。

プロフィール
北柳あぶみ
「童子」同人。句集『だだすこ』。おおぎやなぎちかの筆名で、児童文学『俳句ステップ!』『アテルイ 坂上田村麻呂と交えたエミシの勇士』他著作多数。現在、俳句絵本、子ども向け俳句ハウツー本を準備中。

第14回 淋しくない湯豆腐とのいのちのやりとり  音羽 紅子

2021-01-05 00:50:17 | 日記
  湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎

 湯豆腐を食べるたびに、思わず口ずさんでしまう。私にとって愛憎句といえばこれしかない。この名句ゆえに、「いのちのはてのうすあかり」を使うことができないのだから。
 万太郎は、ご存知の方も多いが、俳人、劇作家として大正、昭和期に活躍した。華麗な銀幕の台本を手がける一方で、最初の妻は自死、二度目の妻とは破綻、晩年の愛人は急死し、孤独に過ごしたと言われている。掲句は最晩年の作品。この句の数ヶ月後に、洋画家梅原龍三郎邸で赤貝の握り寿司を喉に詰まらせ逝去した。
 こういった作者の背景を踏まえながら論を展開するのがスタンダードな方法だろう。
 わたしは湯豆腐を食べながら、多々この句を吟じているが、脳裏に万太郎の顔が浮かぶことはあまりない。湯豆腐に対峙していると、おのずと口から出て来るのである。
 俳句をはじめて、はや二十年。まだまだ道半ばである。客観写生の精神で、ものごとを捉えようとしていた。成功するときもしない時もある。俳句の種は美しいものばかりではない、朝起きてから寝るまで、さまざまなモチーフに挑戦した。
 草花を摘み、コンロに火をつけ、大根を切っていると、食事にかかわる一連の作業は、命のやりとりそのものだと思う。命を頂いて、我々は生きているのだ。それは肉や魚からだけではない。植物とて同じだ。
 野菜を茹でる時は、もっとも美しくそれぞれの野菜のいろが出る瞬間を待つことにしている。ほうれん草はほうれん草らしく、人参は人参らしく、はっきりとした濃い色になる瞬間、これこそが〈いのちのはて〉と思うのである。染織家の志村ふくみさんのエッセイは、私の料理に多大な影響を与えた。色を取り出すことは、命をいただくことなのだ。
 掲句に戻ろう。この句が名句たらしめている所以は、〈湯豆腐〉が〈うすあかり〉であるところだと思う。土鍋や鍋の暗褐色と、敷かれた昆布、もうもうとした湯気に包まれて、湯豆腐は、ほのかに白んでいる。鍋に入れる前の冷たい豆腐は、もっと白が冴えている。湯豆腐になり、湯気満ちた暗い鍋に沈んでいるから、〈うすあかり〉なのだ。
 豆腐とて、もとは大豆として生きていた。出汁の昆布もしかり。大地や海を離れて、我々のもとに来てくれた。その最後の命のきらめき、それが、〈いのちのはてのうすあかり〉だ。鍋に沈みながら、食べられるのを待っているのだ。
 今まで住んでいたオホーツクは、生きものの力を感じ取りやすい場だった。札幌に越して、自然の力が弱まったように感じる。土地に野性味がないのだ。いつでも帰れると思っていたが、やすやすと帰れぬ世になってしまった。だからこそ、ここでなすべき「命のやりとり」があるかもしれない。日常生活のささやかなことも、大いなる大地に繋がっている。「豆腐よ、ありがとう」そんな気持ちをこめて、この句を吟じている。

第13回 愛憎(?)の句 岡嶋 真紀

2019-11-03 12:12:14 | 日記
注意事項
※家族以外からの着信に対しては、第一声は「ご迷惑おかけしてすみません」と言うようにしている人間が書いています。
※好き勝手に語っているため、お目汚しの際はお許しください。


 「愛憎」という言葉がはらむ、燃え上がるように激しい感情を抱くといった経験がない。恥ずかしながら。
 が、目の当たりにしてみて愕然とし、そしてだんだんと悔しくなって、最後には愛おしくなる俳句が世の中には溢れている。


  カンバスの余白八月十五日 神野紗希

  高校生の私が俳句と出会ったのは、顧問に頭を下げられて出場することにした俳句甲子園だった。どんな大会か分からず、「歴代最優秀句を見るぞな」と顧問より資料をもらったとき、その衝撃が訪れた。
 顧問(国語科目教師)の解説を上の空に、この衝撃を自分の関係者各位にどう伝えようか考えていた。
 ただの余白ではないのである。カンバスなのである。絵の具を塗りたくるはずの、あの布にまっさらな余白があって、あの特別な八月十五日なのである。
 手に取れるようで手に取れないその感覚を、今になっても把握しきれないことが悔しく、同時に安堵してもいる。


  冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城

 「冬=死」というのは大体の人が抱くことのある感覚だと思っている。(案外、冬の方が生き生きしているのではと最近思い始めてはいるが。)
 死にそうな蜂が歩いていく。もう諦めて動かなくなれば良いのに歩くのは何故か。「死にどころ」がないからか。では、この蜂にとっての「死にどころ」はどこなのか。この蜂を見ている人は、蜂が動かなくなるまで見るつもりなのか。死にどころがない人だからここまで蜂を見ているのかもしれない。
 時々この俳句を思い出しては、「死にどころなく」という表現から易々と思い浮かぶ蜂の様に恐れと哀れみを感じ、のちに待っている死の瞬間に苦しさを感じている。


  ウーロンハイたつた一人が愛せない 北大路翼

 不特定多数から愛する人を選べないのかもしれないし、そもそも誰かを愛することができないのかもしれない。「愛せない」とぼやく人なのかもしれないし、それを聞いている人なのかもしれない。何にせよ、「たつた一人が愛せない」とは救いのない哀しみにも怒りにも諦めも感じとれる言葉である。
 救いのない言葉の前に、救いのようにウーロンハイがある。でもそれは、烏龍茶のもとを薄めた上にアルコールを割った飲み物なのである。
 はたから見ると本当に救いのないように見えるが、私は違うと言いたい。ウーロンハイがあるから、この救いのないつぶやきがマイナスの感情をひっくるめていじらしくも愛おしさを感じさせるのである。



  立ち上がるときの悲しき巨人かな 曾根毅

 とてつもなく大きい巨人が立ち上がった。植物はちぎれ、重力に従って岩は埃のように、生き物はおもちゃのように落ちていき、その巨人の身体は雲を割って光を遮り、そして……
 とてつもなく巨大なものが人の形をしていたから、余計に悲しく感じられるのかもしれない。立ち上がったあと、巨人には生き物も無機物も何も近づけないのだから。
 また、大きすぎるものが動き始めたところを見た時の感動を分解したとき、驚き・わくわく・恐れの他に悲しみがあると思っている。自分を取り巻いている自然のルールさえものともせず、あの大きなものは動くのだ。私たちには抗えないというのに。
 だから、立ちあがるときの巨人が悲しいのである。


  白梅のあと紅梅の深空あり 飯田龍太

 色だけでなく、梅や空気の匂い、周りの寒さまで思いを巡らせて欲しい。
 愛憎を語る場ではあるが、すみません。この句についてはまだ何も消化しきれていません。

 愛憎と聞くとどうしても「この俳句が凄すぎる」という他に「これは凄いけれども…… 私も思いついていた……」という憎々しさも連想してしまう。鑑賞する際に抱いたことのある感情ではあるけれども、それは「憎さ」ではなく悔しさなので表に出さずそっと蓋をしておこうと思う。

 ただ、枚挙に暇がない状態で苦しい。世の中には凄い俳句が多く、短歌や詩も挙げて良いと言われた暁には気が狂っていた。


 愛憎の句について記事を書きましたが、いかがだったでしょうか。
 思いの丈を書き連ねただけなので、どうしようもなく汚らしい文章になってしまったのが心苦しいのですが、私に続いて誰か愛憎を語ってください。

第12回  自由律俳句の逆襲   曾根 毅

2019-03-03 13:19:44 | 日記
  カキフライが無いなら来なかった   又吉直樹
  まさかジープで来るとは       せきしろ

 2009年、2010年に刊行された自由律俳句とエッセイの収められた句集より。掲出した二つの作品は、それぞれそのまま句集のタイトルとなっている。
 自由律(俳句)とは、『俳文学大辞典』(平7、角川書店)によれば、「定型を形式的・外在的なものとみなし、内在律や感動律を重視して現代語(口語)により自由に表現したもの」とある。自由律俳句の代表的作家である尾崎放哉や種田山頭火の作品の多くは、特殊な境涯を背景に一人称で読ませる。作者の境涯が短い表現を補っているのだとすれば、私を含めた大多数の凡人は日常生活のうえで自由律俳句が詠めないということになるのだろうか。せきしろ氏と又吉氏は、諧謔と哀感を絶妙に融和させて、そのニュアンスのうちに一句独立を果たしている。特殊な背景を必要とせず、誇張したレトリックも使用しない。一見散文的な表現で、言外の広がりを表現することに成功している。「愛憎句」の憎とは、この成功に対する私の嫉妬というほどのものである。

 俳句について私にはある予感がある。どれくらい先のことになるのかはわからないが、将来、俳句が現在の自由律俳句と呼ばれているような形をもって定着していくのではないかというもの。正岡子規の短歌、俳句革新。河東碧梧桐の新傾向俳句に端を発する、中塚一碧桜や荻原井泉水らによる自由律運動のような革新ではなく、ゆっくりと自然に派生してゆくことを想像する。
 外国語や異文化の浸透が広がる中で、日常では使用しない文語・旧かなで書き、旧暦に従い、郊外へ出掛けなければ見ることのない希少な自然を写生。外来語を七五調に無理矢理押し込むなど、現代の詩としては違和感の多い状態となっている。もちろん定型を伝統として尊ぶ姿勢を否定はしないが、表現が社会変化に応じてゆくことは、歴史を振り返ってみても自然のことと思われる。

 律という意味では、例えば短歌でリズムを整えるよりも、俳句で言葉のリズムを整えることのほうが難しい。しかしその半面、意味の飛躍、シンタックスの希薄化、連想の多様化など、俳句は自由な構成力を備えていて、音声的、文法的条件にも拘束されることが少ないという特性が挙げられる。これらの特性は、言語特性の壁を越えた国際性の観点において適応力を有していると思う。しかし定型と季語、季題趣味に拘るあまり、その適応力が埋もれてしまっているように感じられてならない。
 俳句が日本語に留まらず、短詩としてより広く親しまれることを考慮すれば、七五調はもとより、定型と季語をそのまま各国の言葉や物に当てはめて、三つの節で表すような形式重視ではなく、いかにして比喩を構成するかといった方法に関心が向けられるだろう。そうした場合、短い詩であるということに拘らず、言語によっては長律に目を向ける必要も出て来るのではないか、などと想像している。


第11回  山口誓子『激浪』以前   三枝桂子

2019-01-25 20:34:18 | 日記


  蟋蟀の無明に海のいなびかり
  伊吹嶽残雪天に離れ去る
  たらたらと縁に滴るいなびかり
  月光に障子をかたくさしあはす

   
 山口誓子の『激浪』より数句。
 誓子の第五句集『激浪』には昭和17年から19年にかけての俳句が収められている。この時期、誓子は病気療養のため伊勢に仮寓していたが、戦局が次第に暗く傾く日々を誓子は自身を取り巻くあらゆるものを素材にして日付入りで多数の俳句を創り続けていた。第五句集はしばしば「句日記」とか「俳句練習帳」と評されてきたが、この時期が誓子にとって重要な一つの節目となったことは間違いない。
 この句集の草稿を眼にした西東三鬼は『俳愚伝』に次のように記している。

 その頃(昭和21年)、私は奈良あやめ池の橋本多佳子を初めて訪問した。つづいて、平畑静塔を同伴したが、その日多佳子は、山口誓子の疎開原稿「激浪」を内覧させた。それによって私は病誓子が戦時下の毎日々々を、ひたすらに作句したことを知り、その執念に感嘆すると共に、絶えて久しい誓子俳句の、作風の激変に驚いた。静塔と私は、長い時間をかけて、その原稿をむさぼり読み、最後の一枚が終つた時、二人は思わず顔を見合わせた。― 西東三鬼『俳愚伝』より

 この一節に触れると、この時の三鬼と静塔の心の動揺や高揚感、その場を支配していた緊張感までもが伝わってくるような気がする。
 誓子の第五句集『激浪』がそれまでの作風から変化したことはよく指摘されているが、この時期誓子の中でどのような俳句的転換があったのか、誓子の俳句の何が変わり何が変わらなかったのか、私はそれを考えさせられる。



  どんよりと利尻の富士や鰊群来
  学問のさびしさに堪へ炭をつぐ
  夜を帰る枯野や北斗鉾立ちに
  海の門や二尾に落つる天の川
  負け海蠃やたましひ抜けの遠ころげ


 誓子の第一句集『凍港』には誓子が跋に記しているようにおおよそ三期にわたる俳句が収められている。上記の作品を含む冒頭の11句は大正10年から14年にかけての初学の時期の作品で、誓子はその時期について「これは私が、従順にも所謂傳統俳句と共にあった時期である」と述べている。そのわずか11句の中にすでに誓子俳句の特徴と思われる要素が鏤められていることに私は注目する。誓子俳句の主な特質とは、即物的に事物を切り取るメカニズムの方法、文体の硬質性、作者誓子自身「我」の存在等だろう。
 なかでも、誓子俳句の文体の硬質性は私が最も心を惹かれるものだが、時にそれは他の要素と絡み合って読む人を跳ね返そうとする。誓子が取り入れた近代的素材をメカニックに捉えようとする方法が、どこか冷たく、非人間的なものとして理解されたのではないかと思う。しかし誓子俳句の底には常に人間誓子が居る。そのことについて誓子は次のように書いている。

 メカニズムの作品にあっては、その一番奥の椅子に作家が坐っていて、そこから作品を操作している。表から見えぬかも知れぬが、作品を奥から操作するものとして作家はあるのである。メカニズムにおける人間はかかる人間である。(『橋本多佳子全句集』解説 附多佳子ノートより)

 この一文の中で誓子は「表から見えぬかも知れぬが」と記しているが、本当のところ誓子は「我」を中心に据え、「我」が何を見、どう感じたのかを表からも主張する作家ではなかったかと思う。

  玄海の冬浪を大と見て寝ねき     第二句集『黄旗』
  たゞ見る起き伏し枯野の起き伏し
  渤海を大き枯野とともに見たり
  枯野来て帝王の階をわが登る

  
  眼のなかの秋の白雲あふれ去る    第三句集『炎昼』
  もの書きて端近くゐればゆく時雨
  飯を食ひくそまりさむき天のもと
  火口ちかく悴けたるわが掌を見たり

  
  わが旅の舷の水母をさし覗く     第四句集『七曜』
  ひとり膝を抱けば秋風また秋風
  われ生きて小鳥の骸をうち目守る
  青蜥蜴唾をごくりとわれ愛す


 誓子の代表句と見なされる俳句群の合間に、このような誓子の「我」がそこかしこに顔を覗かせている。誓子俳句は「写生構成」「即物俳句」と評されてきた。しかし一方で、誓子は俳句の中に「我」を消すことが出来ない作家でもあった。『激浪』の頃は対象物の奥に自身の位置づけを見出そうとしていた時期であったのかもしれない。馬、蟋蟀、蛇、蟻地獄、蜻蛉、蝉、いなづま、曼珠沙華などを徹底的に見つめ、その切り取り方を模索しているかのように繰り返し同じ主題で多作を続けていた。多く指摘されるような作風変化の理由の一つはそこにあるのだろう。
『激浪』の時期、誓子俳句の何が変わり、何が変わらなかったのかを考える時、私の眼にはどこかに「傳統」の文字がちらついてくる。新しい俳句を生きようとした初期句集の頃、誓子が試みたのは新しい素材拡大とモンタージュや連作俳句の理論だった。しかし、徹底的に物と対峙し、物と自己との関係をさぐりながら、誓子はオブジェと自己との融合にたどりついたのではないかと思う。それは誓子が自己の初期作品をふり返って「傳統と共にあった時期」と分析したそれにやや回帰したようにも見える。

  わが行けば一切の蟹葭隠る      『激浪』
  われ彳てばわれに向つて野分浪
  舟虫がわがゐるおなじ畳の上


 誓子の「我」があり、初めて誓子の「物」在り方が見えてくるという方法。それは新しい実験的な方法で走る方向とはどこか違うようにも感じられるが、私はその方法の中にも誓子の崩れることのない硬質な文体を見てそれに魅了される。

  炎天の遠き帆やわがこころの帆    『遠星』

 戦後第六句集『遠星』の中に収録されたこの一句の中にも私は無性に惹きつけられてしまう。