醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  414号  白井一道

2017-05-31 15:34:01 | 日記

 芭蕉の酒を詠んだ句から


「鰹(かつお)売りいかなる人を酔はすらん」。貞享4年、芭蕉44歳の時に詠んだ句である。この句は酒を詠ったものではない。芭蕉は自分の詫しい生活を詠っている。
 花粉症などという煩わしい病が無かった時代である。杉花粉が飛び、梅の花が咲き始めると初鰹がスーパーの店先がならぶ。芭蕉が生きた元禄時代は、桜の花が咲き始めると初鰹を天秤で一肩に担ぎ、売り歩く声が聞こえ始めた。当時、初鰹はあまりにも高価だった。一度は食べてみたいものだ。初鰹を食べて幸せな気分に浸りたいものだと、今の自分の生活を思って感じたことを芭蕉は詠んだのであろう。
 「酔う」とは、幸せな気分になることだ。今時の高校生でも使う。「彼の甘い言葉にアタシ、酔っちゃった」などと年端もいかぬ女子高校生か女友だちと話しているを聞くとフンと言いたくなる。
 初鰹を食べる人ってどんな人なのだろう。自分の侘びしい生活を芭蕉は詠った。
 「盃の下ゆく菊や朽木盆(くつきぼん)」。延宝3年、芭蕉32歳のときに詠んだ句である。
 近江の朽木地方には菊や桜の花模様をあしらったお盆がある。そのお盆の上にのせた盃に酒をなみなみにつぎ、少しこぼれる。こぼれた酒がお盆の菊模様の上を酒が走る。菊の露は不老長命の水、それは酒を意味する。お盆にこぼれた酒を芭蕉は『下ゆく菊』と表現した。
「秋をへて蝶もなめるや菊の露」貞享5年、芭蕉45歳の時の吟である。
 秋を生き延び、晩秋を迎えた蝶が菊の露を吸っている。不老長命の水、菊の露を吸って蝶は生き延びようとしてにいる。健気なものだ。蝶の生命力を芭蕉は感じていた。昔から酒は不老長命の水であった。飲み過ぎなければ酒はきっと不老長命の薬に違にいない。
「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」。元禄4年、芭蕉48歳の時の吟。
どこの家でも重陽の節句には菊の花をめで、この日は朝からお酒をいただく。芭蕉には、めでる菊の花もなければお酒もない。門人が夕暮れ近くお酒を持って来てくれた。重陽の節句は、九月九日、まだまだ日が長にい。その日が暮れて、薄暗くなってきた頃、門人と一緒に不老長生の水、菊の酒を味わった。芭蕉は自分の生活を詠っている。不老長生の薬だと言って芭蕉はきっと門人と一緒に深酒をした。酒は全都飲んでしまったに違にいない。たまに酒が手に入ると全都飲んでしまわなければ、満足しなかった。そんな生活だったにちがいない。
「朝顔は酒盛りしらぬさかりかな」貞享5年、芭蕉49歳の時の吟。
 桜が咲くと人々はその花の下で酒を楽しむ。菊の花が咲くと菊人形を造り、鉢に咲かせた菊を眺めては、仲間内で賑やかに互いにほめ合って酒を楽しむ。朝顔は毎朝、少しの時問だけ咲にいてはしぼんでしまう儚い花である。朝顔の盛りに酒を楽しむことをする人はいない。
 旅に生き、旅に死んだ芭蕉にとって朝の旅立ちは、その場に居合わせた人々との今生の分かれであっだ。家の角に立ち、いつまでも手を振ってくれる門人との別れた道端に朝顔が咲いてにいた。道端に咲く朝顔のように自分もまた誰からも愛でられることなく、人生の酒盛りを知ることなく、一瞬してしぼんでしまう存在なのだろう。
 この句は酒を詠ったものではない。人の盛りを酒盛りに譬えて朝顔を詠った。

醸楽庵だより  413号  白井一道

2017-05-30 16:08:18 | 日記

 夜伽の句は気持ちを詠む

句郎 元禄七年十月十一日、難波、御堂筋の旅籠「花屋仁左衛門」の離れ家には重苦しい空気が張り詰めていた。芭蕉は病を得て瀕死の床の中にいた。芭蕉の弟子たちは師匠を囲み夜伽の句を詠んだ。「うづくまる薬の下の寒さかな」と丈草が詠むと師・芭蕉は「丈草できたり」と言った。このようなことが『去来抄』に書いてあるんだ。
華女 芭蕉の死の床には誰がいたの。
句郎 夜伽の句を詠んだ弟子たちは八人いたみたいだよ。
華女 八人もいたの。驚きだわ。名前と句もわかっているんでしょ。
句郎 一番弟子の其角、去来、丈草、惟然、支考、正秀、木節、乙州の八人のようだ。
華女 それぞれの弟子が詠んだも伝わっているのね。
そのようなんだ。芭蕉さんて、凄い俳人だったのね。今から三百五、六十年前の人だったんでしょ。
句郎 現在に至るまで多くの人に影響を与え続けているからね。
華女 八人の句の中で芭蕉が褒めた句は丈草の詠んだ句だけだったのかしら。
句郎 そうだったみたいだよ。支考は「しかられて次の間へ出る寒さ哉」と詠んだ。丈草の句と比べてみると丈草の句の方が良いよね。
華女 遥かに丈草の句の方がいいと思うわ。
句郎 うずくまって皆が黙っている。この静かさが身に沁みるのかな。
華女 丈草の句の「寒さ」が効いているんじゃないのかしらね。
句郎 そうなんだろうね。旧暦の十月十一日というと新暦の十一月二十八日のようだから、寒さが身に沁みる頃かもしれないから、本当に寒かっのかもしれないけれど、それだけでなく、芭蕉が亡くなるという寒さを表現しいるような気もするよね。
華女 そうね。薬瓶が置いてあっかもしれないから、その下から寒さが伝わってくるのよ。
句郎 そう。芭蕉を慕う気持ちが静かに伝わって来るものね。
華女 丈草の句と比べて、支考の句は初心者の句みたいだわ。
句郎 そうだよね。「かかる時は、かかる情こそ動(き)侍れらめ」と去来は芭蕉の言葉を理解したようなんだ。
華女 「丈草できたり」と芭蕉が言った言葉を去来は気持ちを詠めと理解したと言うことでいいのかしら。
句郎 そうなんじゃないかな。余命いくばくもない人を囲み、その人を思う気持ちを詠むことが夜伽の句なんじゃないのかな。
華女 俳句は即興で詠むんでしょ。だから即興で何を詠むべきかということはその場、その場に合った句でなくちゃらないわけね。
句郎 そうだよね。挨拶句なら、挨拶する句でなくちゃね。今日はいい天気ですね、というような句は挨拶句になるんじゃないのかな。
華女 そうよね。即興で夜伽の句を詠む場合でも、夜伽でお酒を楽しむ場合だったら、また別の気持ちになるわけなのね。
句郎 もちろんだよ。俳句というのは自分の気持ちを周りの人に伝える手段なのかもしれないな。おしゃべりじゃ、伝わらないことを十七文字にして表現すると伝わるというなのかもしれないな。言葉は話すことだけでなく、文字にすることによってより深く、つたわることがあるということなのかもしれないなぁー。

醸楽庵だより  412号  白井一道

2017-05-29 15:57:38 | 日記

 一句の働きとは

句郎 越人(えつじん)の句「月雪や鉢たゝき名は甚之亟(じんのじょう)」を芭蕉は「月雪といへるあたり一句働見へて、しかも風姿有」と述べたと『去来抄』にあるんだ。
華女 「月雪や」とは、「月」と「雪」と言う意味なのかしら。
句郎 「月光の下の雪」という意味なのではないかと復本一郎氏は『芭蕉の言葉』という著書の中で述べているんだけどね。
華女 なるほどね。そういう意味なのね。分かったわ。「鉢たゝき」とは何なの。
侘助 次世代を背負う若者に役職や地位を受け継ぐ。
句郎 冬の季語になっているんだ。京都では十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間、空也堂の僧が洛中洛外を鉢や瓢箪を叩き巡り歩いた空也念仏、踊念仏のことを言うようなんだ。
華女 京都に住む人でなければ知らないわね。
句郎 そうだよね。
華女 都の風俗を詠む句は都、京都の句、一地方の句の域をでないと思うわ。現在でもこのようなことが京都では行われているのかしらね。
句郎 今は、そういう問題を考えるのではなく、越人の句を芭蕉がどう批評したかということを考えたいんだ。
華女 いいわよ。
句郎 上五に「月雪や」と置いたことによって「働きが見える」と芭蕉は言っている。この「働き」ということを華女さんはどのように理解するかと思ってね。
華女 「甚之亟(じんのじょう)」とは、人の名前よね。雪の月夜に鉢たたきして回っている僧侶だと理解していいのかしら。
句郎 降り積もった雪道を月光が照らしている。その道を鉢たたきの若い僧が行く。その僧侶の名前は街の人々に知られている甚之亟だと。
華女 「月雪や」という上五が「甚之亟」という念仏を唱えながら鉢たたきして廻る僧を魅力ある男にしているような気がするわ。
句郎 芭蕉が言う「「月雪といへるあたり一句働見へて」とは、そういうことなのかな。
華女 京の月光に照らされた雪道というイメージが若い僧侶を思い浮かびあがせているのじゃないかと思うわ。
句郎 それが「風姿あり」ということなのかもしれないなぁー。
華女 そう、イメージよ。想像の世界よ。
句郎 そう。現実じゃないよね。
華女 僧侶の姿を風景として見た世界よ。
句郎 そうだよね。実際の僧侶の立場立って考えるとそんなもんじゃないよね。裸足に草鞋履きで雪道を行くわけだから、冷たい水が足を冷やし、しびれていくような感覚の中で京の町を廻り歩いて行くわけだものね。
華女 そうよね。京の冬の街景色として温かい部屋から眺めている方はいいけれども、僧侶の方は厳しい寒さと戦いながら、声を張り上げ、鉢を叩き、速足で雪道を行くわけだでしょ。
句郎 確かにそうだよね。でも、「甚之亟」の表情は晴れやかなのかもしれないな。そんな気がするんだ。越人の句から読み取れる世界は。
華女 だから芭蕉は越人の句を批評し、褒めているんじゃないのかしらね。
句郎 芭蕉は師匠として弟子を上手に認める方法を極めているのかもね。

醸楽庵だより  411号  白井一道

2017-05-28 15:35:38 | 日記

 文学を楽しむ

句郎 去来の句「振舞(ふるまい)や下座になをる去年(こぞ)の雛(ひな)」。この句を復本一郎氏は「内面世界を形象化」した句だと説明している。
華女 へぇー、全然分からないわ。「振舞」とは立居振舞ということよね。
句郎 身の処し方というような意味なのかもしれない。
華女 なるほどね。そういう意味ね。分かったわ。年取った者は若者に役割をバトンタッチしていくと言うことね。
侘助 次世代を背負う若者に役職や地位を受け継ぐ。大事な仕事を次世代を継ぐ者に譲り渡す。こういうことなのかな。
華女 老女はいつまでも家計の財布を握っていてはいけないというようなことよね。
句郎 教訓めいたことを詠っているわけではないんだけど、新しく造られた今年の雛人形が上段に飾られ、去年の古雛が下座に飾られている雛段を見て「下座になをる去年(こぞ)の雛(ひな)」と去来は詠んだ。
華女 上五に「振舞や」と置いたことによって人間世界もそうだなと去来は感じたのね。
句郎 そうなんだ。桃の節句に飾られた雛人形を見て人間の生きる世界を表現したということなんだと思う。
華女 芭蕉一門の俳句は単なる花鳥諷詠の句じゃないのね。
句郎 多分そうなんじゃないかな。
華女 花鳥諷詠の句より、詠んだ世界が深いような気がしてきたわ。
句郎 「貴方がたの試みは結局人間の探求といふことになりますね」と山本健吉に問われた加藤楸邨は「四人共通の傾向をいへば『俳句に於ける人間の探求』といふことになりませうか」と答えたと、いうことは、もしかしたら加藤楸邨たちは芭蕉の精神を継承しているといえるのかもしれないね。
華女 四人とは誰だったのかしら。
句郎 中村草田男、加藤楸邨、篠原梵、石田波郷の四人の俳人たちを「人間探求派」と言うようだよ。
華女 芭蕉が残した俳句世界は現在に継承されているということなのね。
句郎 復本一郎氏が言うように「内面世界を形象化する」ということが文学だということなんじゃないかな。
華女 俳句は文学ね。でもなかなか文学にならない俳句が多いのじゃないかしら。
句郎 文学にならない。でも俳句は楽しむものだから、文学にならなくとも遊びとして俳句を楽しむということはいいことなんじゃないかな。
華女 そう、遊びね。五七五、十七文字の遊びよ。上手、下手はあるでしょ。でも下手でも楽しむことができれば、いいのよね。
句郎 そう。俳句を詠む楽しみを見いだせればそれでいいんだよね。
華女 でも仲間はいなくちゃ、だめだと思うわ。
句郎 そうだよね。でも夏目漱石や芥川龍之介、永井荷風といった文学者たちは一人で俳句を詠んで息抜きしていたんじゃないのかな。彼らは座を組んで俳句を詠んでいたのとは違うような気がするんだ。だから勿論、仲間がいて主宰者のいる句会に出て、俳句を詠む楽しみもあるとは思うけれど、一人で俳句を詠み、一人の時間を楽しむ方法もあるのじゃないのかな。

醸楽庵だより  410号  白井一道

2017-05-27 16:21:57 | 日記
 
 芭蕉の恋

句郎 芭蕉は自分が詠んだ句が以前詠んだ句に似ているなとくよくよしている。繊細な神経の持ち主だったのかな。
華女 それはどんな句なのかしら。
句郎 「清滝や波に塵なき夏の月」。この句が「白菊の目に立て見る塵もなし」と句意が似ているから破り捨ててくれというようなことが『去来抄』にあるんだ。
華女 芭蕉は自分に厳しい人だったのね。
侘助 そうだよね。厳しい割には「清滝や波に塵なき夏の月」を推敲し「清滝や波に散り込む青松葉」と改作している。
華女 他にも同じような句があるんじゃないの。
句郎 そうそう、「大井川波に塵なし夏の月」かな。
華女 大井川というと静岡県を流れる川よね。
句郎 そうなんだけれども、その頃、芭蕉が詠んだ句を時系列に並べてみると「六月や峰に雲置(おく)あらし山」、次の句が「大井川波に塵なし夏の月」、「清滝の水汲ませてやところてん」となっている。「清滝」とは「清滝川」を意味しているから、保津川、大堰川と名称を変えていく京都桂川のことを意味しているんじゃないのかな。
華女 「大井川波に塵なし夏の月」の大井川は静岡の川ではなく、京都大堰川のことを意味しているのね。
句郎 多分そうなんじゃないかな。
華女 「大井川波に塵なし夏の月」が静岡の大井川ではなく、京都嵐山から流れ出した大堰川だったら、清流のイメージがくっきり浮かび上がってくるわね。
句郎 でも芭蕉は「白菊の目に立て見る塵もなし」。この句以外の「「清滝や波に塵なき夏の月」を推敲した「清滝や波に散り込む青松葉」や「大井川波に塵なし夏の月」の句を廃棄してほしいというようなことを芭蕉は去来にお願いしているようなんだ。
華女 それらの句は、みな今の言葉言う類句ということなのね。
句郎 芭蕉にとっては、なんとしても「白菊の目に立て見る塵もなし」の句が大切な句だったというなんじゃないかと思うんだ。
華女 「白菊の」の句は、芭蕉さんの好きな女の人を称えた句なんでしょ。私もそんな風に私を詠んでくれる人がいたらいいなぁー。
句郎 まぁー、いないでしょうね。芭蕉は「白菊の」句を元禄七年九月二七日病をおして門人園女(そのめ)邸を訪れて、園女に挨拶した句だからね。その後、芭蕉は病に臥せ、翌月の十二日に力尽き、帰らぬ人になるんだからね。芭蕉は死ぬまで園女さんに欲情していたのかな。
華女 ちょっと、いやらしいわよ。だって、園女さんにはご主人さんがいたのでしょ。
句郎 芭蕉は勝手に園女さんを片思いをしていたんじゃないのかな。
華女 芭蕉は死ぬまで恋をしていた男だったのかしらね。
句郎 芭蕉は恋する男だった。欲情を肯定して生きた男だった。芭蕉にとって「白菊の目に立て見る塵もなし」と言う句は大事な大切な句だったんだよ。若々しい青年の情愛を失うことなく、一生を終えた人なのかもしれないと私は考えているんだけれどね。