Ⅰ
蟋蟀の無明に海のいなびかり
伊吹嶽残雪天に離れ去る
たらたらと縁に滴るいなびかり
月光に障子をかたくさしあはす
山口誓子の『激浪』より数句。
誓子の第五句集『激浪』には昭和17年から19年にかけての俳句が収められている。この時期、誓子は病気療養のため伊勢に仮寓していたが、戦局が次第に暗く傾く日々を誓子は自身を取り巻くあらゆるものを素材にして日付入りで多数の俳句を創り続けていた。第五句集はしばしば「句日記」とか「俳句練習帳」と評されてきたが、この時期が誓子にとって重要な一つの節目となったことは間違いない。
この句集の草稿を眼にした西東三鬼は『俳愚伝』に次のように記している。
その頃(昭和21年)、私は奈良あやめ池の橋本多佳子を初めて訪問した。つづいて、平畑静塔を同伴したが、その日多佳子は、山口誓子の疎開原稿「激浪」を内覧させた。それによって私は病誓子が戦時下の毎日々々を、ひたすらに作句したことを知り、その執念に感嘆すると共に、絶えて久しい誓子俳句の、作風の激変に驚いた。静塔と私は、長い時間をかけて、その原稿をむさぼり読み、最後の一枚が終つた時、二人は思わず顔を見合わせた。― 西東三鬼『俳愚伝』より
この一節に触れると、この時の三鬼と静塔の心の動揺や高揚感、その場を支配していた緊張感までもが伝わってくるような気がする。
誓子の第五句集『激浪』がそれまでの作風から変化したことはよく指摘されているが、この時期誓子の中でどのような俳句的転換があったのか、誓子の俳句の何が変わり何が変わらなかったのか、私はそれを考えさせられる。
Ⅱ
どんよりと利尻の富士や鰊群来
学問のさびしさに堪へ炭をつぐ
夜を帰る枯野や北斗鉾立ちに
海の門や二尾に落つる天の川
負け海蠃やたましひ抜けの遠ころげ
誓子の第一句集『凍港』には誓子が跋に記しているようにおおよそ三期にわたる俳句が収められている。上記の作品を含む冒頭の11句は大正10年から14年にかけての初学の時期の作品で、誓子はその時期について「これは私が、従順にも所謂傳統俳句と共にあった時期である」と述べている。そのわずか11句の中にすでに誓子俳句の特徴と思われる要素が鏤められていることに私は注目する。誓子俳句の主な特質とは、即物的に事物を切り取るメカニズムの方法、文体の硬質性、作者誓子自身「我」の存在等だろう。
なかでも、誓子俳句の文体の硬質性は私が最も心を惹かれるものだが、時にそれは他の要素と絡み合って読む人を跳ね返そうとする。誓子が取り入れた近代的素材をメカニックに捉えようとする方法が、どこか冷たく、非人間的なものとして理解されたのではないかと思う。しかし誓子俳句の底には常に人間誓子が居る。そのことについて誓子は次のように書いている。
メカニズムの作品にあっては、その一番奥の椅子に作家が坐っていて、そこから作品を操作している。表から見えぬかも知れぬが、作品を奥から操作するものとして作家はあるのである。メカニズムにおける人間はかかる人間である。(『橋本多佳子全句集』解説 附多佳子ノートより)
この一文の中で誓子は「表から見えぬかも知れぬが」と記しているが、本当のところ誓子は「我」を中心に据え、「我」が何を見、どう感じたのかを表からも主張する作家ではなかったかと思う。
玄海の冬浪を大と見て寝ねき 第二句集『黄旗』
たゞ見る起き伏し枯野の起き伏し
渤海を大き枯野とともに見たり
枯野来て帝王の階をわが登る
眼のなかの秋の白雲あふれ去る 第三句集『炎昼』
もの書きて端近くゐればゆく時雨
飯を食ひくそまりさむき天のもと
火口ちかく悴けたるわが掌を見たり
わが旅の舷の水母をさし覗く 第四句集『七曜』
ひとり膝を抱けば秋風また秋風
われ生きて小鳥の骸をうち目守る
青蜥蜴唾をごくりとわれ愛す
誓子の代表句と見なされる俳句群の合間に、このような誓子の「我」がそこかしこに顔を覗かせている。誓子俳句は「写生構成」「即物俳句」と評されてきた。しかし一方で、誓子は俳句の中に「我」を消すことが出来ない作家でもあった。『激浪』の頃は対象物の奥に自身の位置づけを見出そうとしていた時期であったのかもしれない。馬、蟋蟀、蛇、蟻地獄、蜻蛉、蝉、いなづま、曼珠沙華などを徹底的に見つめ、その切り取り方を模索しているかのように繰り返し同じ主題で多作を続けていた。多く指摘されるような作風変化の理由の一つはそこにあるのだろう。
『激浪』の時期、誓子俳句の何が変わり、何が変わらなかったのかを考える時、私の眼にはどこかに「傳統」の文字がちらついてくる。新しい俳句を生きようとした初期句集の頃、誓子が試みたのは新しい素材拡大とモンタージュや連作俳句の理論だった。しかし、徹底的に物と対峙し、物と自己との関係をさぐりながら、誓子はオブジェと自己との融合にたどりついたのではないかと思う。それは誓子が自己の初期作品をふり返って「傳統と共にあった時期」と分析したそれにやや回帰したようにも見える。
わが行けば一切の蟹葭隠る 『激浪』
われ彳てばわれに向つて野分浪
舟虫がわがゐるおなじ畳の上
誓子の「我」があり、初めて誓子の「物」在り方が見えてくるという方法。それは新しい実験的な方法で走る方向とはどこか違うようにも感じられるが、私はその方法の中にも誓子の崩れることのない硬質な文体を見てそれに魅了される。
炎天の遠き帆やわがこころの帆 『遠星』
戦後第六句集『遠星』の中に収録されたこの一句の中にも私は無性に惹きつけられてしまう。
蟋蟀の無明に海のいなびかり
伊吹嶽残雪天に離れ去る
たらたらと縁に滴るいなびかり
月光に障子をかたくさしあはす
山口誓子の『激浪』より数句。
誓子の第五句集『激浪』には昭和17年から19年にかけての俳句が収められている。この時期、誓子は病気療養のため伊勢に仮寓していたが、戦局が次第に暗く傾く日々を誓子は自身を取り巻くあらゆるものを素材にして日付入りで多数の俳句を創り続けていた。第五句集はしばしば「句日記」とか「俳句練習帳」と評されてきたが、この時期が誓子にとって重要な一つの節目となったことは間違いない。
この句集の草稿を眼にした西東三鬼は『俳愚伝』に次のように記している。
その頃(昭和21年)、私は奈良あやめ池の橋本多佳子を初めて訪問した。つづいて、平畑静塔を同伴したが、その日多佳子は、山口誓子の疎開原稿「激浪」を内覧させた。それによって私は病誓子が戦時下の毎日々々を、ひたすらに作句したことを知り、その執念に感嘆すると共に、絶えて久しい誓子俳句の、作風の激変に驚いた。静塔と私は、長い時間をかけて、その原稿をむさぼり読み、最後の一枚が終つた時、二人は思わず顔を見合わせた。― 西東三鬼『俳愚伝』より
この一節に触れると、この時の三鬼と静塔の心の動揺や高揚感、その場を支配していた緊張感までもが伝わってくるような気がする。
誓子の第五句集『激浪』がそれまでの作風から変化したことはよく指摘されているが、この時期誓子の中でどのような俳句的転換があったのか、誓子の俳句の何が変わり何が変わらなかったのか、私はそれを考えさせられる。
Ⅱ
どんよりと利尻の富士や鰊群来
学問のさびしさに堪へ炭をつぐ
夜を帰る枯野や北斗鉾立ちに
海の門や二尾に落つる天の川
負け海蠃やたましひ抜けの遠ころげ
誓子の第一句集『凍港』には誓子が跋に記しているようにおおよそ三期にわたる俳句が収められている。上記の作品を含む冒頭の11句は大正10年から14年にかけての初学の時期の作品で、誓子はその時期について「これは私が、従順にも所謂傳統俳句と共にあった時期である」と述べている。そのわずか11句の中にすでに誓子俳句の特徴と思われる要素が鏤められていることに私は注目する。誓子俳句の主な特質とは、即物的に事物を切り取るメカニズムの方法、文体の硬質性、作者誓子自身「我」の存在等だろう。
なかでも、誓子俳句の文体の硬質性は私が最も心を惹かれるものだが、時にそれは他の要素と絡み合って読む人を跳ね返そうとする。誓子が取り入れた近代的素材をメカニックに捉えようとする方法が、どこか冷たく、非人間的なものとして理解されたのではないかと思う。しかし誓子俳句の底には常に人間誓子が居る。そのことについて誓子は次のように書いている。
メカニズムの作品にあっては、その一番奥の椅子に作家が坐っていて、そこから作品を操作している。表から見えぬかも知れぬが、作品を奥から操作するものとして作家はあるのである。メカニズムにおける人間はかかる人間である。(『橋本多佳子全句集』解説 附多佳子ノートより)
この一文の中で誓子は「表から見えぬかも知れぬが」と記しているが、本当のところ誓子は「我」を中心に据え、「我」が何を見、どう感じたのかを表からも主張する作家ではなかったかと思う。
玄海の冬浪を大と見て寝ねき 第二句集『黄旗』
たゞ見る起き伏し枯野の起き伏し
渤海を大き枯野とともに見たり
枯野来て帝王の階をわが登る
眼のなかの秋の白雲あふれ去る 第三句集『炎昼』
もの書きて端近くゐればゆく時雨
飯を食ひくそまりさむき天のもと
火口ちかく悴けたるわが掌を見たり
わが旅の舷の水母をさし覗く 第四句集『七曜』
ひとり膝を抱けば秋風また秋風
われ生きて小鳥の骸をうち目守る
青蜥蜴唾をごくりとわれ愛す
誓子の代表句と見なされる俳句群の合間に、このような誓子の「我」がそこかしこに顔を覗かせている。誓子俳句は「写生構成」「即物俳句」と評されてきた。しかし一方で、誓子は俳句の中に「我」を消すことが出来ない作家でもあった。『激浪』の頃は対象物の奥に自身の位置づけを見出そうとしていた時期であったのかもしれない。馬、蟋蟀、蛇、蟻地獄、蜻蛉、蝉、いなづま、曼珠沙華などを徹底的に見つめ、その切り取り方を模索しているかのように繰り返し同じ主題で多作を続けていた。多く指摘されるような作風変化の理由の一つはそこにあるのだろう。
『激浪』の時期、誓子俳句の何が変わり、何が変わらなかったのかを考える時、私の眼にはどこかに「傳統」の文字がちらついてくる。新しい俳句を生きようとした初期句集の頃、誓子が試みたのは新しい素材拡大とモンタージュや連作俳句の理論だった。しかし、徹底的に物と対峙し、物と自己との関係をさぐりながら、誓子はオブジェと自己との融合にたどりついたのではないかと思う。それは誓子が自己の初期作品をふり返って「傳統と共にあった時期」と分析したそれにやや回帰したようにも見える。
わが行けば一切の蟹葭隠る 『激浪』
われ彳てばわれに向つて野分浪
舟虫がわがゐるおなじ畳の上
誓子の「我」があり、初めて誓子の「物」在り方が見えてくるという方法。それは新しい実験的な方法で走る方向とはどこか違うようにも感じられるが、私はその方法の中にも誓子の崩れることのない硬質な文体を見てそれに魅了される。
炎天の遠き帆やわがこころの帆 『遠星』
戦後第六句集『遠星』の中に収録されたこの一句の中にも私は無性に惹きつけられてしまう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます