醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  675号  俤や姥(をば)ひとり泣く月の友(芭蕉)  白井一道

2018-03-19 16:21:53 | 日記

 
 俤や姥(をば)ひとり泣く月の友  芭蕉

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「俤や姥(をば)ひとり泣く月の友」。芭蕉45歳の時の句。『更科紀行』。「更科姨捨月の辯」、「越人を供して木曽の月見し比」との前詞を書く。
華女 この句を読むと深沢七郎の小説『楢山節考』を思い出してしまうわ。
句郎 日本に限らず、世界中に働くことができなくなった老人を殺すという風習はあったんだろうね。
華女 悲しい話ね。
句郎 深沢七郎自身、実の母が肝臓癌を患い、自らの意思で餓死を計ろうとしたことを知ったことが『楢山節考』を書こうと思った理由だったようだからね。
華女 子どもたちに迷惑かけたくないという親の思いなのかしらね。
句郎 そうなんじゃないのかな。信州更科の姥捨て伝説はちょっと違うみたい。
華女 どんな伝説なの。
句郎 信濃の国、更級に住む男が両親と死に別れてからは年取ったおばと一緒に実の親子のように暮らしていた。男の嫁はこのおばを嫌い、嫁はこのおばを山に捨ててきてくれと夫を責めた。男は満月の夜、「山のお寺でありがたい法事がある」とおばをだまして山の奥へ連れ出し、おばを置いて帰ってきた。が、男は落ち着かない。山あいから現れた月を見て寝ることができず、そのときに歌ったのが「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」『古今集』(よみ人しらず)。男は非を悔いておばを迎えにいき、以来この山を姨捨山と呼ぶようになったという。
華女 それで姨捨は月見の名所になったわけね。
句郎 歌人が姥捨でたくさん月見の歌を詠んでいるので姨捨は月見の名所になったんだろうな。芭蕉が師匠と仰いだ西行も「隈(くま)もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき」とよんでいるしね。
華女 姨捨は「田毎の月」で有名なんじゃないの。
句郎 阿弥陀仏四十八願にちなんで名付けたと伝えられる「四十八枚田」をはじめ「姨捨棚田」があるからね。棚田に照り光る「田毎の月」が姨捨を月見の名所にしたのかもしれない。
華女 姨捨の棚田は古くから開発が進められていたのね。
句郎 「君が行くところと聞けば月見つつ姨捨山ぞ恋しかるべき」と紀貫之が詠んでいるから、平安時代にはすでに姨捨伝説と「田毎の月」はあったのかもしれない。
華女 姨捨は歌枕になったということなのね。
句郎 「月もいででやみに暮れたるをばすてになにとてこよひたづね来つらむ」という歌が『更級日記』にあるそうだから。
華女 月の光が我に返らせてくれたという姨捨の逸話が人々の心に沁み込んだというなのね。
句郎 芭蕉もまた田毎の月を眺め、姨捨の伝説に思いをはせた句が「俤や姥(をば)ひとり泣く月の友」だったんだろうな。
華女 月明りと山の静かさの中で一人、体を動かす力も付きて息絶えていく老婆の姿を思うと涙が流れてくるわ。
句郎 人間も野生の動物と同じように一人で死んでいく。それが自然の掟であるように人間社会もまた同じような時代が長く続いていた。嫌、今だってホームレスには同じような死なんだろうな。