Share the Wind 

2014年に小学校を建設。
家族がともに暮らせ、夢を持ち歩める環境へ。

スタッフの気持ち

2020年09月23日 | 活動状況

先日は縫製スタッフがシェムリアップ市内に生地を買いに来ました。

縫製の子たちは村から離れた縫製屋で勉強をしているので、彼女たちの話を
ゆっくり聞く機会でもありました。




–   村やスタッフの存在 –  

一番長いスタッフが現在、縫製の勉強をしていている子で2016年8月から雇用をしています。
母親達も雇用してから2年ほどが経ちます。

前回のブログにも書きましたが、今年の4月から4年ほど続けて来たバッグ作りを中断しました。
この先、再開するかも今は未定です。

そして同時期にみんなで話し合い、農業へと着手することに決めました。
若いスタッフ達は縫製、母親達は農業。

農業に決めるまでは葛藤の毎日でした。
それは僕自身が経験のない分野であること、その中で運営をしながら
母親達の自立を目指し、しっかり子どもたちへ繋げていけるかという不安。

しかし、最後に背中を押してくれたのは
母親達の「一緒に頑張ろう」と笑顔で言ってくれたその一言でした。

可笑しな話かもしれません。
母親達の就労支援としてあったバッグ作り、そして今回始めた農業。
本来であれば、NGOとして僕が彼女達を引っ張っていくはずが、
今は僕が彼女達に励まされています。

NGOの活動ではありますが、1人の人間として彼女達は僕の大切な友人でもあります。
それは彼女達に限らず、子ども達や親みんなです。

支援をする際にはその距離感に確かに悩むことは多々ありますが、
自分を、そして日本人を受け入れてくれた村人は僕にとってかけがえのない存在です。

ともに笑い、喜び合い、泣き、時には怒り喧嘩し、
多くの時間と心を共有してきました。

–   変化 –
農業を開始しようと決意してから今日までは本当に毎日が瞬く間に過ぎていきました。
”自分次第”そう自分に言い聞かせながら毎日を過ごしていました。

6月にFacebookで寄付を募らせていただいてから
日々、自宅で今後の予定を立てながら、農業の知識を深めていき、
同時に今後の運営資金の確保もあり、村へ通う回数は減っていきました。

スタッフ達には団体の状況も嘘偽りなく全て伝えています。
団体の役割や今後の方向性、そして現在の金銭的な状況。

みんなそれを理解してくれた上で今も働いています。





–   スタッフの気持ち –
そんなスタッフたちが誕生日を祝ってくれた日、そしてその後にも、
何度か僕に胸の内を話してくれました。

’’隆太は私たちの気持ちをわかっていない”

その言葉を聞いた時僕は、言葉を失いました。
しかしそれは彼女達が勇気を持って自分へ言ってくれた一言でした。

僕はそれまで、スタッフやその家族の生活、将来のことを考え
より良い仕事の環境をつくっていくことだけを考えてきました。
1つ1つの言葉やサポート、渡す給料の額など。

もちろん当たり前のことではありますが、
1人で抱え込むには限界があり、いっぱいいっぱいの僕の表情や態度はどんな繕おうが
彼女達には見透かされていました。
活動に支障のないクメール語は話せますが、それ以上にスタッフ達や村人、子ども達は
僕たちの表情を見て判断しています。

そしてスタッフ達に言われました。
ーーーーーーーーーーーーー
私たちは隆太が大変な姿は見たくない。私たちのためにいつもありがとう。
でも心から楽しんでいる姿を見たいんだ。

あなたがいない時、みんなで話している。私たちはもっと何ができるか。
どうすればあなたが少しでも楽になれるか。
みんなバッグづくり、そして今の農業もそうだけどあなたが頑張っていること、苦労していることもを知っている。農業だって難しいし、お金になるのはまだまだ時間もかかるし、大変だと思う。だけど私たちは、先の自立や家族、子どものためにこれからも一緒に頑張っていきたいと思っている。給料だってもう少しカットしても大丈夫。節約もするし(笑)。

今はお金がなくて大変なのはみんな知っている。
カンボジア国内だったら、仕事が少なくなったら給料は当然のように少なくなる。
あなたの思いは十分に私たちに伝わっているよ。

だからもっと笑顔で。
今はみんなで助け合って乗り越えていこう。

私たちの気持ちわかった?
ーーーーーーーーーーーーー
そんな言葉を母親達から貰いました。

そして妊娠中の縫製スタッフにも、涙を浮かべながら言われました。

私は妊娠中で、今はなかなか仕事も出来ない。旦那はプノンペンに働きに行ってしまったし。
体調も波があるし、あまり働けない中給料を貰うのは心苦しい。
私は縫製の技術を身につけて、村の近くで売りたい夢がある。
けれども、今はあまり働けないし、子どもが生まれてもすぐには仕事に就けない。
申し訳ないから一度は辞めようとも思った。だけども、縫製の仕事がしたい。

縫製の子達にはまずは技術をつけてから、家庭を持ちなさい。とは言い続けていましたが
農村部の生活は金銭的なこともあり実際そういう訳にもいきません。
彼女の場合は兄弟のぞれぞれが違うお父さんで、母親も少しいい加減なので、より一層、
彼女自身の中でも葛藤はあったように思います。

スタッフ1人の夢、仕事を辞めて貰うのは正直簡単なことです。
彼女の人生、最終的に決めるのは本人です。
しかし、団体としてそして一個人として、僕にはそれが出来ませんでした。
多くの方に支えていただいている中で、甘い考えかもしれません。
運営は先が見えず、厳しい状況にありますが、何年先か彼女の夢が叶った時、
きっとその時何倍もの可能性が村や子ども達に広がっていくと思っています。
なにより彼女の子どもが小学校に入りしっかり勉強することが一番です。

母親の言葉。そして妊娠中の彼女、ほかの縫製のスタッフ達の言葉。
これまでの活動と自身を振り返る時でもありました。
そして今だからこそ、これからのために皆んなと改めてしっかりとした基礎づくり、
組織づくりをしていこう感じました。
嬉しい言葉でした。
そんなみんなの言葉が僕の迷いを消し去ってくれました。

–   今 –
スタッフ達の胸の内を聞いてから、僕もどこか肩の力が抜け楽になれているような気はします。
そしてより一層彼女達を信じ、今も市内の自宅で作業を進めています。
彼女達もスッキリした表情で今できる仕事に取り組み、僕が村へ行った際はいつも以上の笑顔で色々と報告をしてきます。
毎朝届く、スタッフや野菜の報告メールに微笑みながら1日の始まりを迎えています。
同時に1日も早く、村に住みながらともに農作業が出来るよう、頑張ろうと自分を奮い立たせています。

農業や縫製、そして日本でのバッグ商品の販売や広報、HP関係、組織づくりなど
今まで活動を応援してくださった方やその周りのご友人達が団体の継続や現地のために
それぞれアイディアを用いて協力してくださっています。
本当に有難い1日1日を過ごし、皆様に温かい励ましをいただいています。


–【ご支援のお願い】 −

現在、春先までにかかる就労支援費(農業・縫製)と運営費、
100万円を皆様にお願いをさせていただいております。

Facebookやメールを通して、これまで活動にご協力してくださった方や村にお越しいただいた方、商品をご購入頂いた皆様へご連絡をさせていただいております。

現在、22万円のご寄付をいただいておりますが、
活動を継続していくにはまだ足りない状況です。

日本での仕事にも影響が出ている中、重ねてのお願いで大変心苦しいですが
どうかご協力いただけますよう、心よりお願い申し上げます。

スタッフ達の言葉、その思いを大切にこれからも活動を続けていきます。
まずは、現在のスタッフ達の自立と育成を優先し、村の生活収入の向上や教育に対して残せる仕事と仕組みをNGOとして作っていきます。
まだまだ時間はかかる活動ですが、今を乗り切り未来へと繋げていくために
ご協力よろしくお願いいたします。

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ゆうちょ銀行
「口座名」シェア ザ ウィンド(Share the Wind)
「店名」〇二八(読み:ゼロ二ハチ)
「店番」028
「口座番号」4057842

クレジット決済(1万円から)はこちらよりお願いいたします。
http://share-the-wind.sunnyday.jp/donation-credit/

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Share the Wind
内田隆太


































  













活動を応援してくださる皆様へ

2020年09月20日 | 活動状況
今年もカンボジアで28歳の誕生日を迎えました。
誕生日にはよくこれまでのことを振り返ります。

長いですが、読んでいただければ幸いです。


初めてカンボジアを訪れたのは、大学2年生の20歳の誕生日でした。
2014年1月にリエンポン村に小学校を建設し、大学卒業後に半年間だけ小学校の様子を見守ろうと思い、気がつけばカンボジアに来てから5年の月日が経っていました。



–   村の小学校 −
当時の僕は、”小学校があれば子どもたちは勉強を受けることが出来る”
と安易に思い込んでいました。

しかし実際、教育は村人の生活から程遠い先にありました。

小学校があっても勉強を受けれない、途中で辞めてしまう生徒がいました。
その理由を把握するために、最初は翻訳本を片手にぎこちないクメール語で1軒1軒の家庭に対して
親の事情や生活の背景を聞いてまわりました。
教師と生徒1人1人の話を聞きました。


村を知るために空き家を借りて住み、夜遅くまで各家庭の親達と
お酒を片手に語り合いました。




その日々の中で、教育や生活に対しての村人の考え方が見えてきました。

知れば知るほど、聞けば聞くほど自分がこの先どう村や小学校に関わっていけばいいのかを
悩み、ただ茫然と外から眺めていることしか出来ませんでした。

–   模索の日々 −
それでも教師は増え、今まで通えていなかった子も入学し
生徒たちの人数は少しずつ増えていきました。

草木が生い茂る土地をみなで開拓し花壇や畑をつくり、
生徒たちを自国の象徴であるアンコールワットに連れて行き、多言語が交わる中で世界の広さを知ってもらいたく社会科見学を実施。
親と小学校の距離を縮めるためにイベントを開催。







模索する日々の中で、親や生徒、教師の話を聞きながら
1つ1つ思いつくこと試していきました。

最初の頃に親が言った”勉強は時間がかかる。未来より今の生活。”
何をしてもこの言葉が重くのしかかっていました。

今、小学校に通えている生徒だけでいいのか。
昨日まで通っていた子が突然、教室からいなくなり小学校を辞め働きにいく。
生徒たちの人数は増えながらも、辞めたり村からいなくなる子も多くいました。
団体としてサポートし、再入学をさせても継続し通う子は僅かしかいませんでした。



–   根本的な解決にはならない −
出来ること1つ1つを試し、積み上げてはいましたが、根本的な解決には至りませんでした。
答えは表ではなく、生徒や親の心、生活にありました。

教育は生活の基盤があるがゆえに、受けられるもの。

少しずつ村の現状が分かってきた数ヶ月。
このまま帰国していいのか。その時は既に半年以上が経っていましたが、
自分の中に抑えきれない感情が湧き出て来ました。
”なんのために小学校を建てたのか”
自問自答を繰り返しながら、カンボジア、リエンポン村で活動を続けることに決めました。
僕の一方的な感情、小学校は国の管轄となり村人や教師から何をして欲しいと言われた訳でもありません。

ただ1人でも多くの子が小学校に入学し、辞めることなく卒業する。
そして、子どもたちの成長と未来を自分の目でみたい。
そう強く思うようになっていました。

–   1歩を出すか −
カンボジアでの生活が始まり約1年半が経った2016年8月。

それまで、小学校を辞め村からいなくなった子や10代にして親や兄弟のために住み込みの仕事に行く子どもたちを多く見て来ました。
そして、両親が隣国のタイや地方へ出稼ぎに行き小学校に来なくなる生徒たちがいました。
残された子は、祖父母や親戚の元に預けられ家事に専念したり、家で弟や妹の面倒で小学校に来なくなりました。それが彼らの生活でした。

お金が無ければ生活はできません。賃金が高いタイへ行くのも仕方ありません。
ただ、この年に大切な1人の村人をタイの出稼ぎ先の工場で亡くしました。
それは、僕らの小学校建設で村の大工として一緒に働いてくれ、
僕が村に住んでいた時に兄のように面倒を見てくれた人でした。

過労死でなくなり、帰らぬ姿で村に戻ってきました。



何が出来た訳でもありませんが、ただただ悔しく涙が溢れて来ました。

そんな大好きだった村人の死とリエンポン村初の卒業生を迎える時に
1歩を踏み出そうと決意しました。




–   仕事づくり −
今思えば、この1歩がどれほど大変だったことか。
当時の自分にもっとしっかり考えろ!と言いたくなる程です。


村に仕事があれば、そう強く思い始めていました。

再入学が難しく、学校を辞めた生徒たちが村で仕事ができるように。
既に地方で住み込みの仕事をしていた子。
両親がいなく、中学校へ行く費用が生み出せず辞めようとしていた子。

団体としては子どもたちの教育支援を軸として活動してきましたが、
現実として学校に通えるため、遠方へ出稼ぎにいかないための手段として、若い女性たちを雇用することに決め、村に落ちていたお菓子袋を再利用し、バッグをづくりを開始しました。

小学校の校庭にあるカシューナッツの木下でみなで仕事をする日々が始まりました。
最初はほんの数十ドル、学校に通うための金額程を給料として渡していました。
様々な背景をもった女性を雇用していましたが、もともと地方で仕事をしていた女性たちは僕らからの給料では足りず結局、辞めてしまう子も多くいました。



団体として販路を広げ、どうにか売り上げを増やしていこうと
少しずつシェムリアップ市内で委託販売のお土産屋を増やしながら、ツアーなども取り入れていきました。そして翌年の2017年に校長先生や村長、区長、村人たちが小学校の敷地内に工房を建設することを容認してくれ、クラウドファンディングで寄付を募り、働ける場が完成しました。
応援してくださった方々の温かい気持ちを強く感じました。






–   もう1歩−
継続して学校に通う子や遠方への出稼ぎを辞め、少しずつ働く人数も増えていきました。
しかし、あくまでも10代の女性たちへのサポートで、小学校の生徒たちや通えていない子には
何も出来ていませんでした。

そんな中で、親たちからも働きたいという声が出始め
毎週誰かが工房へ相談に来る日々が続いていました。

親の雇用。それは子どもたちの教育にとって一番必要なことでしたが、
給料や仕事の自立、自分自身のことを考えると怖くなかなか踏み出せない1歩でした。

”教育は生活から”

ずっと悩み続けていましたが、団体として若い女性の雇用をストップし、
2018年6月から母親の雇用を開始することにしました。
それはカンボジアローカルNGO設立後のことでした。

–   カンボジアローカルNGO設立 −
日本では任意団体Share the Windとして2012年11月から活動を開始していました。
カンボジアでも同様にShare the Windとして活動をしていましたが、より深く根を張り
カンボジア国内でしっかりと活動するため、2018年5月にローカルNGOに登録し、内務省から正式な許可を得た団体となりました。

ちょうどその頃応募していた、ソロプチミスト日本財団の社会ボランティア賞を受賞し、頂いた賞金で工房を改築することに決めました。




–   母親の雇用 −
タイでの仕事は日給にして農村部の2倍から3倍稼ぐことができます。
主には工場や建設現場。しかし中には重労働で危険を伴う仕事も多くあります。

団体として、まだまだ利益も出ていないバッグ作りで雇用を増やし、給料を渡すのは
僕の中での1つの決意でもあったように思います。

子どもが親と暮らし、継続して学校に通えるように。

2018年6月から、共通してタイの出稼ぎから帰ってきて村に
現金収入を持たない母親を対象に就労支援を開始しました。



工房はより一層賑やかになり、母親たちは仕事をしながら子どもたちの勉強の姿を見れ
少しずつ良い仕事の環境へとなっていきました。



母親の雇用を開始した当初は本当に多くの親たちが工房に相談にやってきました。
1人1人と家庭や子どもの状況を話し、面談の日々でした。
断る辛さ。断っても何回も工房にやってくる親。

その頃から村に雇用をつくることの大変さを身に染みて感じるようになりました。
村へ入る道の右を向いても左を向いても断った家ばかり。
母親たちは何も思っていなかったかもしれませんが、彼女たちの優しさが逆に
辛い時期もありました。

今いるスタッフたちの生活と家族をまず第一に。
そう自分の中で思い続けていました。そしてスタッフたちの笑顔に救われていました。

–   縫製支援 −
今は8人の女性を雇用しています。
2019年8月から、そのスタッフの中で3人の女性に対して縫製支援を開始しました。
バッグ作りの当初からずっと、縫製を学び縫製屋で働きたい、と言っていた子たちです。
彼女たちの夢、そしてそこから下の子たちの目標につながり、いつか彼女たちが指導者になって欲しいと思い進めることにしました。
現在は村から10kmほど離れた縫製屋に通いながら日々、技術習得に励んでいます。
彼女たちの気持ちを大切に、団体としてもより高い技術を学べるように取り組んでいます。


–  コロナウィルス −
バッグ作りが少しずつ軌道にのり、スタッフたちに任せられるようになった時に
想像もしていなかった新型コロナウィルスが世界中で猛威を振るい始めました。
当団体も観光客に向けにバッグを販売しその売上げと、日本人のツアーの受け入れで運営費を得ていたので、観光客がいないこの数ヶ月間はこれまでの団体の貯金の中から活動を続けてきました。
シェムリアップ市内の委託店舗(土産屋)は一時閉鎖し、2,3ヶ月に一度プノンペンの委託店舗で
数ドルほどバッグの売上げが出るのみで、活動費の7割を占めていたカンボジア国内での運営費に当たる収入が一切なくなりました。

バッグをつくっても売れないという状況の中で多くのことを考えました。
スタッフたちの生活、子どもたちの勉強、活動の継続、一時中断、、、。

積み重ねの中で、小学校に通う生徒も増え、それにより教師も農村部では稀に見る9名になり
雇用している母親たちの子も定着して小学校に通っていました。

そんな中で決して、スタッフたちの仕事を断ち切りたくない。
しっかり給料を渡し続けたい。という思いを持ち続けていました。

–   農業 −
バッグが売れない中で、どうにか他に仕事を作ろうと悩んでいました。
試作づくりや新たな素材、別の分野での仕事。多くのことが毎日頭を駆け巡っていました。

8名を雇用していたバッグ作り。
何百人いる中のたった8人かもしれません。ただ、その子どもたちは親と暮らし安心して小学校で
勉強を受けることが出来ています。若いスタッフ達も、家族の生活を支えています。

彼女達の生活を自立に導きながらも、ほかの村人へも広げていけるものをつくろう。
そう思い立ち、仕事として農業を開始することにしました。

2019年の夏に活動の幅を少しずつ広げていこうと、小学校建設からお世話になっている日本の方と話し団体として村の田んぼを購入させていただいていました。






全くの素人の僕が出来る分野なのか。不安と心配しかありませんでしたが、やるしかない
状況でした。村の暮らしの中で、多くの村人が農業により収入を得ています。
やるからには、何年かかってでもスタッフ達の生活費を生み出し、自立を目指し、
子ども達の教育に繋げていこうと自分を奮い立たせました。

今年の6月にはFacebookを通し、寄付を募らせていただき
1年を通し農作物を栽培・収穫できるように田んぼに土を入れ畑にし、柵や塀を設置することができました。その間に、カンボジア国内や日本の農業関係者の方をご紹介いただき、
日々できる形で農業の知識を増やしていきました。

まだまだ課題も多い畑、最初は失敗の連続だと思います。
スタッフの育成や土作り、農作物の勉強、管理、販路、販売、、、
その他にもやるべきことは山積しています。おそらく何年もかかります。

コロナウィルス前は週5日往復120kmの道のりの中、村に通っていましたが、
今は助成金などの申請作業や資金確保もあり週2日ほどしか行けていません。
それが団体の代表としての今の役割なのは重々承知していますが、今まではずっと現場で
スタッフ達と試行錯誤し、自分の姿を見せながら活動をしてきました。
それが一番大事だと思って今も活動を続けています。
1日も早く机上ではなく、現場でスタッフ達と勉強し、村に住みながらともに汗をかき
仕事をしたいと心から思っています。

–【ご支援のお願い】 −
団体として現地での収入がなくなった4月から、スタッフ達も理解してくれ苦渋の決断の中、
20%程給料をカットして活動を続けてきました。

Share the Windはこれまで本当に多くの方々の支えで現地で活動をすることが出来てきました。
今は活動を継続させること、それが全てです。

観光客が戻り、再びカンボジア国内で運営費がまかなえるのがいつになるかは分かりません。春先までにかかる就労支援費(農業・縫製)と運営費、100万円がどうしても必要と、皆様のお力をお貸しいただきたくお願いする次第です。

ご寄付は必ず現地で活かし、ご報告を致します。
そして、これからも1歩1歩を村とともに歩みながら、子ども達の教育、その先の未来へと繋げていきます。 
皆様も大変な状況に置かれている中、重ねてのご寄付のお願いに誠に心苦しいのですがどうぞ、

ご協力をよろしくお願いいたします。
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ゆうちょ銀行
「口座名」シェア ザ ウィンド(Share the Wind)
「店名」〇二八(読み:ゼロ二ハチ)
「店番」028
「口座番号」4057842

クレジット決済(1万円から)はこちらよりお願いいたします。
http://share-the-wind.sunnyday.jp/donation-credit/
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