俳句エッセイ わが愛憎句

毎月1回原則として第2土曜日に愛憎句のエッセイを掲載します。

第12回  自由律俳句の逆襲   曾根 毅

2019-03-03 13:19:44 | 日記
  カキフライが無いなら来なかった   又吉直樹
  まさかジープで来るとは       せきしろ

 2009年、2010年に刊行された自由律俳句とエッセイの収められた句集より。掲出した二つの作品は、それぞれそのまま句集のタイトルとなっている。
 自由律(俳句)とは、『俳文学大辞典』(平7、角川書店)によれば、「定型を形式的・外在的なものとみなし、内在律や感動律を重視して現代語(口語)により自由に表現したもの」とある。自由律俳句の代表的作家である尾崎放哉や種田山頭火の作品の多くは、特殊な境涯を背景に一人称で読ませる。作者の境涯が短い表現を補っているのだとすれば、私を含めた大多数の凡人は日常生活のうえで自由律俳句が詠めないということになるのだろうか。せきしろ氏と又吉氏は、諧謔と哀感を絶妙に融和させて、そのニュアンスのうちに一句独立を果たしている。特殊な背景を必要とせず、誇張したレトリックも使用しない。一見散文的な表現で、言外の広がりを表現することに成功している。「愛憎句」の憎とは、この成功に対する私の嫉妬というほどのものである。

 俳句について私にはある予感がある。どれくらい先のことになるのかはわからないが、将来、俳句が現在の自由律俳句と呼ばれているような形をもって定着していくのではないかというもの。正岡子規の短歌、俳句革新。河東碧梧桐の新傾向俳句に端を発する、中塚一碧桜や荻原井泉水らによる自由律運動のような革新ではなく、ゆっくりと自然に派生してゆくことを想像する。
 外国語や異文化の浸透が広がる中で、日常では使用しない文語・旧かなで書き、旧暦に従い、郊外へ出掛けなければ見ることのない希少な自然を写生。外来語を七五調に無理矢理押し込むなど、現代の詩としては違和感の多い状態となっている。もちろん定型を伝統として尊ぶ姿勢を否定はしないが、表現が社会変化に応じてゆくことは、歴史を振り返ってみても自然のことと思われる。

 律という意味では、例えば短歌でリズムを整えるよりも、俳句で言葉のリズムを整えることのほうが難しい。しかしその半面、意味の飛躍、シンタックスの希薄化、連想の多様化など、俳句は自由な構成力を備えていて、音声的、文法的条件にも拘束されることが少ないという特性が挙げられる。これらの特性は、言語特性の壁を越えた国際性の観点において適応力を有していると思う。しかし定型と季語、季題趣味に拘るあまり、その適応力が埋もれてしまっているように感じられてならない。
 俳句が日本語に留まらず、短詩としてより広く親しまれることを考慮すれば、七五調はもとより、定型と季語をそのまま各国の言葉や物に当てはめて、三つの節で表すような形式重視ではなく、いかにして比喩を構成するかといった方法に関心が向けられるだろう。そうした場合、短い詩であるということに拘らず、言語によっては長律に目を向ける必要も出て来るのではないか、などと想像している。


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