神国の民草

脱懈怠(神国の民草・代表)の参拝記録

蒲田神社

2011年12月07日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『蒲田神社』

御鎮座地 
〒532-0002 大阪市淀川区東三国二丁目18番12号

御祭神 
宇賀御魂大神 別雷大神

御由緒
摂津の国の蒲田の里に暮らしていた人々は、この地に二柱の神様を御迎えしてお祭りした。土地開発、鎮護に大きな御神徳を発揮せられる別雷大神、衣食住の道を開き守護下さる宇賀御魂大神である。二柱は里の人々の心の支えとなり、その霊徳を仰ぎ感謝の祈りを捧げながら、日々精進したところ里は豊かになり、代々守り伝えられてきた。
別雷大神は、藤原時代前期の頃に、京都の上賀茂神社の御祭神である別雷大神の御分霊をお乗せして播州へ御渡りになる船が、この地を通りかかった時につむじ風に遭遇され、この蒲田の杜で一時風除けをされたことから、お祭り申し上げることになった。
足利時代には当地は仏生院村と称されたり、当社は字室に存在していたことから室の社と、また御祭神の宇賀御魂大神を稲荷大神とも称えるところから稲荷神社とも並び称せられていた。明治24年12月12日より当時の地名(大阪府西成郡中島村大字蒲田)の字名を冠称して蒲田神社となった。
現在、当社境内の古大木は樹齢1000年余と言われる1株と600余年を経ていると言われる社前の切株、外に数百年を経た2株が現存し、以前は大樹繁茂し昼でも暗い状態であったと伝えれていて、室社と呼ぶに相応しい防風の役目を果たしていたことが分かる。このことは、上記の別雷大神をお乗せ申し上げた御座船がこの地を風除けの適地として選ばれた理由でもある。

感想等
蒲田神社は地下鉄御堂筋線東三国から100mに御鎮座され、都会の喧騒から神域に一歩踏み出せば、上記御由緒の名残が見られるたくさんの木々に囲まれた鎮守の森である。境内には所々に植木が栽培されていたりと、蒲田神社神職による手作り感が垣間見られ、適切な言葉ではないかもしないが「アットホーム」であると私は思う。
しかしながら、周辺住民からの蒲田神社神職への評判は芳しくなく、実際に私が「御由緒書」を頂いた際の蒲田神社神職の態度もその評判通りであった。さらに、「御由緒書」は、ほとんどの神社で無料もしくは約100円というところ、蒲田神社では200円(カラー印刷で綺麗な冊子であるが)ということも低評価に拍車をかけるのだ。これは支払いたくないというわけでは決してなく、他社とほとんど変わらぬクオリティであるのになぜ?という疑念を抱かせるものなのである。
御祭神はとても霊験荒たかな神々であらせられるだけに、大変残念である。失礼を承知であえて申し上げた。

大隅神社

2011年12月04日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠






『大隅神社』

御鎮座地
〒533-0011 大阪市東淀川区大桐5丁目14

御祭神
天照皇大神 応神天皇 別雷大神 天児屋根命 市杵島姫神 伊邪那美神 素盞烏尊
豊受毘売神 大山咋神 宇賀御魂神 菅原道真公

御由緒 
当社の氏地は、もとの大隅島即ち上中島にあたり、後の西成郡中島・大道の両村の範囲である。応神天皇22年(西暦291年)3月、時の帝難波の地に御幸し賜い、この大隅島に離宮を営んで宮居せられ、これを大隅宮と称した。その後、安閑天皇(西暦525年)9月、勅してここに牛を放牧せられた。後鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献上したので、御平癒の後、乳牛牧の地名を賜った。応神天皇崩御の後、里人帝の御徳を慕い、宮址に神祠を建てて帝を御奉祀したのが起源であるといわれている。爾来当社はこの地の産土神として尊崇せられてきたが、一とせ淀川が氾濫した際、賀茂明神の御神体が漂着して霊光を放った。里人は喜び迎えて、これを産土神祠に合祀したものと思われる。これより社名を賀茂神祠と改め、社殿を二つに分けて一つには別雷大神を御奉祀し、一つには従来の応神天皇の他に、天照皇大神・伊邪那美神・素盞烏尊・豊受毘売神・天児屋根命・大山咋命及び菅原道真公の八柱を合祀し、その名を伊邪那美神社外七座社と称した。

感想等
当社を訪れた際、幹線道路から入り組んだ場所に御鎮座されているため、なかなか鳥居を見つけることができなかった。昔の境内はとても広かったようであるが、市への払下げ等により住宅地に変わってしまい現在は小規模になってしまっている。
当社の周辺は住宅街。実際、当社の鳥居と一般の住宅との距離はほんの僅かしかなく、夕方前という時間も起因してか、たくさんの人々がこの細い道を徒歩・自転車・自動車で鳥居なんぞ見えないかの如く行き交っていた。
歴史あるこういった神社にもっと日本人は参拝に行くべきである。

大宮 (大宮神社)

2011年11月06日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠








『大宮』

御鎮座地
〒533- 0012 大阪市東淀川区大道南三丁目2番2号

御祭神
主祭神 安閑天皇(勾大兄広国押武金日天皇)

相殿神 天手力男命 大己貴命

末社 日天社(天照皇大神) 聖徳太子社 八幡社 楠稲荷社(宇賀御魂神) 豊光社(祖霊社)


御由緒
第27代安閑天皇を主祭神として奉斎し、明治43年10月に村社豊国神社御祭神天手力男命を、大正8年6月に村社橋多賀神社御祭神大己貴命を夫々合祀し、相殿に奉斎している。
安閑天皇は、第27代天皇として大和の国勾の金橋に都を開かれた大和朝廷の天皇であらせられる。安閑天皇は、第26代継体天皇の御長子幼少の頃より器量・知恵共に勝れ抜きん出ておられ、諸国に屯倉を作られ、御在位4年で御年70歳にして勾金橋宮で崩御された。
当社の起源は、安閑天皇がしばしばこの地に行幸あそばされ、即位2年の秋には勅して牛を放牧せしめられ、土地の発展を計らしめ給うた後、その御徳を慕って祭祀奉ったのであるが、その創立は定かではない。この地は、聖徳太子の伝承が多く、主祭神御神体の御木像は聖徳太子の直作と言われている。また、聖徳太子はこの地に四天王寺を建立せんとし給いしが、洪水が多く結局今の天王寺に建立されたが、一旦この地に定められし故から御年42歳の時に自ら自画像を描き、本殿に留め給いしを今に伝えて奉祀している。また、その旧跡であることから、大阪市に編入される大正14年まで西成郡天王寺庄と称し、太子の別称豊恥耳皇子から豊里町と名付けられ、太子縁の彩家跡の地名もこの時まで残っていた。現在の竹間の南西、堤防の下辺りといわれている。
社殿はもともと、改修前の旧淀川北岸の堤に面しており、樹齢千年に余る楠の大樹数本、杉松の大樹数本、二丁余の竹藪と共に千古を語る鬱蒼とした森厳なる境内であった。また、江戸末期に京都東本願寺の棟木を献上したと伝わっている。当時淀川を上る船は、この森を目標にして西風を帆いっぱいにはらませ逆航し、当宮の正面に到って帆を一旦おろし、舵を北に切って帆を逆に巻き揚げ北進し、辻堂の浜にかかって、舵を東に帆を元に戻して、江口・鳥飼へと東進し、川を上ってもので、江戸時代の30石船もこの杜が燈台の役割を果たし、大宮大明神・大宮大権現と親しみ崇められていた。
明治33年5月、淀川改修工事施工にあたり境内は新淀川の河川敷となったため、老樹・竹藪を伐採して現在地に遷座して奉った。同時に、氏地の中央に新淀川が掘鑿され、本流の曲がりは緩やかになり川幅も広くなって、逆巻の難所も洪水のおそれもなくなったが、豊饒の耕地は河川敷となって埋没し氏地の大半は川底に沈んで、氏子の人々は北岸と南岸に別れ住み、氏地は真っ二つに分断された。従って、大正14年大阪市に編入された際、南岸となった地域も北岸と同じ東淀川区であったが、昭和17年南岸は旭区となり、町名区画は旧来にまま橋寺町・豊里町・豊里三番町と変わらなかった。だが、昭和46年、旭区の町名区画が変更され太子橋・大宮・中宮・生江の北部が連なることとなり、氏地の境は不鮮明になった。その前年の昭和45年には、平田の渡し舟に替わって近代的な豊里大橋が完成し、南北の往来はもとより大阪内環状線の大動脈が当宮正面の鳥居前を走っている。

感想等
御由緒の記述通り、交通量のとても多い国道沿いの大橋の手前に御鎮座されている。恥ずかしながら私自身その国道は何度も通過していたが、当宮に気付かなかった。かつては「大宮神社」と称していた時期があったようである。聖徳太子に御縁がありその歴史は極めて古く、境内は小規模ながら御神威を感じることができる。これからは意識的に参拝をさせて頂きたい。

明治神宮

2011年10月03日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠





『明治神宮』

御鎮座地 
〒151-8557 東京都渋谷区代々木神園町1-1

御祭神 
明治天皇(第122代天皇) 昭憲皇太后

御由緒
御祭神の明治天皇は、長きに亘って続いた封建制度を改め、維新の大業を成し遂げられました。近代の日本の建設に当たっては、特に教育の普及と道徳の実践についてご心配になられ、臣民の誰もが心がけ実行しなければならない徳目を挙げて、道徳の普及、教育の向上に尽力され、「教育に関する勅語」をお示しになられました。

教育勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
 御名御璽

1912(明治45年)年に明治天皇が崩御され、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったが、その崩御に関する法律はなく、何らかの記念するための行事が計画された。その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ、1914(大正3)年に昭憲皇太后が崩御されると、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて、1915(大正4)年5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。
明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠まれた代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われ、1920年(大正9)年11月1日に鎮座祭が行われた。
この御料地はかつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。
面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木を青年団が植樹したものである。また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」至誠館などがある。
私達臣民の、永遠不変の道徳教育の基礎ともいわれる、父子・兄弟・夫婦・友人間の人倫、謙遜、博愛、智徳の習得、道義的人格の完成、社会的義務の履行等、勅語にお示しになった大御心は、いかに時代が変わっても、本質的にはいささかの変わりもない。私達臣民が歩まねばならない道標として、常にその徳目を実践して立派な人となり、平和な家庭をもち、道徳的な良い社会づくりに努力しなければならない。

感想等
私が訪れた際は、参拝者のほとんどが、売国政府の入国緩和政策によるシナ人及び朝鮮人という本当に嘆かわしい光景であった。参拝する気持ちのない外国人が多数徘徊し、まるで遊園地に来ているかの如く記念写真ばかり撮り、御神木に無用に触るなど、神域を軽視・侮辱しているとしか思えない行動をしていた。これは日本を軽視・侮辱している行動と言える。当然、日本人も外国を訪れた時、その国の宗教施設などにおいてバカな行動に出てはいけない。
私見では、参拝目的以外での神域への侵入は禁ずるべきであり、観光目的の外国人に対してはより厳格に対処すべきと考える。もちろん、これは観光目的だけの日本人にも妥当する。観光としての神社の側面もある意味大切なのは分かるが、本来の存在意義を見失ってはいけないと思う。

東郷神社

2011年10月03日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠










『東郷神社』

御鎮座地
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前1-5-3

御祭神
東郷平八郎命(元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵)

御由緒
御祭神の東郷平八郎命は、「陸の大山、海の東郷」と称された、元帥海軍大将である。ちなみに、陸の大山とは、陸軍の大山巌元帥(従一位大勲位功一級公爵。元老の一人)である。
御祭神は、(弘化4(1847)年12月22日薩摩藩士東郷吉左衛門の四男として鹿児島市加治屋町で御誕生、昭和9(1934)年5月30日午前7時、88歳で東京麹町三番町で薨去された。
御祭神は、幕末に19歳で薩摩藩の海軍に入られ、明治維新前後の海戦に従事され、24歳だった明治4(1871)年から7年間、イギリスに留学されてウースター号等で厳しい訓練に耐えられ、船乗りとしての知識と技術を修められ、海軍魂を培われて帰国され、立派な日本海軍士官となられた。
以後、戦略や国際法の勉強にも励まれ、巡洋艦浪速の艦長として、明治26(1983)年にハワイがアメリカ合衆国に併合された際や、日清戦争(1894年~1895年)中の厳しい国際問題等を処理された。これにより、「東郷」の御名は世界的に有名となった。
さらに、日露戦争(1904年~1905年)では、聯合艦隊司令長官として三笠艦上に「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」との『Z旗』を掲げられ、ロシアのバルチック艦隊を日本海において撃滅され、世界の海戦史上空前絶後の完全な勝利を成し遂げられた。
ちなみに、『Z』が意味するところはアルファベットの最終文字であることから、「もうこれ以後はない」という決戦の意思である。
この大勝は、我が国を国難から救っただけではなく、ロシアなどの大国の植民地政策の圧力下に当時あった国々に、大きな喜びと希望を与えた。
御祭神は、大正の初めに元帥府に列せられ、大正3年(1914年)から7年間、東宮御学問所総裁として昭和天皇の御教育の大役を果たされ、明治・大正・昭和の三朝に至誠一貫奉仕・国家の重鎮・まこごろの人として、日本だけでなく諸外国の人々からも英雄「大東郷」と尊敬されるようになられた。
昭和9年、日本の偉大な世界的英雄が天寿を全うされるや「至誠(まごころ)は神に通じる」とその一生を貫かれた御徳を永く後世に伝えて顕彰するため、神社に御祀りしてほしいとの要望と献金が全国各地から海軍省に届き、この熱意に応えて時の大角海軍大臣は各界の識者に諮り、財団法人東郷元帥記念会を設立、国民からの浄財によって当社は創建されることになったのである。
御鎮座地は、明治神宮に程近い元鳥取藩主池田侯爵邸を選び、昭和12年9月に地鎮祭、昭和15年5月27日(日本海海戦で完勝した日・当時海軍記念日)に御鎮座祭が執り行われ、欅と檜素木、神明造檜皮葺の当社が完成した。
東郷神社では、御祭神の聯合艦隊解散の辞にある有名な「神明は唯平素の鍛錬に力め戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ古人曰く勝手兜の緒を締めよ」に因み、勝利の神様として御真筆から頂いた「勝」の字を勝利の御守『勝札』として授かることができる。

境内霊社
海の宮(御祭神は、海軍・海事・水産関係者または崇敬者の諸霊)

感想等
東郷神社の狛犬は他の神社のとは異なり、とても筋肉隆々に表現されている。これはやはり御祭神が軍神故だろうか。
御鎮座地の目と鼻の先は平日休日問わず若者でごった返す竹下通りである。訪れた時も、境内の入り口の階段で中高生が座って飲食していた。お祭りで夜店が出ている時ならまだしも、神域で座って飲食をするなど罰当たりも甚だしい。御祭神もこの日本の現状や国民の生活態度を憂いておられるだろう。
一方、境内は参拝者もちらほらで静まり返っている。外界とは空気感が全く異なる霊験荒たかな鎮守の森である。東郷元帥は、晩年、自身を祀る神社建立に強く反対されていたが、結局はたくさんの崇敬者の思いから創建された。故人の遺志をも凌駕する国民の尊敬から当社が建立されたのである。

武蔵野八幡宮

2011年07月03日 | 参拝者・投稿者 東京支部長






『武蔵野八幡宮』

御鎮座地
〒180-0002 武蔵野市吉祥寺東町1-1-23
電話0422-22-5327

御祭神
誉田別尊 比賣大神 大帯比賣命

御由緒
桓武天皇の御代の延暦8年、坂上田村麿が宇左八幡大社の御分霊を祀ったと伝えられています。
四代将軍家綱の頃江戸小石川水道橋外吉祥寺火事の後、周辺町民に移住を命じ、寛文初年吉祥寺村開村により村民の氏神様として尊崇されてまいりました。

感想等
とても素晴らしい神社です。日々、感謝の気持ちを忘れないように頑張りたいと思います。

素盞烏尊神社 (片山神社)

2011年06月18日 | 〔投稿〕 神国の民草・代表 脱懈怠










『素盞烏尊神社』(通称・片山神社)

御鎮座地
〒564-0072大阪府吹田市出口町3-3

御祭神
主殿 素盞烏尊
相殿 天照皇大御神 住吉三柱大神

御由緒
大和時代から平安時代にかけて、この地より千里に至る一帯が丘陵地になっており、良質の粘土が多量に出土し、その頃の人達は「須恵器」や「瓦」を作り、生計を立てていた。
この窯焼きは大陸文化に由来するもので、大和朝廷の初期から食器類や屋根瓦の需要が高まり、その時代の基幹産業であった。
この地で生産される須恵器は、質の良さが有名でその生産量も多く、また平安時代初期には屋根瓦の需要も最高に達し、活気あふれる産業地域であった。
しかし、平安時代を過ぎると、これらの産業も衰退の一途を辿り、ついには廃窯となり、以後は農耕へと移行していった。この歴史を証明する五十基余の《登窯》が発掘されている。
その頃、この地で焼物に携わる人々が「陶芸の祖神」であり、方除け・災難除け・火防の守護神である素盞烏尊を祀り崇敬を集めていたのが当社の創始である。
天正の御代(室町時代・安土桃山時代)の兵火と大正三年の二回、建造物一切が消失し古文書等が全て失われたので、建立及び御由緒等については不明な部分が多い。昭和59年に「昭和の大造営」を執り行い、老朽化が著しくなった社殿を建て替えて今日に至る。

摂社・末社
豊川稲荷大明神・十二支稲荷大明神(御祭神 宇賀御霊神)
愛宕社(御祭神 火之加具土大神) 
結び社(御祭神 神産巣日神)

感想等
当社の前はアサヒビール株式会社吹田工場であり、その工場が大規模なため一見鳥居を見つけづらい。
しかし、当社に一歩入れば、大鳥居が二基あり御本殿まで続く参道は長く、御本殿もとても立派な御姿である。
御本殿の前には綺麗な桃の石碑がある。「桃」は災難・邪気を振り払い、福に転ずる果実と言われている。
これは、主祭神素盞烏尊の父神である伊射奈岐命が「桃の実」の精霊によって災難を逃れ清浄な身となったことに由来する。
摂社の稲荷大明神の御社は、豊川大明神を中心に十二支の稲荷神が御鎮座されている。造化三神の一柱である神産巣日神をお祭りする神社は珍しいと思われる。

神田明神

2011年05月17日 | 参拝者・投稿者 東京支部長






『神田明神』

御鎮座地
〒101-0021東京都千代田区外神田2-16-2
電話03-3254-0753

御祭神
大己貴命 少彦名命 平将門命

御由緒
天平2(730)年、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まり、伊勢神宮の御田(神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
承平5(935)年に天慶の乱で敗死された平将門公の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門公の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受け、延慶2(1309)年、相殿神として祀られるようになった。
慶長5(1600)年、徳川家康公が関ヶ原の戦いの戦勝祈願で参拝。その後、江戸城増築に伴って現在地に遷座。江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇された。神田祭の山車だけは将軍上覧のために江戸城中に入ることを許されたので「天下祭」と言われ、江戸三大祭りの一つと言われる。
明治7(1874)年に明治天皇が行幸するにあたり、天皇が参拝する神社に逆臣である将門公が祀られているのはあるまじきこととされ、平将門命は御本殿の御祭神から外され、少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。平将門命の神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59(1984)年に御本殿の御祭神に復帰した。
大正12(1923)年の関東大震災で御殿が焼失。その後、鉄骨鉄筋コンクリート構造によって権現造を模して再建、昭和20(1945)年の東京大空襲では、境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。

感想等
昨日の靖國神社参拝に続き、今日は夕方5時20分に神田明神を訪れ、20分ほど境内にいました。JR御茶ノ水駅の聖橋口から歩いて10分以内で着きました。大己貴命、少彦名命、平将門命に感謝を申し上げました。

靖國神社

2011年05月16日 | 参拝者・投稿者 東京支部長






『靖國神社』

御鎮座地
〒102-0073東京都千代田区九段北3-1−1
電話03-3261-8326

御祭神
246万6532柱の英霊

御由緒
靖国神社は、明治2(1869)年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12(1879)年に「靖国神社」と改称されて今日に至っている。
靖国神社は、明治7(1874)年1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社である。
本殿の神座は、当初は一座であったが、戦後に、台湾神宮および台南神社に祀っていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀っていた北白川宮永久王とを遷座合祀して一座を新たに設けた。現在の神座は、皇族以外の祭神の一座と北白川宮能久親王と北白川宮永久王を祀った一座の二座である。

感想等
夕方6時10分に訪れ、閉門時間5分前の6時55分まで境内にいました。靖国の神々に感謝を申し上げ、護国の心を持ち続けることを申し上げました。今後も時間作って参拝するようにします。

白兎神社

2011年05月03日 | 参拝者・投稿者 特別相談役










『白兎神社』

御鎮座地
鳥取県鳥取市白兎宮腰603番地

御祭神
白兎神 保食神 豊玉姫命

御由緒
古事記、日本書紀に記されている由緒の明らかな、所謂「因幡の白兎」で有名な神社である。
古事記に曰く、「淤岐ノ島に流された兎 海の和邇を欺きて気多之前まで渡らむとせしが 欺きを知りたる和邇により悉く衣服を剥がれ 泣き悲しむ兎に 八十神の命もちて海塩を浴みて風に当り伏せれば 前にも増して痛みはげしく ここに大穴牟遅神(大国主命) その兎に教へたまはく 『今急くこの水門に往きて 水もて汝が身を洗ひて水門の蒲黄を取りて敷き散らし その上に輾転てば 汝が身本の膚の如 必ず差えなむものぞ』と教へたまひき。かれ教の如せしかば その身もとの如くなりき・・・」とある。
境内には、兎が身を洗った、「不増不減の御身洗池」がある。日本医療の発祥の地であり、古来病気傷痍に霊験あらたかな神様である。また、大国主命と八上姫との縁を取りもたれた(仲人された)縁結びの神様でもある。

感想等
道の駅「神話の里 白うさぎ」のすぐ横が参道入口となっています。
近年の「縁結びブーム」の影響を受けてか、鳥取の観光ガイドブック等では必ずと言っていいほど、「縁結びの神様」として大きく取り上げられている神社です。したがって、カップルや女性グループの参拝が目立ちました。
御本殿は、兎がその身を乾かしたと云われる「身干山」の小高い丘に位置しており、その丘を上る緩やかな階段が参道となっています。参道の両側には、真新しい兎の石像が多数創られています。参拝客は、社務所で「結び石」という白い石を購入し、結び石に良縁等のお願い事を願かけして、兎の石像近くに置いて帰っているようでした。
御本殿を支える土台石(六ケ)には菊の御紋章が彫刻(二十八弁)されており、これは全国的にも珍しいとのこと。境内には、「神社創設が皇室と何らかの関係があったものと云われている」との案内板がありましたが、詳しいことは解らないとのことで、とても印象に残りました。
御本殿のみの小さな神社で、御本殿や狛犬などは古く、手入れが行き届いていたものの、歴史を感じさせる佇まいでした。
身干山の麓には、因幡の白兎伝説の舞台である、美しい「白兎海岸」が広がっています。