2024/09/30
前回の章
ドビュッシー作曲月の光も、完成まであと僅かである。
俺は再び歌舞伎町へ仕事に行く時もキーボードを持参し、裏ビデオ屋メロンで客のいない時は曲を弾く。
物騒なヤクザビルの地下から奏でる月の光。
外を通る人々は、奇妙に思っているだろう。
数名の階段を駆け降りる音が聞こえた。
客にしては変だ。
入口をボーっと眺めていると、十数人のヤクザ者がいきなり店内に入ってきた。
俺は演奏を止め、立ち上がる。
一体何の騒ぎだ?
尋常ではない。
客がいない状態でよかった。
こんな状況を目の当たりにしたら、ビビッてこの店には一生来なくなるだろう。
ヤクザ者は店内をキョロキョロ見回してから、俺しかいないのを分かると口を開いた。
「おい、ここのケツモチどこだ?」
パンチ頭の目つきの悪い若僧が、粋がりながら凄んでくる。
「はあ?」
俺が惚けた様子でワザと答えると。
いきなりテーブルを蹴飛ばすヤクザ者。
大人数でいるからって何を思い違いしているのか?
ゲーム屋時代、組を破門になり行き場のなくなったヤクザがよくこのような手口で店に入り、従業員を脅かして金をせびるやり方は色々見てきた。
しかし今回目の前にいる人数はどう見ても十五名はいる。
訳が分からなかった。
「ここのケツモチどこだって聞いてんだよ、コラ」
顔面神経痛に掛かったような面で俺を睨むヤクザ。
迫力も何もない。
こいつ一人なら、半殺しにしていただろう。
それにしてもここのケツモチか。
弱った。
北中がいつも話をはぐらかすから、俺は本当に何組がケツモチなのかを正確に知らない。
「う~ん、どこなんでしょうね。その前にこういう事されると、思いきり店の営業妨害なんですけどね」
「舐めてんじゃねえぞ、コラ!」
再度テーブルを蹴っ飛ばす若僧。
もし俺のキーボードに少しでも触れたら、覚悟しておけよ。
俺は堂々と相手の目を見ながら静かに言った。
「昨日入ったばかりなんで、分かりませんね」
「ふざけてんじゃねえぞ、おい? 俺はどこがケツモチなんだって聞いてんだよ?」
一生懸命粋がっているが、こいつ、喧嘩弱そうだな。
「だから本当に知りませんって」
「おい、兄ちゃん。筋者舐めてんじゃねえの?」
「別に舐めちゃいませんよ。あとで社長に聞いておくんで、連絡先の名刺もらえますか? 責任持って、俺が電話しますから」
「この野郎……」
どんなに凄まれてもしょうがない。
だって本当に知らないんだから。
パンチ頭の若僧が先頭で俺を睨み、その後ろで十名以上のヤクザが一斉に俺を見ている。
嫌だなあ、こういうのは……。
ヤクザ者に喧嘩など売るつもりはない。
だからといって変に媚など売りたくもなかった。
このような傍若無人な振る舞い。
あまりしつこいようなら俺も、ある程度の覚悟を決めねばなるまい。
「名刺…。とりあえず名刺をもらえまますか? 別に喧嘩を売ってる訳じゃありません。本当に昨日入ったばかりで何も知らないんですわ」
「オメーよ?」
「もういい。駄目だ、これ以上言ったって」
後ろから四十代ぐらいの貫禄ある男が前に出る。
「おう、兄ちゃん。名刺置いてくわ。ちゃんと連絡せいよ」
「分かりました」
俺が名刺を受け取ると、ヤクザ者たちはズラズラと店を出て階段を登っていく。
組の名前を見ると、『○○興業』と大きな字で書いてあり、電話番号まで乗っていた。
ヤクザの名刺って金を掛けてんだなあと、妙なところで感心する。
あのパンチ頭の若僧。
道端で会ったら後ろから急襲してとっちめといてやろう。
先ほどの騒ぎを聞きつけたのか、ちょっとして○○連合の組長である岡村がやってきた。
「何かあったんかいな? 妙に騒々しいなあ思うて窓から道路見たら、○○興業の奴らがドヤドヤとビルから出てきたからどないしたんやと思うてな」
「何だかここのケツモチはとか、妙に興奮してましたね」
俺はそう言いながら〇〇興業の名刺を岡村へ見せる。
「確か北中はんのところは○○一家やろ。あの人、そんな事も言うてへんのか?」
「ええ、困りますよね」
ひと言北中が俺にちゃんと言っておけば、あんな目に遭わずに済んだはず。
俺は北中の顔を想像し、思いきり殴りつけてやりたかった。
「それにしても岩上はん。あんた見事なもんや。全然ブルってないのう」
「まあ、そこそこ修羅場は潜ってますからね」
もっと辛い世界に俺はいた。全日本プロレスの合宿。
あそこは本当に地獄だった。
「うちの業界に本当来てほしいわ」
「勘弁して下さいよ。そんな甲斐性なんてありませんから。買いかぶり過ぎですって」
「いや、あの人数にビビららん奴なんて、なかなかいまへんや」
「いえいえ、本当怖かったですよ。でも、ここって橘川一家だったんですか」
「何ならワイが話をつけたろか?」
親分の気持ちだけで充分嬉しかった。
「いえ、自分で電話しますって言っちゃったんで、自分で言いますよ」
「ほれ、ええ根性しとるやんけ。ま、何かあったら気軽に声を掛けてや」
「すみません。気に掛けていただいて」
「な~に、岩上はんにはパソコンの事とか色々世話になってますからのう」
「大した事じゃありませんよ。逆にこっちがいつもお世話になってますから」
「あ、そうや。岩上はん、腹減ってへんか? 昨日ゲームでえろう勝ってな。岩上はんに昼飯奢ったるわ」
「そんな、申し訳ないですよ」
懐の深い親分だなとつくづく感心する。
北中は今まで一度だって奢ってくれた事もない。
逆に俺が何か差し入れをしているぐらいだ。
「ええからええから、食っとき。そや、かど平のそば食おうや」
「分かりました。いただきます」
岡村は出前を二人前頼み、俺の分までご馳走してくれると言う。
そういえばかど平といえば、あの小柄な出前のオヤジが来るのだろうか?
以前山本が面白がって楽しんでいたが、ここしばらく頼んでいない。
他愛ない世間話をしながら、俺と岡村はそばの出前を待つ。
何でこんないい人がヤクザになったんだろうな。
不思議でしょうがなかった。
足音が聞こえ、かど平の小柄なオヤジがやってくる。
オヤジは俺の横にいるのがヤクザの組長だと知らずにそばを置くと、「これから歌舞伎町は荒れるぜ~。何たってヤクザ者同士の抗争が始まりそうだからなあ」と訳の分からない事を言っていた。
出前の仕事が終わったんだから、さっさと帰ればいいものを……。
「へえ、どこの組か分かるの、オヤジさん」
岡村も悪乗りして笑いながら質問をしていた。
オヤジは神妙な顔つきになり、「そうだなあ、〇〇と沖田。あそこは一発触発だな」と腕を組みながら偉そうに話し出した。
目の前にいる男が〇〇連合の組長だと知ったら、おそらく腰を抜かすだろうな。
それにこのビル内のある組二つがどうして一発触発なのだろうか。
俺は吹き出しそうになるのを必死に堪える。
ひと通り喋り終えると、オヤジはメロンにある缶コーヒーの入った透明の冷蔵庫をジッと眺めだした。
「おっ! ここのコーヒーって本当うまそうだな~」
「え?」
「いや、ここのコーヒーはうまそうだ」
素直に欲しいって言えばいいのに……。
「おじさん、いいよ。持っていきなよ。まだ外も暑いし喉も渇くでしょ?」
「おお、悪いね~」
そういうとオヤジは両手に缶コーヒーを一つずつ持ち、急いでポケットへしまう。
油断も隙もないオヤジである。
かど平のオヤジが店を出て行くと、俺と岡村は腹を抱えて大笑いした。
ずっと嫌々仕事をしていたように思えるが、気がつけば俺はこのビルの住人たちと妙に馴染んでいた。
居心地の良ささえ感じる俺。
本当にこのままでいいのだろうか?
時間だけは過ぎていき、ピアノ発表会の時期が刻々と近づく。
あれからまだ春美からの連絡はない。
果たして本当に来てくれるのか?
発表会はある意味、俺の春美へ対する想いの集大成の場でもある。
裏稼業でしか自分を活かせない俺。
当初はそんな自分に恥ずかしさをずっと感じていた。
だから自分の仕事を偽り、絵を描き、ピアノを弾いてきた。
挙句の果てには小説まで書いてしまった。
春美への想い。
これだけは本当である。
すべて彼女へ格好つけたいが為にやり始めた事なのだ。
発表会へ来てくれよな……。
祈る気持ちでいっぱいだった。
毎朝少し早起きして、くっきぃずで月の光を一時間だけ習い、新宿へ向かう日々。
休みの日はずっとキーボードを弾いた。
何度も春美へメールしようと思った。
その度、野暮な真似はよそうと歯止めを掛ける。
やるだけやった。
その点だけは自信を持って言えたからだ。
今は月の光を完成させる事だけに、意識を集中させればいい。
今日もレッスンを終え、急いで歌舞伎町へと出勤する。
西武新宿駅へ到着すると、走ってメロンまで向かった。
「ん、何だ?」
いつもなら薄暗い階段に明かりがついている。
こんな時間から北中が、店に来ているのか?
いや、それはありえないだろう。
俺はゆっくり足音を立てないように階段を降りていく。
メロンのドアは開いており、明かりが見える。誰かがいる気配も感じた。
覗き見るように中を伺う。すると奥の椅子に座る北中の姿が見えた。
随分と早い出勤だな……。
「おはようございます」
店内へ入ると、北中以外にフィールドの店長の小泉と、そこのオーナーである金子の姿が見えた。
嫌な予感がした。
とうとう来るべき時がきたのだ。
考えられるのは一つ。
小泉の名義料を金子が使い込んでしまった件だろう。
俺に構わず北中は口を開く。
「で、金子さんよ。どうするつもりだよ?」
「……」
「小泉は先日俺とフィリピン行って、向こうで女を作っただよ。それまで溜めていた貯金も使い果たし、あの名義料しかないんだ」
「え、ええ……」
金子の様子で、使い込みしたという事実が完全に分かる。
頼むから、こんな重い話を朝からメロンでやらないでくれ。
そう祈りたいが、もう遅い。
そばで小泉はずっと下をうつむいたまま、終始無言である。
「金子さん、もうこうなったら方法は一つしかないだよ。小泉にそのまま店を譲る。まあ俺も下にいるから今まで通り面倒は見るから心配ないだよ」
本当にこの北中はとんでもない事を平気で抜かす。
小泉に対してならまだ分かる。
自分の金を使われてしまったのだから。
しかし北中は何なのだ?
何一つ被害に遭っちゃいない。
それどころか散々メロンを食い物にしてきたくせに……。
本来の持ち主である金子を押し出し、一緒にフィリピンへ連れて行き、手なずけた小泉を店のオーナーにしてしまう。
これまで以上に好き勝手ができるはずだ。
この分でいくとメロンを乗っ取られた野路同様、金子もフィールドを乗っ取られる。
しかも店のオーナーという事は、家賃やその他諸々の経費などは小泉持ち。
捕まった時の責任も小泉。
北中はうまい汁を啜るだけ……。
しばらく金子は目を閉じ、何かを考えているようだったが、確かに答えは一つしかない。
「分かりました。良平にフィールドを譲ります……」
金子は深々と頭を下げ、メロンを出て行った。
北中からすべてを毟られた男の後ろ姿。
哀れにしか見えなかった。
名義上は小泉の店となった一階にあるゲーム屋フィールド。
実質、北中がより自分のやりやすいようになっただけに過ぎない。
再び小泉は北中へ連れられて、今度はフィリピンでなくタイへと旅行へ行った。
女で骨抜きにするつもりなのだろう。
しかも北中が金を出す訳ではない。
もちろん自分の分は、自分で金を出す。
裏稼業の世界にいた割には真面目に生きてきた小泉。
女に溺れ、借金にまで手を出す始末になる。
北中は俺に店を任せ、頻繁に女を買いに海外へ行くようになっていた。
ピアノ発表会の近い俺にとって、休みがなくなる事は非常に辛い。
でも、そんな事お構いなしに北中は、傍若無人さを発揮している。
フィールドの早番の山本がワザワザ下へ降りてきて、愚痴をこぼしに来た。
「岩上さん…。北中さん、以前より酷くなりましたよ」
「今度はどうしたんです?」
「喫茶店のルノアールあるじゃないですか?」
「ええ」
「あそこでコーヒー飲んで領収書をもらい、たかだか数百円なのに自分でゼロを一つ余分に書き加えているんですよ」
「そんな事をして、何になるんですか?」
「その数千円にした領収書を持って、『これ、経費だ。早く金よこすだよ』って店から金を持っていく始末です」
「小泉さんは何て?」
「あの人、完全に女に骨抜きされていますからね。定期的に連れて行ってくれる北中さんには頭が上がらないし、何も言えないんですよ。あの人、サラ金で百万ぐらい手を出しているみたいですよ」
ちょうどその時階段を降りてくる足音が聞こえた。
北中だった。
「山本、おまえ仕事中なのに何をしてるだよ?」
「いえ、あの…、失礼します……」
逃げるように去っていく山本。
北中は機嫌悪そうに椅子へ腰掛けた。
「あいつ、おまえに何を話していただよ?」
「いえ、友人の愚痴を言いに……」
「嘘をつくな! 何となく俺には分かるだよ」
普段いい加減なくせに、こういう時だけ鋭いんだよな……。
「いや、実は…。山本さん、今月金がピンチなようでして、金を貸してもらえないかって相談に……」
山本には申し訳なかったが、適当に信憑性あるような理由をでっち上げておく。
金と女の事にしか興味のない男だ。
こう言えば納得すると思ったのだ。
「馬鹿な奴だ。金なら俺が貸してやるのになあ」
おまえから借りたら例え従業員だったとしても、月に一割の利息を取るだろうが。
この店メロンを野路から乗っ取ったように、フィールドも乗っ取るつもりの北中。
当初山本が言っていた台詞、「北中さん、金に関しては悪魔ですから」。
その事がこの数ヶ月で嫌というほど理解できた。
仕事終わりの時間になり、北中は『デズラ』を渡す前に、俺に質問をしてきた。
「おい、岩上。お金ってのはどうやったら貯まるか分かるか?」
「使わない事じゃないでしょうかね」
「馬鹿野郎。だからおまえは駄目なんだ」
ふざけやがって、誰がこの店の売り上げを数倍にも増やしてやったと思ってんだ。
この男には感謝という心がまったくない。
「どうやったら金が貯まるか、教えてやるだよ」
「いや、結構です」
「いいから聞くだよ」
これだけ自分本位に生きられたら幸せだろうな。
いや、それは違う。
こんな小悪党を野放しにしておくのはいけない。
「いいか? 金ってのはなあ、奇麗な札は使っちゃいけねえんだ」
バックから、新品の三百万の札束をあえてテーブルの上に置く。
何度も嫌ってほど見てきているよと言いたかった。
「で、汚い金な。それは使ってもいい金だよ」
そう言いながら、北中は売り上げの中から金を吟味し始める。
二十万円の中から破れたり薄汚れたりした札を五枚ほど抜き出し、さらに何度も隅まで見返す。
「そうすればな、金ってのは必然的に溜まっていくもんだ」
北中は一番薄汚れ、しかも真ん中に切れ目がありセロテープで貼りつけてある一万円札を手渡してくる。
「……」
この野郎……。
そんなくだらない事を抜かしながら、俺には一番汚い札をよこすなんて、本当に舐めていやがる。
ここまで屈辱を実感させてくれる奴など、そうはいない。
「もう帰っていいぞ」
「お疲れさまです……」
こんな男に雇われているという現実が、非常に悔しかった。
発表会まであと三日……。
休みの日、俺は月の光を何度も繰り返し弾いた。
すべて暗記なので、途中で何度か音を失敗する。
悔しかった。
これだけ時間もかけ、頑張っているのに何故完璧に弾けないのだ。
自分自身に腹が立つ。
実際のドビュッシーの演奏の寂びの部分は、どの演奏者も軽く淡々と弾いていた。
俺はこの部分に対して、少し違うんじゃないかと思っている。
寂びの部分だからこそ、もっと力強く気持ちを込めて弾いてもいいのではないか。
自分の発表会だ。
自由に思うまま弾いてこよう。
もう、ここまでやれるだけの事はした。
あとは明日に備えて、ゆっくり睡眠をとっておく事にしよう。
あと二回メロンに出勤して、発表会へ臨む俺。
集中力を継続させる為、強引に休んでおけばよかった。
新宿へ行きながらそんな後悔を覚える。
まあ何でもいいや。
どちらにせよ、発表会まであと二日しかないんだ……。
裏ビデオ屋メロンへ到着する。
テーブルの上には吸い終わったタバコが山のように積み重ねられていた。
北中の野郎。
本当にあいつは掃除をするという概念がまるでない。
全部他の人間が勝手にやってくれると思っているのだ。
一体、何様のつもりなのだろう。
今まで出会ってきた人間の中で一番嫌いなタイプの人間だった。
金に対する貪欲過ぎる執着心。
人間を雇うでなく、飼うといった表現がこれほど似合う男も珍しい。
善意で何かをしても当たり前と思うだけで、何一つ感謝というものがない。
それでいてヤクザ者などが文句を言えないよう媚を売るのだけはうまい。
自分の利益になる事なら、どんな人間も利用する。
他人がどんな不幸になろうが、自分さえよければいい男。
この店を乗っ取られ、仕方なく毎日を生きる倉庫の野路。
「悔しくないんですか?」と俺が言っただけで彼は静かに泣いていた。
あんな生活を自ら望んでしている人間なんて、誰もいやしない。
北中と出会ったばかりに、あのような目に遭ってしまっているだけなのだ。
許せないが、今の俺ではどうする事もできなかった。
毎日こんな歯痒さと戦っている。
俺はキーボードをテーブルの上に乗せ、電源を入れる。
ザナルカンドをゆっくり弾きだした。
このやるせない現状を抜け出したい。
音を奏でる事で忘れたかった。
昼の三時ぐらいになって北中がやってくる。
「またおまえはキーボードを持ってきてるのか?」
「もうじきピアノの発表会がありますからね」
俺がそう言うと、北中は鼻で笑いながら呆れた表情を見せる。
「まあ、別におまえの趣味だから、どうこう言うつもりはないが」
あきらかに小馬鹿にされている。
そう感じると腹が立ってきた。
「俺はこれから麻雀に行くから、あとは頼むだよ」
「分かりました。野路さんの休憩は?」
「たまにはいいだよ。毎回毎回じゃつけ上がる」
何て言い草だろうか。
だがこいつに何を言ったところで、何の意味もないか……。
北中が店を出ると、俺は再びキーボードを弾き始めた。
ピアノはやればやっただけ、音色が証明してくれる。
あんな男に理解してもらおうと始めた訳じゃない。
春美にさえ伝われば、俺はそれで満足だ。
しばらくして客が二人入ってきた。
妙に体格のいい客だった。
「ん?」
どうも変だ。
店にある裏ビデオのファイルを見る訳でもなく、色々な場所をチェックするかのように見回っている。
「あの…、何か用でしょうか?」
客はいきなり警察手帳を取り出した。
目の前が一瞬真っ暗になった。
ふざけんじゃねえ……。
あと二日で俺はピアノ発表会なんだぞ……。
こんなところで捕まりたくない。
「おっと動くなよ」
刑事二人組はそう言ってニヤリと笑った。
こんなところで働く自分を悔やんだ。
何故俺はあんな男の下で、いつまでもこうして働いていたのだろうか?
いくら悔やんでも悔やみきれない。
暴れて逃げるか?
いや、さすがに無理だ。
テーブルの上には俺のパソコンとキーボードがある。
これを置いていけと言うのか?
それにパソコンの中身を調べられたら、一発で俺の身元など割れてしまう。
「店に物は置いてないのか?」
「……」
「とっとと話せ! すぐに署へ持ってくぞ?」
威嚇するように刑事は怒鳴りつけてくる。
「置いてありません……」
「倉庫から運びタイプの店か。倉庫はどこだ? 言え」
「き、昨日入ったばかりなので俺は何とも分かりません」
俺はいきなり胸倉をつかまれた。
「昨日入ったばかりだ? おまえ、警察をおちょくってんのか?」
ヤクザと警察の対応は本当に似ている。
「おちょくってなんかいませんよ。昨日入ったばかりで、俺は何も分かりません」
「チッ、このガキが!」
俺を尋問していた刑事が手を離す。
もう一人の刑事はコードレス電話の子機を調べていた。
マズい……。
中に『ソウコ』と書かれた番号がある……。
俺は以前からこの事を北中に散々忠告してきた。
「北中さん、この『ソウコ』って入れるのやめときましょうよ?」
「何でだよ」
「まんまじゃないですか? 警察来た時どう弁解するんですか?」
「別の名前じゃ、俺が分からないだよ」
そう言ってまったく取り合ってくれなかった北中。
だからこういう時を想定して言ってきたのに……。
「おい、この『ソウコ』って何だ?」
「知りません」
「ふざけんじゃねえ! おまえ、ここに電話をしろ」
「するのは構いませんが、俺、場所とかまったく知りませんよ?」
「いいからしろ!」
「はいはい…、分かりましたよ」
仕方なく野路のいる倉庫へ電話を掛けた。
遠回しでいい。
名義人を呼んでもらわないと。
このままじゃ、俺は捕まっちまう……。
「はい」
野路が出る。
「あ、すみません。メロンの岩上です」
「そんなの分かってるよ。注文? DVD? ビデオ?」
馬鹿!
そばで刑事が聞き耳を立てているっていうのに……。
「あのですね! 今、お店に警察の方々がいらしてましてね……」
俺は大きな声で分からせるように言った。
「……」
野路は無言になる。
「それでですね、社長の浦安さん、呼んでもらえませんか?」
「何を言ってんだよ? 浦安はとっくに飛んだじゃねえか」
やっぱり……。
北中のクソ野郎。
何が名義人だ。
こんな事だろうと思ってはいたが……。
「だ・か・ら~! 社長に連絡をつけて下さいよ!」
遠回しに北中へ連絡をして、何とかしろと伝えているつもりだった。
「知らないよ。あいつはとっくに辞めたじゃねえか」
「だ・か・ら~! 社長にって何度も言ってんでしょうがっ! 連絡して下さいよ!」
早く北中へ連絡しろって……。
無性にイライラしていた。
俺はこんな状況なのに、北中をかばっているのだ。
「知らないよ! 俺、携帯の番号なんて知らないって!」
ガチャン……、ツー…、ツー……。
信じられない。
野路の奴、電話を切りやがった……。
俺は子機を地面に叩きつけ、観念する事にした。
本当についていない。
発表会が目前だというのに……。
自分で呼んでおいて、パクられるからドタキャンだよな……。
悲しそうな春美の横顔を思い浮かべた。
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