高遠記集成 蕗原拾葉11より
笠原頼直略伝付高遠築城 現代語訳
さて、信州伊那郡笠原荘の高遠城は、元暦年中(1184-1185)に造られた城である。笠原平吾頼直というものが築城したという。頼直は、桓武天皇の末裔で信濃守維茂の曽孫にあたる。
笠原家の始祖は高井郡に住んでいたが、当笠原荘に移住し牧監(牧場の監督役)に任命され、天神山に居城を構えたという。
・・異説、年代は不明だが、(笠原)が高井郡に住んだという地を笠原村と呼んでいたというのは誤りで、笠原という村名は、(彼らの活躍した時代より)後世に付けられたものである。牧監は別当と同意の言葉である。
治承年中(1177-1181)(笠原頼直が)大番(御所などの守衛の役の意味か)で京都にいたとき、一院(法王=後白河法皇)の第2皇子の高倉宮が以仁王と謀って、平家を誅殺して皇威を復興したいとの強い志で、源(正三位)頼政(入道)を頼りにして、勅旨を下した。むかし、六条判官(源)為義に命令して東国の源氏に令旨を出した。新宮氏と領民はすぐさま呼応して行動したが、その計画は露見してしまい、検非違使などの役人が宮殿に直ちに向かったので、(平家打倒に呼応したものは)円城寺に逃げ、なお南都(平安以降、奈良を南都と呼んだ)の七つの大寺院の僧達に都の守護を依頼し、治承四年(1180)5月25日、頼政(入道)の家来衆と(園城寺の)寺法師とともに300人以上のものが南都に守衛兵として集結した。これに対して(左衛門督)知盛と(右近衛少将)重衡と(前薩摩守)忠度を大将にして御所守衛の武士を招集して2万8000人で追いかけるが、思っているよりも早く宇治の郷で追いついてしまった(無端・・思いも掛けず、思いの寄らず?)。(宇治)平等院にて、一戦に及んで、(平家打倒側は)頼政(入道)を始め、ことごとく討たれてしまい、(以仁王?)宮も光明山で流れ矢にあたり殺害されてしまう。(笠原)頼直はここに来て、粉骨を惜しまずに戦を終結していく。頼政(入道)の郎党を集め、(以仁王)宮は、意味のない謀反をやって死んでしまい、戦いは終結して周辺は静かになったという。・・・治承の乱?
だが、東国に平家追討の命令を出し、挙兵を促したので、何様にも、諸国で麒尾(優れた英傑のあと)を頼って謀反の挙兵をする一族もいるかもしれないから、ここにいる平家守衛の人達は、それぞれ自分の領国に戻り、適切な行動を起こして反乱を鎮圧せよ、と御所の護衛の役目を暇を貰って解かれる。これで、頼直は6月下旬に領国(笠原荘)に帰る。そして隣国の同志と連絡を取りながら、事変の起こっているところを見ていると、同年8月に伊豆国で流人であった(前右兵衛佐・源)頼朝は一院(後白河法皇)の院宣を奉って、蛭ヶ小島で挙兵し、目代(国司の第四等官の代理)の平兼隆の山本郷の館を襲って石橋山に登って(与力)加勢の連中を待って平兼隆を討ち取ったことを宣告した。
東国の(平家打倒の)挙兵の勢いは下火にならず、ますます燃え広がる。
かって(往・かって、ここに)久寿二年(1155)8月12日武蔵国で悪源太義平に討たれた(源)義賢がいたが、父の討ち死にの時わずか二歳であった木曽(冠者)義仲は木曽山中で成長していた。そして、さる5月に叔父の(蔵人)行家の勧めに応じて令旨を賜った。叔父の行家は、元の名を義盛と言うが、令旨を伝達する使いに任命されるとき、蔵人を官名され、その時に行家と改名した。木曾義仲が挙兵の旗を揚げようとするとき、高倉宮の平家追討の計画がばれて、頼政(入道)をはじめ、兄の蔵人仲家を討たれてしまったと聞いて、行家は力を落とし落胆していたが、頼朝の挙兵を聞いて大変喜び、義仲とともに吉日を選んで9月7日に、急遽信濃国木曽谷で旗を揚げ、信濃国の源氏を招集する。
この日、笠原頼直は熟考していた。木曽義仲は源氏の正当な嫡流を任じる者だから、頼朝の挙兵を耳にすればそれに呼応して挙兵するのは必定で、天下の命令を遂行する人(制人)になろうとするであろう。ならば、勢力の小さいうちに誅殺した方がいいと、甥の穂科権八と笠原平四郎を始めとする300人余が下伊那へ出陣するこになった。(ある説では、桜沢や平沢等の道はまだ未開発であった。その上で兼遠の妻子はこの時妻籠に住んでいたという。兼遠一作任?)
栗田寺別当である大法師覚範は源氏に縁がある者なので、このことを聞いて、急遽木曽(義仲)へ注進に赴き、木曽周辺の郷民を集めて、村上(七郎)義直とともに、総勢500人余りで市原に出向いて一戦を交えた。日が西山に傾く頃にも初戦は決着がつかなかった。だが事態が急を要したのは、村上義直軍の矢種が無くなり、再起を期して隠れて好機を待っていたが、夜半に片桐(小八郎)為安が軍勢を率いて義直の陣に加勢してくれたので、たちまち勢いを取り戻し気力も復活して、翌日の8日の明け方に笠原の陣に攻め入り、鬨の声をあげるなどして入り乱れて戦う。笠原頼直は真っ先に馬を戦いの中に乗り入れて、笠原軍を鼓舞て戦うと、源氏方はたちまちに崩れだして一里ほど後退させられた。平家側は勝ちに乗じて追いかけ、散々に躍りかかる。源氏方は、昨夜より加勢した片桐軍を伏せておき、時を見計らって立ち回り、白旗や白印を靡かせて、鏃を敵に向けて、散々に矢を放つ。思いがけない敵の出現に、平家側はどっと崩れ立ち往生してしまい、弓などを投げ捨てて雷が落ちるがごとく、隊列を抜け出す。その乱れに、前後より攻め込めば、平家方は大崩れを起こした。
管(冠者)友則は急遽旧領の大田切に逃げて隠れた。源氏側は残党を集めて再起の協議をする。それは、覚範が木曽越えの健脚で援軍にくる木曽を待って戦うか、すぐに戦った方が有利か、評議は分かれた。やがて、やってきた義仲が言うには凡軍は不意をつけば崩れるだろう。笠原軍は長征して正規の道を来ているので、味方は間道を通って笠原の根城を襲って焼き討ちにしよう、そうすれば当面の敵は逃げ場を失い、敗北することは疑いの余地なし、と急遽決まって、殿原から木樵を捕まえて案内させ、駒ヶ岳を南に回り道のない獣道を、岩石をよじ登り、葛や蔦のつるを頼って、険しい崖などを乗り越えて、苦労して伊那郡に討ち入りする。(現在この道は木曽殿越えという、かなり険しい)馬はみな乗り捨てて、歩行にて行進し、家に火を掛け、笠原の館辺りは、灰燼となり、馬も数100匹を解き放ち、そのあと木曽を目指して帰った。
笠原頼直は、(笠原郷と自分の館が)木曽軍に荒らされたのを聞いた。その時、笠原は多くの手勢が手元のあり、笠原荘の館を守る兵は少ししか残してこなかったので、負け戦は仕方のないことで、大田切が奪われなかったのは勝ちに等しい、と負け惜しみを思ったが、怒りを抑えて、館が焼け落ちるのを悔しそうに遠くから見ていた。
・・・鉾持神社の伝承に、治承4年(1180)高遠・板町30町の地頭石田刑部が鎌倉勢との戦いで敗北した、・・・とある。
同年11月、甲斐源氏の武田(太郎)信義と一条(冶=次郎)忠頼の両勢は有賀口より攻め込んで大田切を攻撃する。伊那郡の源氏側の人達は挙兵して、後ろより矢を放って城軍の管冠者を殺害したが、笠原頼直は囲みの一方を破って、城(四郎)資永を頼って、越後を目指して逃げていった。
・・・鉾持神社の家伝では、養和元年(1181)より鎌倉郡代として日野(喜太夫)宗滋は30町を賜り、板町に住む。その子は(源吾)宗忠という。
養和元年(1181)6月、越後国の城資永兄弟が(千曲川の近くの)権田河原で陣を置き木曽勢と戦うが、(笠原平吾頼直は)城軍に加勢した。しかし、城軍は木曽軍に敗れて、頼直は高井郡に逃げ、片山の目立たぬ所に潜んで住んだという。(現在もその村は存在していて笠原村という。穂科権八も高井郡に隠れて住み、今の保科の祖になったという。)
元歴元年(1184)、反目した木曾義仲を頼朝が成敗すると聞いて、頼直は大変喜び、鎌倉に出向き、同5月に小山、宇都宮の軍に属して、清水(冠者)義高の軍を追討するとき功績があって、同6月に頼朝より本領安堵され、やがて(不日=やがて、そのうち)故郷に帰り、各地に逃げ散らばっていた一族郎党を呼び返して、天神山では狭いので、東月蔵山の尾崎が好適地と決め、城郭を築き、高遠と名付けた。この城は南側は岩石が急峻(俄我=ガガ、急勾配の様)にそびえ、下方には三峰川の急流に臨み、西山側は山が険しく、松林が枝を張り密集して生い茂り、その下方は苔の生えた滑りやすい場所で、藤沢川も堀として通用する。東側は月蔵山の麓に連なっており、幾分平坦なところに塀と堀を幾層にして周りを囲み、柵も設けて、守りの堅固な城に適した場所であった。その形は兜釜に似ているところから甲山とも言った。
(一説に、山の鞍の部分を甲山というのは、築城の前より呼ばれていた名前であったという。)
頼直はここに移住し、子孫は代々相続したと言うが、年代は不明である。
暦応(1338-1432)の頃まで(笠原家は)連綿と続いたという。いま、笠原村の丑寅に蟻塚城という城趾があり、応永(1394-1428)の頃、笠原中務というものが住んだという。高遠が木曽に変わったときから子孫はここに移り住んだと言うが、文献が乏しく残念に思う。・・完
概略・・・
笠原頼直は笠原荘(今の高遠・範囲は不明)に牧監として、平安時代末期に住んでいたらしい。
笠原頼直は系譜が桓武天皇に繋がるらしい。そして治承の乱の時平家側の武将として活躍する。
笠原頼直は、木曾義仲の平家打倒の挙兵に抵抗し、幾つかの戦いをするが、結局破れて、高井郡に隠棲する.時を経て頼朝(鎌倉)に臣下し、反乱の鎮圧に貢献して、旧領を安堵され笠原郷に帰り、高遠城を築城する。この時から、笠原郷を含めたこの地が高遠と呼ばれる。
笠原家は1330年代に、支配を木曽家に替わられて、蟻塚城に移住。この時の木曽家は?
笠原家は1520年代に、その頃勢力を拡大する諏訪家と戦い破れる。この時の諏訪家は諏訪信定で以後高遠城は高遠(諏訪)家の支配となる。
・・傍証は、鉾持神社伝承。まず鉾持神社は鎌倉期前後政府の官舎か官舎と神社の併設所らしい。そして笠原家と縁を持つらしい。そこの伝承は笠原氏の存在確認の第2の証拠となり得るので、笠原氏の牧監と木曽氏との抗争と敗北は信憑性を深めそうだ。・・・感想
笠原頼直略伝付高遠築城 現代語訳
さて、信州伊那郡笠原荘の高遠城は、元暦年中(1184-1185)に造られた城である。笠原平吾頼直というものが築城したという。頼直は、桓武天皇の末裔で信濃守維茂の曽孫にあたる。
笠原家の始祖は高井郡に住んでいたが、当笠原荘に移住し牧監(牧場の監督役)に任命され、天神山に居城を構えたという。
・・異説、年代は不明だが、(笠原)が高井郡に住んだという地を笠原村と呼んでいたというのは誤りで、笠原という村名は、(彼らの活躍した時代より)後世に付けられたものである。牧監は別当と同意の言葉である。
治承年中(1177-1181)(笠原頼直が)大番(御所などの守衛の役の意味か)で京都にいたとき、一院(法王=後白河法皇)の第2皇子の高倉宮が以仁王と謀って、平家を誅殺して皇威を復興したいとの強い志で、源(正三位)頼政(入道)を頼りにして、勅旨を下した。むかし、六条判官(源)為義に命令して東国の源氏に令旨を出した。新宮氏と領民はすぐさま呼応して行動したが、その計画は露見してしまい、検非違使などの役人が宮殿に直ちに向かったので、(平家打倒に呼応したものは)円城寺に逃げ、なお南都(平安以降、奈良を南都と呼んだ)の七つの大寺院の僧達に都の守護を依頼し、治承四年(1180)5月25日、頼政(入道)の家来衆と(園城寺の)寺法師とともに300人以上のものが南都に守衛兵として集結した。これに対して(左衛門督)知盛と(右近衛少将)重衡と(前薩摩守)忠度を大将にして御所守衛の武士を招集して2万8000人で追いかけるが、思っているよりも早く宇治の郷で追いついてしまった(無端・・思いも掛けず、思いの寄らず?)。(宇治)平等院にて、一戦に及んで、(平家打倒側は)頼政(入道)を始め、ことごとく討たれてしまい、(以仁王?)宮も光明山で流れ矢にあたり殺害されてしまう。(笠原)頼直はここに来て、粉骨を惜しまずに戦を終結していく。頼政(入道)の郎党を集め、(以仁王)宮は、意味のない謀反をやって死んでしまい、戦いは終結して周辺は静かになったという。・・・治承の乱?
だが、東国に平家追討の命令を出し、挙兵を促したので、何様にも、諸国で麒尾(優れた英傑のあと)を頼って謀反の挙兵をする一族もいるかもしれないから、ここにいる平家守衛の人達は、それぞれ自分の領国に戻り、適切な行動を起こして反乱を鎮圧せよ、と御所の護衛の役目を暇を貰って解かれる。これで、頼直は6月下旬に領国(笠原荘)に帰る。そして隣国の同志と連絡を取りながら、事変の起こっているところを見ていると、同年8月に伊豆国で流人であった(前右兵衛佐・源)頼朝は一院(後白河法皇)の院宣を奉って、蛭ヶ小島で挙兵し、目代(国司の第四等官の代理)の平兼隆の山本郷の館を襲って石橋山に登って(与力)加勢の連中を待って平兼隆を討ち取ったことを宣告した。
東国の(平家打倒の)挙兵の勢いは下火にならず、ますます燃え広がる。
かって(往・かって、ここに)久寿二年(1155)8月12日武蔵国で悪源太義平に討たれた(源)義賢がいたが、父の討ち死にの時わずか二歳であった木曽(冠者)義仲は木曽山中で成長していた。そして、さる5月に叔父の(蔵人)行家の勧めに応じて令旨を賜った。叔父の行家は、元の名を義盛と言うが、令旨を伝達する使いに任命されるとき、蔵人を官名され、その時に行家と改名した。木曾義仲が挙兵の旗を揚げようとするとき、高倉宮の平家追討の計画がばれて、頼政(入道)をはじめ、兄の蔵人仲家を討たれてしまったと聞いて、行家は力を落とし落胆していたが、頼朝の挙兵を聞いて大変喜び、義仲とともに吉日を選んで9月7日に、急遽信濃国木曽谷で旗を揚げ、信濃国の源氏を招集する。
この日、笠原頼直は熟考していた。木曽義仲は源氏の正当な嫡流を任じる者だから、頼朝の挙兵を耳にすればそれに呼応して挙兵するのは必定で、天下の命令を遂行する人(制人)になろうとするであろう。ならば、勢力の小さいうちに誅殺した方がいいと、甥の穂科権八と笠原平四郎を始めとする300人余が下伊那へ出陣するこになった。(ある説では、桜沢や平沢等の道はまだ未開発であった。その上で兼遠の妻子はこの時妻籠に住んでいたという。兼遠一作任?)
栗田寺別当である大法師覚範は源氏に縁がある者なので、このことを聞いて、急遽木曽(義仲)へ注進に赴き、木曽周辺の郷民を集めて、村上(七郎)義直とともに、総勢500人余りで市原に出向いて一戦を交えた。日が西山に傾く頃にも初戦は決着がつかなかった。だが事態が急を要したのは、村上義直軍の矢種が無くなり、再起を期して隠れて好機を待っていたが、夜半に片桐(小八郎)為安が軍勢を率いて義直の陣に加勢してくれたので、たちまち勢いを取り戻し気力も復活して、翌日の8日の明け方に笠原の陣に攻め入り、鬨の声をあげるなどして入り乱れて戦う。笠原頼直は真っ先に馬を戦いの中に乗り入れて、笠原軍を鼓舞て戦うと、源氏方はたちまちに崩れだして一里ほど後退させられた。平家側は勝ちに乗じて追いかけ、散々に躍りかかる。源氏方は、昨夜より加勢した片桐軍を伏せておき、時を見計らって立ち回り、白旗や白印を靡かせて、鏃を敵に向けて、散々に矢を放つ。思いがけない敵の出現に、平家側はどっと崩れ立ち往生してしまい、弓などを投げ捨てて雷が落ちるがごとく、隊列を抜け出す。その乱れに、前後より攻め込めば、平家方は大崩れを起こした。
管(冠者)友則は急遽旧領の大田切に逃げて隠れた。源氏側は残党を集めて再起の協議をする。それは、覚範が木曽越えの健脚で援軍にくる木曽を待って戦うか、すぐに戦った方が有利か、評議は分かれた。やがて、やってきた義仲が言うには凡軍は不意をつけば崩れるだろう。笠原軍は長征して正規の道を来ているので、味方は間道を通って笠原の根城を襲って焼き討ちにしよう、そうすれば当面の敵は逃げ場を失い、敗北することは疑いの余地なし、と急遽決まって、殿原から木樵を捕まえて案内させ、駒ヶ岳を南に回り道のない獣道を、岩石をよじ登り、葛や蔦のつるを頼って、険しい崖などを乗り越えて、苦労して伊那郡に討ち入りする。(現在この道は木曽殿越えという、かなり険しい)馬はみな乗り捨てて、歩行にて行進し、家に火を掛け、笠原の館辺りは、灰燼となり、馬も数100匹を解き放ち、そのあと木曽を目指して帰った。
笠原頼直は、(笠原郷と自分の館が)木曽軍に荒らされたのを聞いた。その時、笠原は多くの手勢が手元のあり、笠原荘の館を守る兵は少ししか残してこなかったので、負け戦は仕方のないことで、大田切が奪われなかったのは勝ちに等しい、と負け惜しみを思ったが、怒りを抑えて、館が焼け落ちるのを悔しそうに遠くから見ていた。
・・・鉾持神社の伝承に、治承4年(1180)高遠・板町30町の地頭石田刑部が鎌倉勢との戦いで敗北した、・・・とある。
同年11月、甲斐源氏の武田(太郎)信義と一条(冶=次郎)忠頼の両勢は有賀口より攻め込んで大田切を攻撃する。伊那郡の源氏側の人達は挙兵して、後ろより矢を放って城軍の管冠者を殺害したが、笠原頼直は囲みの一方を破って、城(四郎)資永を頼って、越後を目指して逃げていった。
・・・鉾持神社の家伝では、養和元年(1181)より鎌倉郡代として日野(喜太夫)宗滋は30町を賜り、板町に住む。その子は(源吾)宗忠という。
養和元年(1181)6月、越後国の城資永兄弟が(千曲川の近くの)権田河原で陣を置き木曽勢と戦うが、(笠原平吾頼直は)城軍に加勢した。しかし、城軍は木曽軍に敗れて、頼直は高井郡に逃げ、片山の目立たぬ所に潜んで住んだという。(現在もその村は存在していて笠原村という。穂科権八も高井郡に隠れて住み、今の保科の祖になったという。)
元歴元年(1184)、反目した木曾義仲を頼朝が成敗すると聞いて、頼直は大変喜び、鎌倉に出向き、同5月に小山、宇都宮の軍に属して、清水(冠者)義高の軍を追討するとき功績があって、同6月に頼朝より本領安堵され、やがて(不日=やがて、そのうち)故郷に帰り、各地に逃げ散らばっていた一族郎党を呼び返して、天神山では狭いので、東月蔵山の尾崎が好適地と決め、城郭を築き、高遠と名付けた。この城は南側は岩石が急峻(俄我=ガガ、急勾配の様)にそびえ、下方には三峰川の急流に臨み、西山側は山が険しく、松林が枝を張り密集して生い茂り、その下方は苔の生えた滑りやすい場所で、藤沢川も堀として通用する。東側は月蔵山の麓に連なっており、幾分平坦なところに塀と堀を幾層にして周りを囲み、柵も設けて、守りの堅固な城に適した場所であった。その形は兜釜に似ているところから甲山とも言った。
(一説に、山の鞍の部分を甲山というのは、築城の前より呼ばれていた名前であったという。)
頼直はここに移住し、子孫は代々相続したと言うが、年代は不明である。
暦応(1338-1432)の頃まで(笠原家は)連綿と続いたという。いま、笠原村の丑寅に蟻塚城という城趾があり、応永(1394-1428)の頃、笠原中務というものが住んだという。高遠が木曽に変わったときから子孫はここに移り住んだと言うが、文献が乏しく残念に思う。・・完
概略・・・
笠原頼直は笠原荘(今の高遠・範囲は不明)に牧監として、平安時代末期に住んでいたらしい。
笠原頼直は系譜が桓武天皇に繋がるらしい。そして治承の乱の時平家側の武将として活躍する。
笠原頼直は、木曾義仲の平家打倒の挙兵に抵抗し、幾つかの戦いをするが、結局破れて、高井郡に隠棲する.時を経て頼朝(鎌倉)に臣下し、反乱の鎮圧に貢献して、旧領を安堵され笠原郷に帰り、高遠城を築城する。この時から、笠原郷を含めたこの地が高遠と呼ばれる。
笠原家は1330年代に、支配を木曽家に替わられて、蟻塚城に移住。この時の木曽家は?
笠原家は1520年代に、その頃勢力を拡大する諏訪家と戦い破れる。この時の諏訪家は諏訪信定で以後高遠城は高遠(諏訪)家の支配となる。
・・傍証は、鉾持神社伝承。まず鉾持神社は鎌倉期前後政府の官舎か官舎と神社の併設所らしい。そして笠原家と縁を持つらしい。そこの伝承は笠原氏の存在確認の第2の証拠となり得るので、笠原氏の牧監と木曽氏との抗争と敗北は信憑性を深めそうだ。・・・感想
木曽出身で、木曽氏等、信濃武士に興味があり、いつも参考にさせていただいております。今後ともよろしくお願いいたします。
質問の「笠原氏」については、正直詳しくありません。
以仁王の呼びかけに呼応して、木曽義仲が「打倒平氏」で挙兵したとき、平家側に笠原氏がいたそうです。
室町時代、小笠原に反抗した戦記「大塔記」の中にも笠原氏が見えます。
同じ系譜の家系かどうかの証左はかなり薄いようです。
また、武田の侵攻に屈した佐久の志賀城にも笠原氏がいたようです。
申し訳ありませんが、この部分の知識はこの程度です。