俳句エッセイ わが愛憎句

毎月1回原則として第2土曜日に愛憎句のエッセイを掲載します。

第6回  天上の歌   丑丸敬史

2018-05-05 18:42:44 | 日記
  霧襖わが幼年を差し出さん     豊口陽子「LOTUS」誌掲載句

 恐縮ではあるが、筆者が所属する同人誌「LOTUS」仲間の豊口陽子の俳句を取り上げる。「LOTUS」の最新号(第37号)で彼女の特集が組まれ、それを契機に彼女のこれまでの全句業に接する機会を得た。『花象』(1986年)、『睡蓮宮』(1992年)、『藪姫』(2005年)とこれまでの歩みを見るに、すでに豊口は第一句集で完成していたことを知る。

 山中でいつの間にか霧襖に囲まれた経験を持つ。人間は今という瞬間をのみ生きる、そんなことを改めて思い知らされる、そんな不思議な経験である。前も後ろも見えない世界。その霧襖に差し出すものが「わが幼年」だという。幼い頃の恥ずかしい黒歴史を隠したい人もいようが、そのようなつもりで幼年を霧襖に差し出しているわけではない。この幼年は字義通りの幼年ではなく、幼くも見えよう来し方これまでの自分全てとその行為全てである。未来の私と過去の私とが今の自分を接点として出会う。この行為はこれまでの自分を贄として差し出す行為であり、過去の自分を未来の自分に祝福してもらうことを切望する行為である。

 豊口の俳句に安井浩司の俳句を感じる人は多かろう。彼女と安井の関係を知るまでもなく、彼女が安井に多大な影響を受けていることはこの句一つを持っても窺い知れる。眩暈を感じる。この句を安井句として提出されても筆者はそう信じるし、作者名を告げられなければまず安井の句かと思う。

 ある創作物が傾倒する芸術家のそれに似てしまうということは当たり前のことであり、ましてやわずか17文字しか持たない俳句の世界観が私淑する俳人の俳句に似てしまうということは、これはもう止むを得ないことである。良い悪いの話でなく。影響を受けるということはそういうことである。傾倒する芸術家がいるということは幸せなことであり素晴らしいことである。しかし、そこからいかにオリジナリティーを出してゆくか、そこが作者の力量である。

 この俳句は作者名とともに銘記されるものではなく、作者不明として我々の記憶に残る俳句であって欲しい。「俳句は無名性が良い」とかつて高名な俳人が言ったが、理由は異なれどその言は正しい。複雑な芸術作品と異なり、単純な芸術作品である俳句は、ことさらその作者名に引きずられて付加価値がつきやすい。モーツァルトのように優れた作曲家は、頭の中に天から舞い降りてきた曲を自動書記のように書き留めるだけである。優れた俳人の仕事も同じである。この俳句が、安井の口からこぼれ出たにせよ、豊口の口から溢れ出たにせよ、その価値は変わらない。ただ、この俳句が、筆者の口から紡がれたものでなかったという、この一事が、愛憎句の所以なのである。

 筆者は安井俳句を愛する者であるが、安井句がたとえ他の俳人の口から溢れ出たものであろうが、それを愛する。作品の価値は作者から自由である。安井は優れた依坐である。ただそれだけである。それは作者を貶めたことにはならない。天上の声に耳を澄ましてそれを書き記すことのできる者、それが優れた芸術家である。

 最後に、豊口を通して語られた天上世界を引いてさらなる愛憎を深くしたい。

  盲人らやわらかき手を森に入れ      豊口陽子句集『花象』
  滝の僧蝶よりうすくひかりあう      豊口陽子句集『花象』
  睡蓮や陵ひとつ吸い了わる        豊口陽子『睡蓮宮』
  さくらかな闇の切り口ふれ合うて     豊口陽子『睡蓮宮』
  花合歓を抱く関節をみな外し       豊口陽子『睡蓮宮』
  野を裁つにひばりは蛇の長さ以て     豊口陽子『藪姫』
  夢殿へ日は足音を蔵いけり        豊口陽子『藪姫』
  春雷や突如ほっけが身を開く       豊口陽子「LOTUS」誌掲載句
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