裏シャーロック・ホームズ その11

「ホームズ、お客さんだよ」わたしは言いながらドアに近づいた。「おい、ホームズ！」
　ホームズはわたしに背を向けたままだった。様々な化学の実験道具の並んだテーブルの前から動かない。
　ホームズは「当分は依頼は断る」と宣言し、最近思いついたと言う薬品の開発に着手しているのだ。それからのホームズは、髭も剃らず、着替えもせずに、文字通り寝食を忘れて没頭しているのだ。
　わたしは「ホームズは病気で伏せっている」と言い訳を繰り返した。確かにこのようなホームズは他人に披露できる姿ではない。
「ホームズ！」ドアが何度もノックされた。しかし、ホームズには聞こえていないようだ。「・・・仕様がないな、全く！」
　わたしはドアを開けた。品の良さそうな初老の紳士が微笑みながら立っていた。
「お越しいただいたのですが・・・」わたしはここのところ言い続けている科白を口にした。「ホームズは病気で伏せっているんですよ」
　その時室内から歓声が上がった。わたしは驚いて振り返ると、ホームズが一枚のメモ用紙を持って小躍りしていた。
「ワトソン、ワトソン、完成だ、完成だよ！」ホームズは言いながら、わたしの肩を何度も叩いた。「いやあ、実に気分が爽快だよ！　・・・おや、お客さんかい？」
「ああ、そうだよ・・・」
　ホームズの豹変振りに呆れながらも、わたしは言った。紳士も驚いた顔をしている。
「そうか、まあ、入ってもらおう。何しろ、画期的な薬ができたものだからね」
　わたしは紳士を招じ入れ、来客用の椅子を勧めた。紳士は礼を述べながら座った。それから、紳士はわたしに名刺を渡した。
「・・・で、どんなお話でしょう？　お見かけしたところ、事件ではなさそうですね」
「よくお解かりで。さすがホームズさんですな」紳士は満足そうに言った。「実は、人格に関して犯罪心理学にも詳しいホームズさんのご意見を伺いたいと思いまして・・・」
「人格と犯罪に関しての話ですか？」
「そんなところです」
「では、これをご覧になってください。ちょっとした思いつきで始めたんですが、お役に立つかもしれませんよ」ホームズはメモ用紙を紳士に渡した。「薬の調合をメモしたものですが、薬学にも詳しいあなたなら、このすごさがお解かりでしょう」
　紳士は驚いたようにホームズを見た。どんな時でもホームズはホームズだ。
　ホームズはメモ用紙を紳士に渡した。紳士は受け取るとじっと見入った。
「ホームズ、ちょっと話がある」
　わたしはホームズを部屋の隅に引っ張った。面倒くさそうにホームズは従った。わたし達は客に背を向けて立った。
「おい、ホームズ・・・」わたしは声をひそめながら言った。「せっかくの発見を、見知らぬ他人に見せても良いのかい？」
「ワトソン・・・」ホームズは出来の悪い子供をいさめる様な口調で言った。「説明するまでもないが、この紳士は優秀な医者で、法学も修めている。メモの理解に関しては、君なんか足元にも及ばないだろう」
「またいつもの観察と洞察か！」わたしは気色ばんだ。「それに、わたしにだってメモを見れば理解できるさ！」
　ホームズがわたしをからかおうと口を開いた時、突然ドアが激しい音を立てた。振り返った時には客は居らず、階段を駆け下りる靴音がしていた。
「何て客だ！　何も言わずに立ち去るなんて！」
「メモはあの紳士の役に立ったんだろうよ、ワトソン」
「でも、メモを持って行ったんだぞ！」
「メモは僕の頭に入っているから心配はないさ」ホームズは気楽な様子だ。「ま、薬は完成した。僕はそれで満足だ。これからあの紳士がメモを基に薬を作ろうが、それを試そうが、構わないさ」
「で、何の薬を作ったんだい？」
「人格の二面性を表出させる作用がある薬だ」
「大変な薬だなあ！」わたしは呆れてしまった。「犯罪者に使えば善人の面が現れるってわけか」
「そうだよ、ワトソン。使い続ければいずれ、善人になるだろう。犯罪抑制になる画期的な薬だよ」
「だが、もし・・・」わたしはメモを持って去って行った紳士の善良そうで品の良い顔を思い浮かべた。「善人が使えば・・・」
「悪人になってしまうだろうな・・・」
　ホームズはドアを見ながらつぶやいた。わたしは紳士から渡された名刺を見た。そこにはこうあった。

「医学博士　法学博士　ヘンリー・ジキル」





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