俳句エッセイ わが愛憎句

毎月1回原則として第2土曜日に愛憎句のエッセイを掲載します。

第9回  窓の向こうの鳥  表健太郎

2018-10-22 22:09:23 | 日記
 高屋窓秋は、ひょっとしたら本当に鳥になったのではないだろうか。今回の依頼にあたってあれこれ句を思い巡らすうちにどうしても窓秋から一句を選びたくなり、とりわけて気に入っている「ひかりの地」を読み返していたのだが、そこである直感を得た。
「ひかりの地」は昭和五十一年刊『高屋窓秋全句集』(ぬ書房)に百三句を収録する形で発表された、実質上、窓秋にとっての第四句集にあたる。窓秋の俳句遍歴については、ここに紙幅を割いている余裕がないため詳しくは『現代俳句の世界 16』(朝日文庫)の「解説」を参照されたいが、注意しておくべきは彼が三度も俳句活動を休止していること、その根底には「「写生俳句とは全く別」の美意識をもって、自分自身の俳句の発見につとめていた」(三橋敏雄)高貴な詩精神があったということである。だから「ひかりの地」が句集という体裁ではなく収録という形式において発表されたのも、もしかすると句集となることで句風が一旦定着してしまうことに対し、彼の潔癖がそれを許さない面があったからかもしれない。
 とにかく「ひかりの地」は窓秋の句業の中では後期の作品群であり、ここにおいて彼の俳句世界はひとつの境地に入ったように思う。
 たとえば以下の一句。

  鳥がゆくたびに日の原残りけり

「日の原」は日の当たる原野のことであろうが、その原野に鳥が飛来し、また飛び去ってゆく。一見、少しも劇的な様子はなくむしろ平凡過ぎると思う向きもいるだろう。しかし、この句に詠われているのはそんな日常的時間のことではない。よく読めば気付く通り、「日の原」は再発見されているのだ。つまり鳥が原野に来ている間には鳥の方へ意識が移り原野の存在は忘れられてしまう。だが、鳥が飛び翔った後にふと見ると、そこにはまたいつもと同じ原野が残っている。鳥はここでは現在時間の謂であり、原野はもっと根源的な宇宙時間を体現している。高速で回転する車輪が、ある瞬間に静止して見えることがあるが、回転はそもそも車輪にとって表面的な現象に過ぎず、車輪という根本を覆すものではあり得ない。同様に「日の原」の再発見は鳥の習慣を一過性の出来事として浮き彫りにし、その根本にはもっと大きな時間の流れがあることを改めて強調するのである。
「ひかりの地」に話を戻せば、掲句を見ても分かるように殆どの句が観念的な語の使用を避けている。扱われているのは「風」「ひかり」「花」「海」「かすみ」「蝶」「鳥」と、あたかも自然界を構成する原子のような言葉ばかりで、全体に静謐感が漂い、どこか遥かな場所を思わせる趣きがある。
 なかでも窓秋は「鳥」に強く惹かれていた。それは「ひかりの地」に収録された作品群「鳥世界」のタイトルからも明らかだろう。

  海とほく海のむかふへ鳥世界
  太陽や人死に絶へし鳥世界
  一望のいのち流れて鳥山脈よ


「鳥世界」とは窓秋の造語だが、先の説明に漏れず掲句がみなこの現実から遠く離れた向こう側を目指していることは分かっていただけるのではないだろうか。しかし、鳥に惹かれ自然の神秘的な悠久性を詠い上げながら、「ひかりの地」には本来あってしかるべきはずの語が見当たらないのだ。再読中、それに気付いたときは電流が走った。
 そう、「空」の語を使用した句が全百三句のうち、たった一句しかないのである。「ひかりの地」を構成する言語については先に原子という言葉で説明した。ならば「空」がその一要素に含まれていても決して不思議ではなく、むしろ一句しか用例が見られないということの方が却って奇妙に思える。だが、このとき、ふと思い出した。
 昔、何かの本の中に松岡正剛が「花は蝶を自身の延長だと思っている」云々ということを書いていた。だとすると、鳥が己れの身体を空の一部分と信じていたとしても別段不思議はないのではないだろうか。つまり飛んでいるときはもちろんのこと、梢に休息しているときでさえ、ひょっとしたら鳥たちは自身を空と切り離して考えたことなどなかったのではないだろうか、と思ったわけだ。尤も、生物学的な見解も含めた上でのセイゴウの推論に比べれば、この直感はあくまでレトリックであり少しも空想の域を出るものではない。しかし、俳句も詩の一種だと考えるなら鳥の気持ちを想像してみるのも、そう悪いことではないだろう。
 もし鳥が空の一部分だったとすれば、窓秋はきっと鳥になったのだと思う。「空」が詠まれなかったのも、鳥にとって空はもともと意識する対象ではなかったのだから。しかし気になるのは、唯一「空」を読み込んだ一句である。

  鳥棲まぬこの山びこに空を撃つかな

「山びこ」の「空を撃」ってもそこには何の影もなく、銃声は空しくこだましてすぐに消えてしまうだろう。一種の寂寥感と郷愁を湛えたこの句の主体は、偶然か必然か「鳥」がいなくなったことで「空」を意識していたのである。

(初出 『LOTUS』第11号 2008.7)

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