俳句エッセイ わが愛憎句

毎月1回原則として第2土曜日に愛憎句のエッセイを掲載します。

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第7回  我が俳句空間の座標  無時空映

2018-07-22 10:42:26 | 日記
 俳句を始めたばかりのころ、佐藤文香氏の句会に行って「無時空さんなら気に入ると思うよ~」と言って攝津幸彦のことを教えてもらった。早速、週末に図書館に行って「自選句集」を借りてみたところ大変面白く、興奮し、翌朝目覚めたら寝床でそのままそれっぽい俳句を40句くらい書いたことを覚えている。

「自選句集」には面白いものがいっぱいあって、例えば、

子宮より切手出て来て天気かな

という句についていうと、一般に子宮から出てくるものは赤ちゃんや胎盤など生物的なものであるにも拘わらず、切手のような無機物を出してもいいのだということを知った。また、子宮から出てきた切手と「天気」との関係のなさも面白いと思った。
 筆者は幼稚園の頃からダリの絵画が好きだった。柘榴から虎が飛び出して、その刺激的な映像の背景彼方には異様に脚の長い像が彷徨しているというような情景を幼いころから好んだのである。筆者にとって柘榴から虎が出るのも、子宮から切手がでるのも同じように刺激的で面白い。「子宮から出る」にしても、子宮頚管の先端から出るのか、膣を経由して陰門からでるのか、或いは虎が柘榴から出るように、子宮のフォルムを破って一枚、又は無量大数の切手が噴き出すのかで、かなり異なる展開になるだろう。大量に噴き出す方が「天気」とはバランスが取れるような気もする。もうひとつ挙げると、

太陽の純白の死の桜谷

太陽の死と桜谷の無関係さが「の」で繋がれて訳の分からない世界観が立ち上がっている。太陽が死ぬのもカッコイイ。桜谷には複数の太陽の死骸があるのだろうか?白色矮星の溜まり場と考えられないこともないが、、。

 おそらく、そのついでに書架で見つけて借りたのが金原まさ子の「カルナバル」。この句集も大変好きである。

にこごりは両性具有とよ他言すな

にこごりというある種の食物に性別と生殖器があるという発想はなかなかのもの。俳句における発想領域の広さを知った。

エスカルゴ三匹食べて三匹吐く

この句には可笑しさとしての「俳」をたっぷり感じる。「サンビキ」という4音の同じ単語を繰り返すところも挑戦的で心地よい。

 俳句を始めたきっかけは「高柳蕗子全歌集」の「あとがき」に作者の父親が俳人だとあったため、高柳重信の「現代俳句の世界」を借りてみたら面白かったからだ。その重信の師匠が富澤赤黄男とのことだったので、これまた「現代俳句の世界」を借りてみたら面白かった。中でも「黙示」が一番刺激的だった。

黒い舌が舐めてゐる 白い灰

誰の舌なのか判らないが、白い灰を舐めるときの感触は想像できる。と同時に、蠢く舌の様子も目に浮かぶ。あまりにも寂寞とした虚無感が凝縮されている。

零の中 爪立ちをして哭いてゐる

「零の中」という空間設定が素晴らしい。爪立ちをしている状態の体感を共有することもできるので、その状態で「哭く」時の感情も想像しやすい。あまりにも深刻過ぎて虚無化した絶望なのだと思う。

 というわけで、俳句界には色々と刺激的な作家がいるということが判ったので、刺激的なものを探して色々と借りてみたところ、西川徹郎と出会った。枚挙に暇はないが、

あああと舌は抜かれて帰る竹の花

「あああ」という擬音語とも詠嘆ともとれる母音の連続。抜かれた舌が自走してどこかへ「帰る」という異様さ。そして多分、関係のない竹の花。異様さと支離滅裂感の相乗効果が刺激的だ。

サフランは子をひとりづつ食べて

サフランは植物なので「子」というと「種子」なのだろうが、それは理屈で、筆者としては「我が子を食らうサトゥルヌス」を想起せざるを得ない。サフランの鮮やかな黄色が人肉食を明るく飾る。この異様さにも俳句表現の広さを感じた。

 特に「憎い」俳句というものはないが、今のところ俳句を刺激的エンタテイメントとして扱っているようである。恋愛と死で埋め尽くされたイタリアオペラやハリウッド映画と同じジャンルである。自作についても、作っている時に興奮してドーパミンが出ている感覚が好きだし、作品そのものよりもドーパミンを味わうために創作モードに入ると言わざるを得ないような時期もあった。とはいえ、ドーパミンには中毒性があるといわれており、刺激に慣れるとどんどん強いものを求めるらしいのでそのような創作態度を改めつつある。今のところ、セロトニンやオキシトシンなどのリラックス系脳内物質がでるような作品や創作態度を模索している。そのような役割での俳句を発見し、創作するのが現在の課題だと思っている。

 上記の区分を別の観点から整理すると、①攝津・金原のような可笑しさとしての俳味、②富澤・西川のような深刻さ・絶望感の衝撃としての違和感、③高柳重信などの多行形式、④蕉門やホトトギスなどの季語ルール俳句、という4つを頂点とした4面体が自分にとっての俳句空間だった。今後の希望としては、この4面体内部では得られない快としての脳波状態を特定し、それを励起するような俳句を第5の頂点として創作し、自分にとっての俳句空間を6面体に進化させたい。
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