Share the Wind 

2014年に小学校を建設。
家族がともに暮らせ、夢を持ち歩める環境へ。

リエンポン小学校、建設から10年。

2024年04月28日 | 学校建設に向け

久々の更新になります。

こちらでは Share the Wind の活動を含め、私個人の状況も書こうと思います。

最後のブログの投稿が2020年9月。
記事を読み返すと、当時の記憶が鮮明に蘇ってきます。
その1つ1つが私のとってはかけがえのない、大切な思い出であり、ここまで歩んできた証でもあります。

4月でカンボジアでの生活も丸9年となりました。
リエンポン小学校を建設してからは10年が経ちました。
(初めてのリエンポン村訪問)

大学を卒業後、親の反対を押切り、バッグパックを背負い、なけなしのお金を片手に意気揚々とカンボジアに来ました。

大きな選択や小さな選択。
様々な場面でその選択をし、今に至ります。 
辛くしんどい時に、あの時あの選択をしていれば、、、とふと思うこともちろんあります。

小さかった子どもたちが今では立派な親になり、その子どもたちが幼稚園に通い始めています。
リエンポン小学校を卒業した子たちが高校、大学進学に向けて一生懸命勉強を頑張っています。
こんなに嬉しいことはありません。

私の誇りです。


(現在)

思い返すと私はいただいてばかりです。

村からは人として何が大切かを学び、心の居場所をもらいました。
ご支援してくださる皆様からは大切なお金をいただいています。
本当に感謝しております。


(幼稚園)

少し、ここ数年のことを振り返りたいと思います。

コロナ禍、教育・女性の就労支援として製作していた商品は売れず、村への訪問者も途絶え、カンボジア現地での収入がゼロになりました。
観光で賑わっていたシェムリアップは静寂に包まれ、活気を失っていました。
この状況はもちろん当団体やこの街に限ったことではありません。

団体や個人の貯金が減っていく中で、活動を撤退するか一時的にストップするか選択に迫られていました。
スタッフや村で働いているみんなには、しばらく給料を減額させて欲しいと頼みました。出稼ぎ先から戻ってきた母親、これから出稼ぎに行こうと思っていた女性たち。教育には家族の基盤が必要だと考え、どうにか母親と子どもが一緒に村で暮らせるような仕組みを作れないかと、就労支援を始めました。

給与の減額、そしてもし減額しても払えなくなったら、みんなや子どもたちはどうなってしまうのだろう。

当時の私は良くか悪くか一方的な考えをし、勝手に重圧を感じていました。
そして、今になって、支援とはものすごく繊細なことだと思うことがあります。

減額を頼んだときは、みな少し不安を見せながらも最後は一緒に頑張ろうと、 私を励ましてくれました。


1人でくよくよしていても仕方がない、とにかく動こう。
そこで、僅かでもどうにか収入を生み出そうと、2019年にNGOで購入していた田んぼで農業の開始を決意。
多くの方々にご協力いただいて、田んぼを畑に変え、塀を設置。

素人が農業に、、、、。そんな言葉が常に脳裏を巡りながらも、前を見続けました。

2020年の夏に本格的に指導。
試行錯誤の中、勉強。やるしかない。
様々な農家へ訪問し、真似し、改善し、試す。

ご支援いただいた皆様には申し訳ないほどにゆっくりですが、
現在は少しずつ利益も出始め、農業や養鶏にかかる費用や給与の一部をまかなえるようになってきました。


2021 年 12 月から翌年 5 月まで私は 2 年ぶりに日本に一時帰国していました。
農業を始めてもなお、継続するか一時的に活動をストップするかを決めかねていました。

久々の家族との再会。
2週間の隔離を終え、友人やお世話になった方々と再会。

そんな日々の中で日本もどこか活気がなく、疲弊していることを感じていました。
 
心を休ませながら、Share the Windや自身の過去、これからを考える日々。

20 歳で団体を設立し、大学卒業ともにカンボジアへ移住。コロナ禍の当時、帰国した私は29歳。
30歳を目の前にして、” どう生きていくか ” も考えていました。

10 年間、色々ありながらもリエンポン村という 1 つの場所で活動を続けてきました。 
日本での滞在中は講演会や一時的に正社員として雇用していただき仕事をしながら、どうにか活動の運営費や給与を集めていました。

日本で働いてカンボジアにお金を送るか、一時的に活動をストップするか。
様々な選択の中で、迷い、もやもやする日々。

周りの同世代の友人たちと自分を比べると不安になることも幾度とありました。

日本に居ればいるほど、気持ちは焦りながらも、友人や家族と過ごす時間が心地よくなっていました。
私はカンボジアでの活動を考えることから避けていたのかもしれません。しかし、 いつかは決断をしなければならない。
 
Share the Windの活動を続けながら、自分自身がカンボジアで生活していくためにはどうすれば良いのか。
私はカンボジアでの活動や経験を除いたら何もありません。

そんな時に、プノンペンのある企業で働かないかと声をかけていただきました。
私自身も興味がある分野で、前向きに検討し、企業からも来ていただきたいと連絡を貰いました。

活動の継続、運営費、給与、そして何よりも自分がカンボジアで暮らすために。
私自身が好きで始めた活動。
最後まで自分で責任を持って全うしよう。それが何度考えてもたどり着く答えでした。

もちろん、シェムリアップから離れることに後ろ髪を引かれていました。
しかし、働くことを決め、シェムリアップへ戻り、村で働くみんなに伝えました。

「これまであなたには多くのことをして貰ってきた。もちろんあなたの決断を尊重する」
そうみんなから言って貰えました。

シェムリアップのアパートを片付け、2022年6 月にプノンペンに引っ越しました。

シェムリアップからしたら、プノンペンは大都会。
知り合いもいなく、右も左も分からない中、びくびくしながら新たな生活が始まりました。

そしてもう2年が経とうとしています。
この2年間は週末や休日にリエンポン村に行き活動をする生活を続けています。
 
シェムリアップに住み、村にいつでも行ける状況では無くなってしまいました。

農業や縫製は確かに私が常に居た時に比べればスピードも遅く、停滞していることもあります。
このような報告や日々の活動報告も遅れてしまい、ご支援いただいている皆様には本当に申し訳ないと思っております。

しかし、私の軸はいつでも Share the Wind の活動が基点となっています。
活動ではカンボジア人のマネジャーは常に私に村の現状を報告してくれているので、その点では安心しています。
現在、今までマネージャーとして活躍していたスタッフを代表へとポジションを変更する予定です。


私が2年間、現場から離れ気づいたこと得たことももちろんあります。
そして何よりも私はリエンポン村、そこに住むみんなが大好きなんだと、改めて気づかされました。

昔のように子どもたちと触れ合う時間は少なくなってしまいました。
それでも幼稚園生や低学年の子どもたちが、「りゅうた、りゅうた」と名前を呼んで寄ってきます。
それに嬉しさととともにどこか寂しさも感じています。

私はどこまでもこの村と団体の代表ではなく、‘りゅうた’として関わっていくのだろうと思っています。

支援の難しさをコロナを機に感じています。
繊細さや依存性、自分の都合になっていないか.....。
だからこそ、今まで以上に気を配り活動をしています。
私は一歩引いた形で、働いているみんながより主体的に物事を考え、実現させていける活動を目指します。

これからもゆっくりですが、各活動は続けていきます。
そして、また私ができる範囲でアンコールワット の遠足や言語学習などを再開していきたいと思っています。

このように皆様へ活動の報告が遅れてしまった中でも、寄付のご支援をいただいております。
本当にありがとうございます。すべてを活動費へ使わせていただいております。
そして、少しずつでもしっかり報告をしようと反省しております。

こんな私ですが、
これからも Share the Wind のことを温かく見守っていただければ嬉しいです。

読んでくださりありがとうございました。

内田隆太