醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  670号  粟稗(あわひえ)にまづしくもなし草の庵(芭蕉)  白井一道

2018-03-13 14:59:17 | 日記

 
 粟稗(あわひえ)にまづしくもなし草の庵  芭蕉



句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「粟稗(あわひえ)にまづしくもなし草の庵」。芭蕉45歳の時の句。『笈日記』。「覓レ閑(かんをもとむ)三句、杉の竹葉軒という草庵たづねて」と前詞がある。
華女 粟や稗を食べる生活であっても貧しさを少しも感じさせない草庵の生活だことという意味でいいのかしらね。
句郎 そうだよね。私も初め、そのように理解したんだけれど、粟や稗が豊かに実っている村にある草庵の生活はきっと豊かなんだろうなというような意味にもとれないかなと思うようになったんだ。
華女 どうしてそのように思うようになったのかしら。
句郎 粟や稗といったら、雑穀だよね。江戸時代の農民は米が食べられず、粟や稗を食べ、飢えをしのいでいたというようなイメージが我々にはあるように思っているんだ。
華女 私にもそのようなイメージがあるわ。
句郎 日本の地形を考えてみると少し山間部に入ると稲作が難しい地域は多かったんじゃないのかな。水利が無ければ稲作は無理だからね。
華女 あぁー、それで稲作は無理でも粟や稗の栽培ができているのでこの草庵での生活は貧しくはないということを言いたいのね。
句郎 この句には詠まれた時代の社会が反映しているように感じるんだ。僕らが子供だった頃、麦飯を食べていた。麦飯を弁当に学校に持っていくのが恥ずかしかった経験があるんだ。
華女 そうよね。私にもそのような経験があるわ。だから弁当を包んだ新聞紙で弁当を隠して食べた経験があるわ。
句郎 芭蕉がこの句を詠んだ時代の将軍は犬公方、五代綱吉だった。彼は銀舎利、白米飯を食べ、脚気になったと言われているんだ。
華女 将軍や江戸詰めの武士たちは憧れの白米飯を食べていたのね。
句郎 その結果、脚気が武士たちの間に流行った。参勤交代で地元に帰ると不思議なことに脚気が治ったようなんだ。このことから脚気を「江戸煩い」というようになった。
華女 白米のご飯は美味しかったのよね。
句郎 そう、だから米の飯は食べられなくとも粟や稗が十分食べられるなら十分じゃないかという解釈が出てくるのかなと思うんだ。粟や稗で満足できる豊かな精神生活をしているという解釈だよね。
華女 そうよ。綱吉の時代、江戸では白米のご飯を食べる武士たちがいたということなのよ。だから農民や下層の町人たちが白米のご飯への憧れが生まれて来ていたのよ。
句郎 山間部や水の便の悪い地域であっても粟や稗の栽培ができるなら、生活が成り立つ。そのようなことを芭蕉は詠んだのではないかと愚考しているんだけどね。
華女 貧富の格差は食生活に現れてくるのよね。
句郎 芭蕉は格差社会であることを否定しようとは、していないよね。否定したとろでどうなるものでもないからね。粟や稗と白米。この格差を肯定的に受け入れていると言うことなんじゃないのかな。
華女 でも芭蕉は白米のご飯の美味しさはきっと知っていたのじゃないのかしらね。でも粟や稗の飯でも満足できたんでしょ。