益々!昌益(ますます!しょうえき) [安藤昌益資料館を育てる会・公式ブログ]

安藤昌益。江戸時代に日本が生んだ大思想家。自然を愛し、農業を愛し、人間を愛した。現代に息づく昌益を伝えます!

八戸における安藤昌益 vol. 002 昌益の発見

2008年10月28日 06時45分22秒 | 【好評連載中!】八戸における安藤昌益
安藤昌益の基礎知識や八戸とのかかわりを、安藤昌益基金編『八戸における安藤昌益』(平成7年)を通じて、ご紹介するシリーズ。
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■昌益の発見

 明治41年(1908)の『内外教育評論』に狩野亨吉(かのう・こうきち)が「大思想家あり」と発表したことにより安藤昌益(あんどう・しょうえき)が初めて世に登場することになりました。
 そして、昌益の名前が一般に広がったのは戦後のことです。昭和25年(1950)、E・Hノーマンが『忘れられた思想家-安藤昌益のこと-』(岩波新書)を出版してからです。折からの戦後民主主義の高まりの中で、昌益は革命思想家として大きくクローズアップされることになりました。

◆安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)より

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■初心者・浅学の管理人Fの「蛇足」

●「蛇足」基本編-安藤昌益の生まれた時代
 安藤昌益が生まれたのは、元禄16年(1703)。今から300年以上前のこと。
 時の将軍は、五代将軍・徳川綱吉。「生類憐みの令」で有名ですよね。そう「犬公方様」です。
 昌益の生まれた、元禄16年は近松門左衛門の「曽根崎心中」の初演がおこなわれた年。その前の年の元禄15年は忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りがありました。
 昌益の主著『自然真営道』が執筆されるのが1750年代ですから、明治41年(1908)に狩野亨吉よって発表されるまで、250年近く埋もれていたことになりますね。まさに「忘れられた思想家」です!

●「蛇足」物知り編-狩野亨吉と昌益の地縁と奇縁
 昌益を「発見」した狩野亨吉(1865-1942年)は文学博士で、一時、京都帝国大学(今の京都大学)文科大学長の職にあった人です。
 出身は、現在の秋田県大館市・・・そう、昌益も大館市の出身なんです!
 古書の収集家でもあった狩野は、たまたま古書屋から昌益の『自然真営道』を手に入れたようです。しかも、昌益が大館の出身であることが分かったのは昭和49年(1974)のこと。狩野は存命中は同郷であることを知らなかったわけですね。
 生まれ故郷が、時代を超えて、二人を引き寄せたのでしょうか? まさに地縁の奇縁ですよね!

●全く「蛇足」編-さらに、奇縁!?・・・それとも
 狩野亨吉は、戦前、新宗教として一世を風靡した天津教の古文書とされる「竹内文書(たけうちもんじょ)」の鑑定を行い、偽書と証明したことでも知られています。
 「竹内文書」って、今でもオカルト系の雑誌(例えば『ム○』とか)に登場しますよね。
 さて、大館市八戸市の比較的近隣に新郷村がありますが、そこの名所・史跡(?)は「キリストの墓」と「大石神ピラミッド」ですが、その根拠とされるのが「竹内文書」!
 ここまで来ると、縁(えにし)というよりも業(ごう)ですな。う~ん、深い・・・。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、「蛇足」の文責は浅学の管理人Fにあります。
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」 
・各種Wikipedia