家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(万葉集巻2No.142有間皇子の歌)
確か高校の古文の教科書に載っていた歌だと思う。
家にいればいつでも食器に盛って食べているが、旅先の道端での食事だから、椎の木の葉に盛って食べる、という旅情の歌かと、その頃は思っていた。
しかし、椎の葉は小さく不自然な感じはする。
時期は晩秋から初冬とのことだが、まさか食事の時間になってから葉をさがすのではなかろうから、紀伊半島の海沿いでもあり、枇杷の葉くらいは道の途中にあったはずだ。(もっとも、旅に出る際に持参するのが普通だろう)
ところが、これは謀反の罪で捕らえられ、死刑の地へ連行される際の歌らしい。謀反は未遂だったようだ。
短歌の文言から、そのような解釈をすることは不可能だが、違和感を感じるところに、作者の思いを想像する余地がある。
初句は「あらば」と読んで仮定条件の意味と理解する人もいるが、通説では「あれば」と読み、恒常的確定条件と理解している。
巻3No.415に「家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ」という歌があり、原文を見ると「家有者」という表記は上の歌と全く同じだが、こちらは仮定条件と読むことに異論は無い。
儂(ワシ)は今朝見ちまっただよ白鷺が鴉に追われ逃げまどうさま(椎名夕声)
これを見ちまったのは初夏だったから、おそらく子育て中の鴉が、白鷺を追い払ったに過ぎないだろう。
しかし、現場での実感としては、白鷺が食われようとしているように見えた。鴉の追跡が、あまりに執拗であり、白鷺は悲鳴をあげながら、右へ左へと逃げまどっていたからである。
僕は悲鳴のことも短歌に盛り込もうか、とも思ったがやめた。もう1首追加しようか、とも思ったが、それもやめた。
余白で想像してもらえばよいことだからである。
(その年の暮れに記す)
今月の記事では、叙景歌とされてきた持統天皇の歌への疑問を書いた。有間皇子の「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む」の歌の次に載っている第3者の歌「岩代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも」の万葉集全解の注では「有間は、実際には岩代を再度通過している」などと、わかったようなことを書いてあるが、学者というものはつくづく想像力が無いものだと思う。有間が2度め(復路)に通過した際には捕縛された状態である。自分が結んだ松の枝が生えている場所へ自由に移動できるはずがないではないか。
同じ本で、本文の「家にあれば」の歌についても、題詞として「有間皇子の自ら傷みて松が枝を結べる歌2首」について「本来は旅の歌」と注釈を加えているが、なぜ椎の葉なのかという点には曖昧な説明しか出来ていない。素直に読めば死刑囚だから粗末に扱われたということだろう。飯をもらえただけマシということだが、粗末に扱うことと意地悪することとは全く別だから、普通はメシくらいもらえるだろう。