草原の四季

椎名夕声の短歌ブログ

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再び永井祐

2020-10-09 21:20:42 | 和歌・短歌

だいぶ前に永井祐について書いた際、さらっとほめて終わりにしたが、もう少しほめて置こうと思う。

 

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる(永井祐)

 

一般的に歌会では披講から始めるが、それは正しいことだと思うので、ここでもそのようにしたい。ただし、ひとり歌会なので、上記記事でリンクした先から他人の披講も借用する。

 


このガキは日常的にほいほい携帯電話で写真を撮っており、電波を湯水のように使っているらしいが、そんな暮らしが永久に続くとでも思っているのか。そんなのは歴史上のほんの一瞬であり、電話代も事欠くような状況が今の若者の現実である。

 

以上が他人の披講です。「ガキ」という部分は地方によっては悪口になるようなのですが、「若者」という意味しか無いというのが日本人過半数の共通認識だと思うので原文のままとしました。
この披講当時は、まだ「写メール」が新しい言葉だったので、披講者は写真を撮影し、メールに添付して送信している状況を詠んだものと理解したようです。しかも、当時はメールを送信するつど料金がかかっていたので「電波を湯水のように」という理解となっております。
筆者(椎名)は、その披講に対して「メールは送信してないと思う。貧乏くさい状況を詠っており、共感は持てる」と言ったのですが、それは「地元」の語を親元と理解し、フリーターが食い詰めて親元に居候している状況と理解したからです。

 

地元の意味については、短歌研究2020年6月号に

(前部分略)僕の歌も、初めはすごく素材主義的に読まれました。いまの若者は地元で遊ぶんだみたいな(後略)

と永井本人が書いているので、自宅周辺という意味で詠んでいることが明らかになっております。

 

披講は以上のとおりです。
さて、僕は以前この歌を技術的に上手いとほめたのですが、そこをもう少し詳しく書いておきます。

初句は字余りで、しかも永井は「僕」を多用する歌人なので「僕は別に」と書けば無難ですが、社会人が大勢の人に語りかけるのは、やはり「わたし」がリアルですね。第4句の「たり」と相まってゆったりとした詠みっぷりになっていて良い。

技術的上手さをほめられるのが歌人にとって最も嬉しいはずなのに、発表から10年以上経つのにこの歌の上手さを語る文に接したことがなかったので書いた次第です。

最後に、この歌の本歌取りを1首。

 

わたしは別に猫派ではないがルイちゃんが尻尾ふるとき挨拶をする(椎名夕声。短歌人2020年8月号)

 

(翌日記)

披講という言葉の意味だが、辞書的には「声に出して披露すること」となっている。ただし、あくまでも聴衆にとって初めてとなる新作の場合のみ披講の語を用い、既に知られている作品を読み上げることは披講とは言わない。その場合は「吟ずる」と言う。

従って、披講の場合は聴衆に歌の意味が伝わるように、適切な抑揚、適切な区切りで行なうことが求められている。

上記本文に書いたのは解説を含んだ披露と言った方が正確であろう。

 

(2020年10月16日記)

説明しておいた方が良いかもしれない箇所に気付いた。

「貧乏臭い」と感じた理由だ。

まず、デジタルカメラじゃなく、カメラ付き携帯電話だから、ということは言わなくてもわかるだろう。画素数でもデジカメよりかなり劣っていて、ちゃんとした写真は撮れなかった。

次に、「暮らし」という語から勝手に想像したことだが、2008年頃には固定電話の月額基本料金1,500円が惜しいのでこれを解約し、携帯電話のみという人が増えて来た。電話番号を聞かれて携帯電話番号を伝えると、聞き直されるのがまだ普通で、肩身が狭い時代だった。

今わからなくなっている可能性があるのは、携帯電話端末価格だ。21世紀になったばかりの頃は高価だったが、2008年頃は急に安くなって5千円で買えるようになり、持っているのが普通という時代になった。

今は逆に少し高価になって、スマホにしちゃった方が安いくらいになってきた。しかし、スマホにすれば毎月かかる基本料金が若干高くなり、また電池の持ちが悪くなる。充電できる場所が少ない国では、電池の減りが早いのは致命的だが、日本においても災害時には重要となる。

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