2024/10/02 wed
前回の章
家に久しぶりに帰る。
約一ヶ月ぶりの我が家。
捜索願いの誤解は解いたし、徹也にも嘘の説明をして納得させておいた。
問題はないだろうと思いつつも、罪悪感からか泥棒が忍び込むように家へ入る。
「智一郎っ!」
いきなり玄関先で靴を抜いているところをおじいちゃんに見つかった。
「た…、ただいま……」
おじいちゃんは「どこに行っていたんだ」と大きな声で言ってくるので、仕事で大阪にと同じ嘘をついておく。
心配させたくなかったから。
あの親父さえ、「おまえ、連絡ぐらい入れろよな」と言ってくる始末だった。
歌舞伎町一番街の四十四人を巻き込んだ大惨事を思い出す。
『あ、岡部です。智一郎、大丈夫か? 今、テレビですごい事になってるぞ! この留守電聞いたら電話ちょうだい』
『もしもし、兄貴! 歌舞伎町すごいじゃん。兄貴の店、大丈夫なの?』
数分の間に入っていた俺の安否を気遣う留守電の数々。
あの当時歌舞伎町一番街通りで働いていた俺は、地下にいたせいかそんな騒ぎになっていたなんて何も分からないでいた。
留守電を聞き、初めて事の重大さに気付いたほどである。
あの時も親父は心配していたっけ……。
そしてあの日の仕事帰り、突然朝っぱら掛かってきた知らない番号。
「はい」と出ると電話は切られ、不審に思った俺はすぐ掛け直した。
するとその番号は母親の家の連絡先だった。
「あの~…、一体、何の用でしょうか?」
「あ、ああ…、あの騒ぎを聞いたから、生きてんかなと思って電話しただけ」
「……」
「さっき電話したら出たから、ああ、生きてんのかって思って切っただけだから……」
あの鬼畜のような母親でさえ、どこで調べたのか知らないが、俺の携帯電話に連絡をしてきたほどである。
そういった意味で、どんなに憎んでも血の繋がりはなかなか消せないもの……。
命の心配をしてくれるのは、家族と恋人と本当に仲のいい友達だけだ。
歌舞伎町で働くようになって、俺はどれだけ危険な目に遭ったのだろうか?
思い返せば、いつ死んでもおかしくないケースは多々あった。
浅草ビューホテルを辞め、新天地を求めて行った新宿歌舞伎町始めの頃。
俺は初めて働いたゲーム屋ベガのオーナー鳴戸に気に入られ、組員にされそうになった。
カジノの用心棒との死闘をさせられ、オマケに大物ヤクザの事務所まで連れて行かれたっけ。
そしてあの腐った北中のところを辞める際、あいつはヤクザ者を使い、俺を消そうとした。
いつ亡くなってもおかしくない環境の中を自分らしく生きてきたつもりだ。
あれほど家にいる事を忌み嫌い、岩上家の名が通用しない場所へと歌舞伎町へ渡ったのに、こうして俺はまた家に戻っている。
不思議なものだ。
そして目の前にいる親父と、ちゃんとした会話をしているのだ。
これも百合子と出会い、幸せを感じられるようになったからだろうか?
どちらにしても、無事生きて来られて良かった。
今、こうして生きているからこそ、ああして百合子と出会えたのだ。
「そういえばあの子は元気か?」
「あの子って百合子の事?」
「ああ」
「もちろん元気だよ」
「ここしばらく顔を見ないからなあ」
親父が俺の女を気にするなんて初めての事じゃないか。
違和感を覚えたが、気に掛けてもらえ嬉しく思う。
「だって俺がずっと大阪に行っていたんだから、当たり前じゃねえか」
「あの子は何歳なんだ?」
こうして親父と俺が普通に話すなんて、何年ぶりだろう。
「俺の二つ上。だからああ見えて三十五なんだよ。見えないでしょ?」
「若く見えるな。でも結婚とかそろそろ考える時期だろ?」
確かにあいつは俺と一緒になりたがっている。
だが俺も今後の仕事を考えなきゃいけない時だ。
宙ぶらりんなまま勢いだけで結婚という訳にはいかない。
「まあ、もうちょっと先の話だろうな」
「ちゃんと考えろよ?」
変に焦らせてもしょうがないので、百合子が過去、離婚している事は伝えといたほうがいいだろう。
「実はあいつ…、一回失敗しているんだよ。子供が二人いて……」
俺がそう言った瞬間、親父の顔つきが変わった。
「何、バツ一か? コブ付き? 駄目だ駄目だ。そんな女は!」
「何だと……」
「いくらモテねえからって、バツ一なんぞに手を出しやがって。本当に情けねえ野郎だ」
「何だおまえ、この野郎っ!」
売り言葉に買い言葉なんかじゃない。
百合子を侮辱した事が許せなかった。
自分はあれだけ散々人様の妻に手を出しておきながら、
何を抜かしてやがんだ。
「そういう女は駄目だ」
「うるせっ!」
俺は壁を思い切り殴ると、そのまま部屋に戻った。
百合子を侮辱した親父と、これ以上話せない。
あの場にいたら親父を殴り倒していたかもしれないのだ。
この日から親父はいくら百合子が挨拶しても、一切無視するようになった。
数日後、『リング』の名義人、伊田がようやく出てくる。
生理的に嫌いなタイプではあるが、同時期に捕まったという仲間意識はあった。
出所祝いという事で歌舞伎町へ繰り出す。
俺と伊田との決定的な違い。
それは起訴か不起訴かという点である。
伊田はあくまでも名義人なので全責任を背負う事になる。
今回こうして出てこられたのは仮釈放なだけで、裁判がまだ一ヶ月ぐらい先に残っている状態なのだ。
しかしその裁判も猥褻図画なんて小便刑なので、初犯だと執行猶予三年ほどで済む。
形式上裁判をし、実刑にはならない判決を言い渡すだけなのだ。
この裁判が終わって初めて組織を守った事になるので、伊田は保証金の二百万円を手にする事ができる。
この頃ワールドワン時代の系列店チャンプの店長だった有路は、新宿ゴールデン街でBARを始めた。
俺はよく顔を出すようにして、知り合いがいればできるだけ紹介するようにしていた。
有路の店を皮切りに何軒もはしごをして、いい感じで酔う。
歌舞伎町をフラフラ歩いていると、制服姿の警官が職務質問で近づいてきた。
本来なら任意で行われる職質も、最近の警官は思い違いをしている。
まるで自分たちが特別な人種なんだと言わんばかりの態度だ。
街の様々な場所で横柄に職質をして、荷物を点検している姿をよく見掛けた。
あまり職質などされないが、ちょうどいいタイミングだ。
「おい、おまわりさんよ。俺が三日前。隣のこの人は今日出てきたばかりなんだ。いくら叩いたって誇りも何も出ないけど、財布からすべて見せようか?」
おどけながら話すと、警官も「失礼しました」と頭を下げてくる。
「こんな場所で職質なんてしないでさ、もっと人の多い場所でやったほうがいいんじゃないの?」
「そ、そうですね」
気まずそうに警官はその場を立ち去った。
まさか職質した相手が昨日今日留置所から出たばかりなんて夢にも思わなかったのだろう。
俺たちは大きな声で笑いながら街を闊歩した。
巣鴨警察留置所で知り合ったあの乞食を思い出す。
こんな風に歩いていてバッタリ出くわさないかな?
そしたら腹一杯カレーライスをご馳走してやりたいのに……。
俺はサリーちゃんのパパのような髪型をした乞食がいるか、歩きながら自然とキョロキョロ見回す。
「プッ……」
思わず笑ってしまった。
まだ彼は留置所の中だったっけ。
こんなところにいる訳がないのだ。
巣鴨不詳と地検で呼ばれた彼は、自分の名前すら覚えていない。
模擬刀二本持ったまま大塚駅で捕まったが、罪状は何になったいるのだろうか?
どっちにしても取り調べが進まない以上、彼はあのまましばらく巣鴨留置所にいるはずだ。
こんな世知辛い世間に放り出されるくらいなら、留置所で三食屋根付きで生活しているほうがいいのかもな……。
携帯電話が鳴る。
巣鴨警察署生活安全課の刑事、出口からだった。
「岩上か?」
「はい、そうですが…。何かありましたか?」
俺の番号に掛けておいて、いきなり「岩上か?」はないだろう。
出口らしいが。
「おまえのくれた本をたった今、読んだんだよ。『新宿クレッシェンド』だっけ?」
「あ、読んでくれたんですか。嬉しいですね」
あそこを出てからすぐ本を作り送ったが、まだ三日前の話だぞ?
送るのに最低一日は掛かるだろうから、この二日間で小説を読んでくれた計算になる。
警察って本当に暇なんだなと思ったけど、それ以上にすぐ読んでくれた出口の心意気が嬉しかった。
「大変だったんだな、おまえも……」
「え、大変って何が?」
「いや…、妹さん…、幼い頃に亡くしていたんだろ?」
「はあ?」
「だから…、おまえの妹さんだよ…。愛さんって言う子だったんだな……」
出口刑事は気を使いながら言葉を一生懸命選んでいるようだ。
「あの~、出口さん……」
「何だ?」
「巣鴨の時、俺の調書取ったでしょ?」
「ああ、それがどうした?」
「俺は男三兄弟だし、妹なんていませんよ。出口さんが言っているのは、『新宿クレッシェンド』の中の話でしょ……」
「だって…、妹さんがブランコで……」
「だから~…、はあ……。それは小説の中の話じゃないですか」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、溜め息しか出てこない。
「何だ…、ビックリさせやがって、この野郎」
俺の書いた小説を読み、その設定を勝手に真実だと思い込んで電話をしてきたのである。
こっちが違うと説明すると、逆切れして「この野郎」呼ばわり。
まったく憎めない性格と言うか、この人は本当に天然だ。
だからこそ、留置所生活も楽しめた訳であるが。
「まあそれだけ感情移入して読んでくれたんで、こっちも光栄ですよ」
「岩上」
「はい?」
「おまえ、この小説は…、ひょっとしたら、ひょっとするかもしれないぞ」
「そう言ってもらえて嬉しいですよ。頑張りますから」
刑事までが俺の小説を絶賛してくれた。
これでまた一つ、自信がつく。
「おう、頑張れ。それとな……」
「何でしょう?」
「早いところ彼女と籍を入れてやれ」
「……。切りますからね、電話」
「なかなかいないぞ、あんな風に待ってくれる子なんて」
「それは充分分かってますよ。でも、今はまだ時期じゃないってだけです」
「そうか、なら早いところ式を挙げろ」
勝手な事を言いながら出口は電話を切る。
披露宴するのに、いくら掛かると思っているんだ、あの人は……。
携帯電話をスーツの胸ポケットへしまうと、俺はセブンスターに火をつけた。
十年近くこの街の空気を吸ってきた。
俺はこの街の空気、そして雰囲気が大好きだ。
一軒目の店を出て、次に繰り出そうと歩いていた時だった。
「おい、何を偉そうに歩いているだよ」
以前揉めたメロンの北中とバッタリ出くわす。
会いたい奴には会えず、会いたくない奴には偶然出会ってしまう。因果なものである。
金に卑しい守銭奴。
人を飼うという表現がとても似合う大馬鹿野郎だ。
いつまで俺を部下だと思っているのだ、この馬鹿は?
ハッキリさせておくか……。
「ハッキリ言っとくけどさ、俺はもうあんたの部下でも何でもないんだぜ? 何を勘違いしてんのか知らないけどよ。気安く話し掛けるなよ」
「おまえはな……」
「どけよ、邪魔だ」
まだこいつには借りを返していない。
いずれ倍返しでギャフンと言わせてやる。
今日のところは、伊田がせっかく出てきたのだ。
今は思う存分飲んで楽しむだけ。
俺は北中を強引にどかし、道を譲らずにそのまま歌舞伎町を練り歩いた。
「岩上さん…、今の人って……」
伊田が心配そうに聞いてくる。
「ああ、金に浅ましくて卑しい性格の勘違いした馬鹿なだけだすよ」
ヤクザが動かなかった以上、アイツが俺に対してできる事なんて何一つないだろう。
そういえばメロンの上にあるゲーム屋のフィールドのみんなは元気でやっているだろうか?
久しぶりに顔を出してみようかな。
「伊田さん、ちょっと知り合いの店に顔を出してもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
俺は北中の生息しているかつてのビルへと向かう。
「……」
入口のインターホンを押すが、音が鳴る様子がない。
ドアを何度かノックしてもまるで反応がない。
ゲーム屋は二十四時間営業なので、いくら客がいないにせよ、誰かしら中にいるはずなのに……。
俺はここの従業員である山本に電話を掛けてみた。
「あ、岩上さん。お久しぶりです。先日出てきたんですか」
「お久しぶりです。今、フィールドに来ているんですけど、誰もいないみたいなんですよ。それでどうしたのかなと思って、山本さんに連絡してみたんですが」
「え、岩上さん、知らなかったんですか?」
「何がです?」
「あの店やられちゃったんですよ。あ、ちょうど岩上さんが入ったあとだったからか」
「一体誰が捕まったんです?」
「小泉さんとレクです」
「えーっ!」
性格の腐ったタイ人のレクはどうでもいいとして、小泉には同情をしてしまう。
以前オーナーだった金子は、小泉の名義料の貯金を使い込んでしまい、その代わりに彼へ店の権利を譲り渡した。
その手引きをしたのは北中。
あいつはそのあと小泉名義のフィールドをうまく食い物にしたのだ。
そして今回、警察に捕まってしまった。
あまりについていない。
「あの店、常に入口は鍵掛かっているじゃないですか。で、地下にいた北中さんのところに警察が来たらしいんですよ。『上のゲーム屋のオーナーはおまえだろ』と言われ、北中さんは『違うだよ』って言い逃れして。『じゃあ、おまえが上に行ってドアを開けさせろ』って言われ、その通りにしたようです」
「要するに自分がピンチだったから店のみんなを売ったと?」
「ええ、あの人、いつだって自分の事だけじゃないですか」
北中のようなクズが生息しているから、歌舞伎町がおかしくなる。
数ヶ月前、俺もこのビルにいた。
辞めた時の事は未だ鮮明に記憶している。
「おっと動くなよ」
大柄の男がビデオ屋メロンに来て、警察手帳を出した時を思い出す。
これまで警察に捕まった事がない俺は、目の前が真っ暗になった。
春美へ捧げようと出場を決意したピアノ発表会の二日前の出来事だった。
「刑事さん…。俺、本当に何も知りません。捕まえたいならどうぞ。但し、これ以上叩いたって何も出てきませんよ。それでいいならどうぞ、手錠を掛けて下さい……」
どうせ捕まるなら格好良く捕まってやろうじゃねえの。
見苦しい真似なんぞ、したくなかった俺。
「今までたくさんのこういう稼業見てきたけど、ここまで酷いところは初めてだぞ?」
「え?」
「おまえみたいな奴が、何でこんなところにいるんだ?」
不思議そうに聞いてきた刑事。
「だから言ったじゃないですか。昨日入ったばかりだって……」
「そんな嘘はいい! 何でおまえみたいな奴が、こんなところで働いている?」
おそらく俺は運がいいのだろう。
あの時春美へプレゼントしようと思った処女作の『新宿クレッシェンド』を印刷して本と持っていたから、小説を書く為にと言い訳ができた。
「刑事さん…。この小説、俺が書いたものなんですよ。あくまでも内容は作り物ですが、この街のリアルさは追求しているつもりです。でももっと色々知りたかった。だから昨日からこうしてちょっとだけ働いてみようかなと……」
「おまえは馬鹿か?」
「ええ、大馬鹿です。よくそう言われます」
「そのピアノは何だ?」
「あ、これですか? はは、実は明日ピアノ発表会でしてね…。捕まっちゃうから、出場できなくなっちゃいますけど……」
「おまえ、何者なんだ?」
「俺ですか? さっきから言ってるじゃないですか。昨日ここへ入ったばかりの新人だって……」
それに発表会前という事も手伝い、店にキーボードを持ち込んでいた事もプラスに作用したっけな。
あの時ばかりは本当に終わりだって腹を括ったつもりだった。
目を閉じ、静かに両腕を差し出した俺。
いつになっても掛からない手錠。
「あれ、どうしたんです? 刑事さん」
「俺たちは何も見てない」
「は?」
「これは独り言だ」
「……」
「こんなところでおまえは働くな。今日で辞めろ。分かったな?」
「それって全然独り言じゃないじゃないですか」
俺は大笑いしていた。心の底から笑った。
「うるせー、本当にしょっぴくぞ?」
「刑事さん、ありがとうございます。俺、本当に今日限りでここ、辞めますよ……」
「うるさい。懐くな!」
刑事はそのままメロンを出て行った。
結局今回で捕まっちゃったけど、本当に俺って運がいいと思う。
ただ、それまで…、警察が来ても俺は北中をかばおうと身を挺していたのだ。
警察が店に来た事を伝えようと「北中さん……。今、刑事が来ましたよ……」と電話をすると、奴は「うるせー、今忙しいんだ!」と麻雀をしながら電話を切りやがった。
完全にこれで頭に来た俺は、再度電話を掛け今までの怒りを爆発させたっけ。
「何だ、おまえは?」
「おい、ふざけんじゃねえぞ?」
「……」
「どれだけこっちが体を張ったと思っていやがるんだ?」
「おまえ…、誰に口を利いてるつもりだ?」
「北中! テメーにだよっ!」
「どういう目に遭うか、分かってんのか、小僧!」
「やれるもんならやってみろよ、コラッ!」
「おい、俺はだな…、真庭組だろ? 橘川一家だろ? 西台……」
「うるせーよ! ヤクザが何だってんだよ? おまえ、喧嘩強いんだろ? 今出てきて俺とキッチリタイマンしろや!」
啖呵を切って自分を貫いた。
それだけ許せなかったのだ。
「おい、本当におまえの命なくなるぞ?」
「何だ? ヤクザ者でも動かそうってのかよ?」
「どれだけ俺がヤクザに顔が利くと思ってんだよ。命がねえぞ!」
「知らねえよ、んなもん。やれるもんならやってみいや、ボケッ!」
勢いだけの俺。
本当に来るなら逃げずに構えるしかない。
死を覚悟した。
しかし結果だけ見れば、奇跡的に俺は助かった。
一度ヤクザ者に俺を消せと号令を出した北中だが、誰一人動かなかったのだ。
だからこそ、こうして堂々とこの街を歩いている。
「おい、何を偉そうに歩いているだよ」
そう俺の目の前で睨みを利かしてきた北中。
あの野郎、自分が助かりたい一心で仲間を警察に売ったくせに、よくもあんな偉そうにしてやがったな。
金に困った従業員からさえ、利子を掠め取る男。
どれだけの人間が、北中のせいで傷つき騙されてきたんだ。
もう…、あいつの存在など、この街から消してしまえ……。
「伊田さん」
「はい、何でしょう?」
「ちょっと電話するんで、席外してもらえますか……」
「あら、彼女さんですか? それなら別に私は気に……」
「伊田さんっ! 悪いけど、席外して下さい」
彼のジョークを聞いている余裕などなかった。
「あ、はい……」
伊田が消えると、俺は担当の刑事だった出口へ連絡を入れる。
そして北中の組織全体の情報をすべて教えた。
これで警察がどう動くかまでは分からないが、動いた時点で北中は終わりだ。
チクり…、密告行為が卑劣だともちろん分かっている。
それでもあの男は許せなかった。
不思議と自分のした行為に、まったく罪悪感など覚えない。
街を歩いていて妙に悶々としてしまう俺。
罪悪感を覚えない?
いや…、北中以外の人間には覚えているじゃないか……。
俺のした行動は、倉庫にいる野地まで売った行為になる。
北中に対する私怨。
その感情だけが先走り、野地の事まで考えもしなかった。
メロンに刑事が来た時、野地は俺を見捨てて電話を切り逃げた。
だがあの状況では誰だって仕方がない。
出口刑事へ連絡する前に何故、俺は野地を逃がす事を思いつかなかった?
いや、まだ遅くない。
野地だけ救えればいい。
やられるのは北中のみで充分だ。
俺は野路の住む倉庫へ電話を掛けてみる。
裏ビデオ屋メロン…、元々は野路の店だった。
その当時彼はかなりの金を持っていて、さくら通りにも二軒目の店を出したほどだ。
経営のほとんどを従業員に任せ、自分は結婚した奥さんの国フィリピンへ、一ヶ月置きに行き遊んで暮らしていたと聞いた。
そこへ知人の紹介で入ってきた北中。
奴はオーナーである野路が留守なのをいい事に、店の乗っ取りを始める。
人のいい野路はフィリピンから帰ってくる度に金を補てんするようになり、気付けば無限にあったはずの金は目減りしていく。
ある日北中が話を持ち掛けてくる。
「野路さん、こうなったらさくら通りの店は畳んで、俺と野路さんの二人で店を切り盛りしよう」
ピンチになった野路は、これまでの平和ボケから簡単に北中の話を鵜呑みにしてしまう。
それからだった北中の横暴ぶりが始まったのは……。
給料は二人とも二十万円ずつと固定し、売り上げが良かったら歩合で分け合う。
そう言った北中。
しかしここ数年間で歩合があったのは初めの一ヶ月のみで、それからは一切ないらしい。
そんな状態でもフィリピンにいる奥さんへ毎月十万円の送金をしていた野路。
ゴキブリがうじゃうじゃと巣くうあの汚い倉庫の中で生活をし、ビールだって自由に飲めないような日々を五年以上も送ってきた。
「野路さん、悔しくないんすか? 北中さんにいいようにされて!」
あの話を聞いた俺がそう言うと、野路は下をうつむき、声を押し殺しながら泣いていた。
十歳以上年が離れた俺に、何故彼は自分の惨めな人生をあの時話した?
あの現状を詳しく知る者に、やるせなさを誰かに伝えておきたかったからじゃないのかよ。
あの時彼は俺に過去を話し、あまりの悔しさに泣いた。
先ほど連絡した警察。
このままでは本当に野路までが捕まってしまう……。
なら、あの北中の組織を辞めさせ、もっといい条件で彼を雇える組織を紹介する。
それしかない。
「はい……」
ようやく電話に出る野路。
「あ、野路さん! お久しぶりです、岩上です」
「おお、元気でやってるかい?」
「お陰さまで。野路さん…、今日はちょっと話が」
「何だい?」
「給料…、未だ二十万のままなんですよね?」
「ん…、ああ……」
「俺が最低でも月に五十万もらえる仕事を紹介します。だからすぐ辞めましょうよ、北中のところなんて」
「……」
「野路さん!」
「あ、あれは…、俺の店だ……」
そんなの俺が痛いほど分かっているよ。
でも、もう終わりなんだ。
この浄化作戦でいつ捕まってもおかしくない状況だし、それに俺はさっき警察へ連絡してしまった。
「でも…、もっといい生活をしましょうよ? フィリピンにいる奥さんの為にも…。そしてお子さんの為にも!」
「……」
「野路さんっ! 聞こえてますか?」
「行けないよ…。だってあの店は…、メロンは…、俺が作った店なんだ……」
痛いほどその気持ちは分かる。
でももう崩壊寸前じゃないか。
「そんなの分かってますよ! でも、北中にいいようにされちゃってるだけじゃないですか? どうやって昔のように流行らせるんですか? もう俺はいないんですよ? あいつのやり方だけじゃ、どう考えたって流行っこない。野路さん…、実を取りましょうよ。俺が協力しますから」
彼をパクらせたくない。
だから必死に心を込めて言った。
「……。ありがとう…、気持ちは本当に嬉しく思う。でもさ…、あの店は俺が作ったんだ」
「野路さん……」
これ以上いくら話しても無理か。
余計に彼を傷つけてしまうだけだろう。
「たまには顔を出しにおいでよ」
誰があんな臭くて不潔な部屋に遊びに行くんだよ。
まったく…、相変わらず人がいいんだから……。
「気が変わったら連絡下さい。待ってますから」
それだけ伝えると電話を切った。
あの日から数週間後、北中の組織に警察が入り、守銭奴の姿を歌舞伎町で見る事はなくなった。
そして実刑一年六ヶ月、執行猶予三年になったと風の噂で聞いた。
自分の恨みを晴らす為に、俺はあの野路までパクらせてしまったのだ。
言いようのない虚無感が全身を覆う。
だけどいくら後悔しても、もう遅い。
こうして俺はまた一つ、業を背負う。
出てきたら、まずは彼に大好きなビールをたらふくご馳走しないと……。
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