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邪魔な木

2024-05-14 16:46:08 | Weblog
少し寝たが施設の用事が済んでおらず
どうにも気になる


「百合の木」が届いた
強くて成長が早い品種

百合の木が生長する様を想像しながら
畑のレイアウトについて母親と話をしているとき
叔母が植えて育った小さな渋柿の木について
母親は「邪魔だから切れ」とまた私に言った。



その渋柿は叔母が黒柿の木の根元から出てきた芽を
取ってきて植えた物
叔母は黒柿がただで手に入ると思って芽を取ってきて
植えたのだろう。実に浅ましい考えだが
とにかくそれは台木であり
何十年も育ったあげく小さな実が生る渋柿になり
誰からも疎まれる木になった。

私はその木を見るたびに叔母の浅ましさを思い出し
他にも同じ理由で植えられた木の姿が浮かぶ。
だが理由はどうであれ、今ここで元気に育っている木を
何十年も切らずに観てきた経緯がある。

「なんかの縁があって家に来た木だよなお前は」

そう語りかけながら切らずに居り
そして切らないことを苦にする母親に
何十回も「切れ」と言われている木だ。

母親の切れという言葉に「またか」とうんざりしながら
時間が許したのでその木について話をした。


「食べられる美味しい実が生らないからと言って
私はその木を切るつもりはない」
「何らかの縁があってこのうちに来た木だから
今まで切らずにその成長を見守ってきた」
「たとえみんなが切れと言っても、誰かが大切にしているなら
その木は生きる価値がある。現に私はこの木を見るたびに
叔母の愚かさを思い出すが、それ以上に十数年ここで
切らずに成長を観てきた私の気持ちが有る」

「木を見れば実にけなげじゃないか」
「あなたも私も社会から見れば枯れ木同然」
「他者に何も与える事が出来ず、生きていること自体
何の価値があるか解らない」
「でも生きていると言うことは活かされていることであり
そこには誰かの守りが有る。大切に想う誰かの想いがあるから
私やあなたも今こうして生きられているのではないのか?」

「私はあの渋柿に同じ思いを抱くことがある」
「私にとってあの柿は残っていることに価値を見いだせる
大切な象徴。美味しい実が実らないから、使っていない荒れた畑が
日陰になるからという取るに足らない理由で切られる謂れは無い」

同じ事を何度も言ってきたが
人間、たいしたことが無いと思っていることには
考えが変ることはない物だ。
また同じようなセリフを母親か私が死ぬまで
繰り返すのだろう。

誰が正しく、誰が間違っているという話ではない
私は私の想いを大切にしたいし
他者の想いも蔑ろにする訳でもない。
ただし他者の想いを汲んでいただける
温かい思いがあるなら、どうかその渋柿を
切るなんて言わないで欲しい。
その木を切ると言うことは、私の想いも切ってしまうことになる。

母親と私は性格も育ってきた環境も違う
他者の考えを受け入れることは難しいだろう。
でも一緒に暮らしていくということは
相手の気持ちを知らずして穏やかに過ごせるはずが無いと思う。

母親は一瞬私の気持ちを理解したかもしれない。
なにも反論しなかったから
でも取るに足らないこの会話は
取るに足らないからこそまた延々と繰り返される。

思えば母親もここに嫁いできて60年以上になる。
良き嫁であり良き母親であり続けた人生
良き何かを演じるために必死になってきた人生も
今は気にかける必要も無く自由に生きている。

母親は自分と渋柿を同じように観ることはしないだろう
だが何かの縁あってこの家に来て
誰かに必要とされて頑張ってきた
今はその誰かもいなくなってしまったが
それもできっと誰かの想いがあり今も生きている。

その誰かの想いを知るとき
母親は渋柿を切れと、私にはつらい一言を
言わなくなるのではないかと思う。

それも自分勝手な想像に過ぎないが
そう思いたい気持ちは
渋柿を死ぬまで見届けたい想いに少しだけ力をくれる。