前回の記事から、約1か月も経ってしまいました。
まったりゆったりと記事を書いていくというようなことを書きました。
ですが、ちょっと間隔が開き過ぎですね。
前置きは、このくらいにしておきます。
これ以上書くと言い訳になってしまいますので。
それで、前回の記事において、次のような意味のことを書きました。
「片足立ちでも、両足立ちと同じような感覚で立てるのが、本来の姿である」
片足でも両足でも違和感なく、自然と立てるのが、本来の正常な状態なのです。
恐らく、多くの方々は、片足と両足では、まるで感覚が違っていたと思われます。
つまり、こういう事なんですね。
通常、両足で立ったり歩いたりしています。
ですが・・・
「ちゃんと立てていなかった」
「ちゃんと歩けていなかった」
のです。
この「立つこと」または「歩くこと」について、様々な考え方があると思います。
一見、正しそうな事を言っていると思われる意見もあります。
ですが、「立つこと」または「歩くこと」は、誰かに教えられたりするものではないです。また、これが「正しい」とか「間違い」とか論じるものでもありません。
誰に教えられるのでもなく、立ったり歩いたりできるものなのです。
確かに、立てるようになるまでには、親のサポートなどが必要ですが。
「立つこと」または「歩くこと」そのものは、自然とできるようになるのです。
身体に任せていれば、身体が絶妙なバランスを取ってくれるのです。
その事の意味を、今一度、深く深く理解していく必要があると思っています。
誰も頭で考えて、立ったり歩いたりしているわけではないのです。
つまり、自分で考えているわけではないのです。
そして、この基本的な、もう本当に基本的な身体運動ができていないということ。
それが、自分自身の人生を複雑にして、不幸なものにしているのです。
「立つこと」または「歩くこと」
この基本中の基本の身体運動ができていない人が、人生の闊歩などできないのです。
この人生は、もう生きているだけで、大変な事だらけなのですから。
くどいようですが、もう一度、書きます。
「立つこと」または「歩くこと」
自分自身のちっぽけな頭や脳力で、立ったり歩いたりしないことです。
身体は、ちゃんと全て分かっています。
身体に任せていくのです。
これらのことを深く理解していく為にも、片足立ちの練習は、非常に大切です。
また、書きたいと思います。
2019年5月6日 よしのぶ
まったりゆったりと記事を書いていくというようなことを書きました。
ですが、ちょっと間隔が開き過ぎですね。
前置きは、このくらいにしておきます。
これ以上書くと言い訳になってしまいますので。
それで、前回の記事において、次のような意味のことを書きました。
「片足立ちでも、両足立ちと同じような感覚で立てるのが、本来の姿である」
片足でも両足でも違和感なく、自然と立てるのが、本来の正常な状態なのです。
恐らく、多くの方々は、片足と両足では、まるで感覚が違っていたと思われます。
つまり、こういう事なんですね。
通常、両足で立ったり歩いたりしています。
ですが・・・
「ちゃんと立てていなかった」
「ちゃんと歩けていなかった」
のです。
この「立つこと」または「歩くこと」について、様々な考え方があると思います。
一見、正しそうな事を言っていると思われる意見もあります。
ですが、「立つこと」または「歩くこと」は、誰かに教えられたりするものではないです。また、これが「正しい」とか「間違い」とか論じるものでもありません。
誰に教えられるのでもなく、立ったり歩いたりできるものなのです。
確かに、立てるようになるまでには、親のサポートなどが必要ですが。
「立つこと」または「歩くこと」そのものは、自然とできるようになるのです。
身体に任せていれば、身体が絶妙なバランスを取ってくれるのです。
その事の意味を、今一度、深く深く理解していく必要があると思っています。
誰も頭で考えて、立ったり歩いたりしているわけではないのです。
つまり、自分で考えているわけではないのです。
そして、この基本的な、もう本当に基本的な身体運動ができていないということ。
それが、自分自身の人生を複雑にして、不幸なものにしているのです。
「立つこと」または「歩くこと」
この基本中の基本の身体運動ができていない人が、人生の闊歩などできないのです。
この人生は、もう生きているだけで、大変な事だらけなのですから。
くどいようですが、もう一度、書きます。
「立つこと」または「歩くこと」
自分自身のちっぽけな頭や脳力で、立ったり歩いたりしないことです。
身体は、ちゃんと全て分かっています。
身体に任せていくのです。
これらのことを深く理解していく為にも、片足立ちの練習は、非常に大切です。
また、書きたいと思います。
2019年5月6日 よしのぶ