千葉市稲毛区の将門伝説として「大日寺」や「黒砂浅間神社」などを訪ねてみました。
【大日寺】稲毛区轟町

JR総武線西千葉駅の東方800m。千葉家累代の菩提寺で、かつて院内町(千葉神社付近)にあったものが、戦後この地に移転しました。この寺には「総体七社大明神社」があり、平良文、将門、忠頼、忠常、忠時、乙女二人を祀っていたといわれています。
http://www.geocities.jp/chiba_bunka/dainichi.html
「千葉一族」
http://www.city.chiba.jp/ward/inage/history/chibaichizoku.html
【来迎寺】稲毛区轟町

大日寺の南隣すぐ。戦後、大日寺とともにこの地に移転。この寺には千葉介氏胤などにゆかりの追善供養塔である七つの五輪塔があり,千葉の歴史に大きな足跡を残した千葉氏の繁栄を今に伝えています。
http://www.geocities.jp/chiba_bunka/raigo.html
次に、千葉大学の構内を横切って黒砂地区に向かいます。
【黒砂の地】稲毛区黒砂
京成千葉線みどり台駅の北方500m。将門の落武者がこの地を開墾して、豊かな黒土にしたと伝えられています。この黒土から、「黒砂」の地名がついたといわれています。
【黒砂浅間神社と御神木】稲毛区黒砂

将門が平貞盛に滅ぼされ、その落武者六人が佐倉往還を経てこの黒砂に逃げ定住しました。落武者は中山一郎左衛門隼守、高橋八郎左衛門、渡邊久左衛門、遠藤三郎左衛門、山本世左衛門、春山與平の六人でした。この落武者たちが、鎮守様として「黒砂神社」を創建し、将門を祀ったといわれています。それで黒砂神社の御神木は、最初この六人の落武者の数と同じに六本あったといわれていますが、現在は五本残っていました。
「黒砂神社と御神木」
http://www.hanae.ne.jp/inage/0102_10.htm

/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
【大日寺】稲毛区轟町


JR総武線西千葉駅の東方800m。千葉家累代の菩提寺で、かつて院内町(千葉神社付近)にあったものが、戦後この地に移転しました。この寺には「総体七社大明神社」があり、平良文、将門、忠頼、忠常、忠時、乙女二人を祀っていたといわれています。
http://www.geocities.jp/chiba_bunka/dainichi.html
「千葉一族」
http://www.city.chiba.jp/ward/inage/history/chibaichizoku.html
【来迎寺】稲毛区轟町


大日寺の南隣すぐ。戦後、大日寺とともにこの地に移転。この寺には千葉介氏胤などにゆかりの追善供養塔である七つの五輪塔があり,千葉の歴史に大きな足跡を残した千葉氏の繁栄を今に伝えています。
http://www.geocities.jp/chiba_bunka/raigo.html
次に、千葉大学の構内を横切って黒砂地区に向かいます。
【黒砂の地】稲毛区黒砂
京成千葉線みどり台駅の北方500m。将門の落武者がこの地を開墾して、豊かな黒土にしたと伝えられています。この黒土から、「黒砂」の地名がついたといわれています。
【黒砂浅間神社と御神木】稲毛区黒砂


将門が平貞盛に滅ぼされ、その落武者六人が佐倉往還を経てこの黒砂に逃げ定住しました。落武者は中山一郎左衛門隼守、高橋八郎左衛門、渡邊久左衛門、遠藤三郎左衛門、山本世左衛門、春山與平の六人でした。この落武者たちが、鎮守様として「黒砂神社」を創建し、将門を祀ったといわれています。それで黒砂神社の御神木は、最初この六人の落武者の数と同じに六本あったといわれていますが、現在は五本残っていました。
「黒砂神社と御神木」
http://www.hanae.ne.jp/inage/0102_10.htm

/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
「黒砂浅間神社とご神木」の中の黒砂の6人は「黒砂いまむかし」から引用されたと思いますが、初版本に誤記があり、二版目より訂正されてます
6人の4人目(誤)遠藤源左衛門→(正)遠藤三郎左衛門です
訂正して下さい
s.kitahara@cnc.jp
前回の「訂正願います」のコメントを削除して下さい。
今回のコメントも確認後、削除願います。