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誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 97 最終話

 ーーまだ少し朝方に冷え込みが残る春の日。

 私は今、出産を目前に控えた妻がいる産婦人科の病院にいる。昨日の夜ふけに病院から、妻が破水し陣痛がはじまったのでもうすぐ生まれるかもしれないとの連絡を受け、慌ててやってきた。しかし、その後なかなか子宮口が開かないとか何とか言っていていて、分娩台に上がるまでに至らず時間ばかりが過ぎている状態だった。看護師さんには一度帰った方がいいと言われたが、病院が少し家から遠いのと、もし帰っている間に産まれたらと思うと気が引けて、帰るタイミングを完全に逃した。
 妻のいる病室には入れないので、私は病院のロビーで独りその時を待っている。当然眠れもしないまま、いつのまにか窓の外には朝の通勤客がちらほらと見て取れる時間になった。スマートフォンで昔の写真を何気なく見ていると、結婚前の社内恋愛中の私と妻のデート先で撮った写真を目にして、その時の事を思い出していた。

 3年前、妻へプロポーズしたいきさつは、今でもすごく良く覚えている。その日、あの震災クラスの大きな地震があった。窓の外から見える街のあちこちから煙が上がっていた光景が今でもはっきりと蘇る。そして、ミキ・・・私の会社の先輩であり、今は妻となった女性がまったく連絡つながらずに私自身がパニックになりかけたところで、ようやく向こうから電話がかかってきた。なんと、あの大地震の中、寝ていたというのだ!
 これには驚いたが、私は電話越しに聞いたミキの声に心底安堵し、居ても立っても居られない気持ちで、勢いに任せて電話越しにプロポーズをしたのだ。本当は婚約指輪を準備して、豪華なディナーの後にサプライズで指輪を渡そうかと考えてもいただけに、なんとも慌ただしい形となってしまった。ミキはその場で驚きながらも「うん。こちらこそよろしくおねがいします」と言ってくれた。その一ヶ月後くらいにようやく震災の影響から街も落ち着きを取り戻したころ、指輪を二人で買いに行ったっけ。

 気がつけば会社の始業時間が近づいた。私は上司である橋爪部長に電話をし、事情を話して今病院にいる事を伝えると「何があっても奥さんの側にいてくれ」とこちらを気遣って言ってくれた。
 橋爪部長は若い頃に奥さんとお腹の中の赤ちゃんを交通事故で亡くしている。なにか特別な感情があるのかもしれない。私は奇遇にもまだ会社に入る前の学生時代に、橋爪部長とあるビルの屋上で出会い、その事を聞かされた。ちょっと不思議ないきさつがあって、そのお腹の中の子につけようとしていた名前も知ることになった。
 翌年、私が面接を受ける会社の面接官として当時まだ課長だった橋爪さんと顔を合わせたときには心底驚いた。もちろん向こうもそうに違いない。
 無事に採用が決まり入社してから少し経って、橋爪部長とその屋上で会った時の話をした際に、私がまだその子の「リン」という名前を覚えていたことを知って、橋爪部長は何だか安堵した表情をしていた。実際に、私も不思議と何故かずっと気になっていたから、一度橋爪部長の自宅にお邪魔してお線香をあげさせてもらったこともある。その事を思い出すと、不思議となんだか胸が暖かくなる。生きていればもうすぐ14歳ぐらいの女の子だ。時々、それくらいの世代の子どもたちが居ると、その中にわが子を見るかのように優しい眼差して見守る橋爪部長の様子を何度か見たことがある。
 その時に一度『娘は天国であれくらいの子に育っているような気がするんだ、不思議とね』と言っていた。
 そういうことが、本当にあるのかもしれない。

 ちなみに、自分たちのこれから生まれる子につける名前も、すでに決めてある。
 これは誰にも言っていないんだけど、妻の妊娠がわかってから少し経って、一度だけ夢に見知らぬ女の子が出てきた。顔の細かなところまでは覚えていないけれど、色が白くて顔立ちの整った女の子だった。夢の中で話すこともなく、ただまっすぐに立っていただけだったけれど、目が覚めてからすぐに腑に落ちた。あれは未来のわが子だと。それから、あれこれと考えた子供の名前ははじめから女の子の名前だけだった。

「いたいた!旦那さん分娩室へ!早く!」
突如ロビーに響いた看護師さんの声で我に返った私は、飛び跳ねるように立ち上がり、看護師が手招く方へと走った。

 消毒して分娩室に入るとすでにミキは分娩台で苦しそうな声を上げていた。看護師さんに言われるがままミキの手を握り、苦しそうにいきむ姿をただただ見守りることしかできなかった。ミキの手にものすごい力が入る。私はつい子供の頃からのくせで、おばあちゃん見守っててねと心の中でつぶやいた。
「ほら、がんばって頭が出てきたわよ」ものの数分で落ち着いた産婦人科医の声が分娩室に響いた。うんといきむミキの声に力がこもる。

 それから数秒後、少し控えめだけれどはっきりとた声で『おぎゃあ』という鳴き声が部屋に響いた。
「おめでとうございます、無事元気な女の子です」医師が言った。

 小さな顔を精一杯くしゃくしゃに、赤くして泣いているわが子を見て、ミキは感極まりその場で泣きながら「よかった、よかった」と二回言った。
 私もすっかり舞い上がってこういった。
「やっと会えたね、やっと会えたね」

「ヒカル!」「ヒカル!」

私とミキは交互にわが子を呼びあった。

わが子はその小さな手と足を、もどかしそうに、一生懸命に動かしながら泣いていた。
穏やかな風と柔らかな日差しが心地よい、
よく晴れた平和そのものの日の昼下がりだった。

堪えきれず、私の目に涙がこみ上げてきた。

愛しき子よ、僕たち夫婦のもとに生まれて来てくれて、ありがとう。

この星の奇跡の巡り合わせに、ありがとう。

みんな、みんな、本当にありがとう。



<完>


 






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途中途中で更新が滞る中、最後までご覧いただき、本当にありがとうございました。
少しでもご覧いただけたことが励みとなり、何とか書き上げることができました。
次回作も、こちらのブログで書き下ろし配信したいと思います。
よろしくお願いいたします。
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