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SENSATION[サンサシヨン]

Sensation:印象・感覚・刺激・興奮 Concept:雑草魂 Keyword:20世紀ノスタルジア

ズィーズ・ファッキン・ロードムーヴィーズ

2007-02-23 09:39:43 | film
 *ジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991、原題はNight on Earth


 それにしても多言語的な映画ばかりである。『ダウン・バイ・ロー』ではイタリア語、『ミステリー・トレイン』では日本語、『デッド・マン』ではアメリカン・ネイティヴ、『ゴースト・ドッグ』では、フランス語にちょっとスペイン語、そして『ナイト・オン・ザ・プラネット』では、フランス語、イタリア語、フィンランド語が、それぞれ英語に混じる。多文化主義はこの監督の基調にある。

 レイクプラシッドを後にするあたりで、マイクロバスのリアガラス越しに、通り過ぎる街路を撮影しようとした。窓からでは、通過速度が速すぎて上手に撮れないのである。この辺の人たちは、やはり観光客なのだろうか。車を降りて話をしてみたいと感じた。むろん、貧しい英語で話しかければ、向こうが狼狽するだろう。けれども、やがてそれでもどうにかなる。それを滞米中、繰り返してきた。





 こうして旅を続けていると、移動が日常で、滞在の方が異常なことのように思われてくるから不思議だ。心身は疲れきって、目的地へ到着することを欲しているはずなのに、さあもうじきだ、という地点までくると、何か物足りない気分になる。まるで、いくら食べてもお腹がいっぱいにならないと感じるように。その時、目的地ではなく、旅そのものが目的なのだ。

 たぶん、私は1980年代に、駅裏のシネアートで『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と『ダウン・バイ・ロー』を見ている。寡作な作家と言われてきた。それにしてもビクトル・エリセほどではない。(そう言うのはその頃、エリセも見たからなのだが。)いくつか見ていると、これらはロードムーヴィーなのだなと分かってくる。迂闊(うかつ)な話だ。旅そのものに焦点が行かない。

 『ナイト・オン・ザ・プラネット』は、ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキが舞台のオムニバス映画である。オムニバスというよりも、短編連作と言った方がいいだろう。その共通テーマは、移動そのものが目的となる職業であるところの、タクシードライバーである。映画のテーマも、明らかに、移動中の客と運転手とのコミュニケーション(=ディスコミュニケーション)に重点がある。

 各々に印象深い。パリ編で、アフリカ系の運転手が、同じくアフリカからの外交官二人組を乗せて、その二人から差別的なことを言われ、頭に来て放り出すが、その後乗せた目の不自由な女性に対して、今度は自分が差別的なことを言う。やや腹を立てた女が降りた後、目の見えている自分の方が、他の車とぶつかって口論になる。それを聞いて冷笑しながら、女は河岸を杖をついて歩いてゆく。(こんな深夜の人気のない河岸をどこへ行くのだろう?)

 ローマ編では、乗せた神父に、陽気で猥雑な冗談を立て続けに連発していたら、神父が心臓発作を起こして死んでしまい、慌てた運転手(「ああ! 俺は神父を殺してしまった!」)が、夜のベンチに神父を置き去りにする(「体重だけは司祭級だぜ!」)。『ダウン・バイ・ロー』でも分かるが、この監督は、イタリア的個性に対して随分と思い入れがあるらしい。

 でも、一番心に残ったのは、最初のロサンゼルス編。若い女のドライバーが、映画スターのプロモーターであるマダムを乗せる。この運転手ときたら、運転は荒く、気っぷが良く、追い越しをかけてくる車に向かって、「ヘイ! もう一度免許を取り直してきな!」と怒鳴ったりする。チェーンスモーカーで、フロントグラスの上に片手で抜き取れるように莨(タバコ)の束をくくりつけている。マダムは、「差し出口だけど、あなた吸い過ぎよ」と言って自分も1本吸う。そういえば、マダムにライターの火を差し出した手並みも鮮やかだった。

 だいたい、莨吸うんならこれくらいやらなきゃホントじゃないだろう。情緒的な愛煙家なら禁煙するに若(し)くはない。その気っぷの良さが気に入ったマダムが、「あなた、ムーヴィースターにならない?」、と彼女に訊くが、彼女は運転手の後にメカニックになりたいという夢があるから、と言ってそれを断る。実際のところ、彼女を演じている彼女はムーヴィースターなのだから、微妙なんだけど、こういう人生の旅そのものが、彼女にとって目的なのだろうな、という気がする。

 初心(うぶ)な永瀬正敏と工藤夕貴が出た『ミステリー・トレイン』が、3つの物語のクロス・カッティングを見事に構成して、カンヌで最優秀芸術貢献賞を取ったのは分からなくもないが、かつてつき合った女たちを次々と訪ねる初老の男のロードムーヴィー『ブロークン・フラワーズ』が、グランプリを取るほどの映画とはとても思えない。何か、「賞」という目的論とは違う様式だと思われる。『イージーライダー』のような放蕩の幕切れも、『マッドマックス』のような頽廃もないが、ジャームッシュにおいては、過程じたいがスタイルなので、実は物語など、どうでもいいのだ、という気さえする。

 だから、『葉隠』にかぶれた黒人のスナイパーという『ゴースト・ドッグ』の設定は、そのエンターテインメントぶりにおいて確かに一般受けはするだろうけど、むしろそのようなスタイルからは違和感がある。考えてみると、『ザンパラ』も『ダウン・バイ・ロー』も、物語には全くといってよいほど重点がなかった。『デッド・マン』における、『ダンス・ウィズ・ウルヴス』風のネイティヴとの協和も、その思想というよりは、荒野と森のワンダーリングこそが魅力である。

 どれもこれもが、ロードムーヴィーなのだ。ロードムーヴィーの作家たるをわが身に課すというのは、どのような心なのだろう。しかし、それは、アメリカという彼の地の文化にとっては、かなり本質的な選択なのだという気がする。「非道の大陸」という言い回しもあるようだが(多和田葉子)、アメリカにも道はある。それは、遠く、長く、果てしもない道だ。




祭の後

2006-09-11 11:15:50 | film

*北野武監督『菊次郎の夏』(1999年)

 神社の小山へ登る細道は、両側から高い松の根が延びて階段をつくっていた。広場に着く前から、お囃子の音、提灯の明かり、人々の声が木(こ)の間(ま)を洩れてきて、子どもの心をわくわくさせた。盆踊りのやぐらが組まれ、周りに出店がたくさん出ていた。折木(へぎ)に盛られた焼そばを一本の串で食べたり、ぜったいに取れない金魚すくいに挑んだり、毎年、それとなく、その祭を楽しみにしていた。

 もともと、小さな神社であり、山の周囲は住宅地で、前をバス道路の坂が通っていた。鳥居の奥にあるのは広場だけで、社(やしろ)などというものはなく、祭以外の日に行っても、虫を探して遊ぶしかなかった。川添登の『象徴としての建築』を読むと、神社というものは本来、本殿はなく、山なら山そのものが御神体である。その通り、何もない。そしてその祭も、いつからか行われなくなった。だから、最も幼い頃の思い出しかない。

 祭は毎年、周期的に反復されることが儀礼性を帯びるのだが、どんな祭にも終わりがあり、あまつさえ、突然、祭の開催が終わることさえあるのだ。いつまでも祭の中にはいられない。祭の反復性は、その根底に一回性を宿しているのである。年中、祭をしているような浅草から出発し、遠方の町の祭で山場を迎えるこの映画も、そのような隠された一回性と無縁ではない。というよりも、表象の反復と、その反復の切断こそが、北野映画の本質である。

 静止画的なショットの構図、その反復とずれ、シークェンスにおける句読法的な反復、図像的な反復、反復にこそ、北野映画の魅力はある。その構図性が、結果的に、北野の画面を小津に似通わせる。だが、最終的に構図に絶対的な優位が置かれる小津に対して、北野ではむしろ、構図の方が反復に寄与するのである。『その男、狂暴につき』の冒頭と結末のショット群は、焦点人物が変わるだけの完全反復である。『あの夏、いちばん静かな海。』の歩行ショットの反復。『3-4x10月』の[夢-現]往還の額縁。『HANA-BI』の花の絵。『座頭市』の劇中音楽と耕作の音響の一致。『Dolls』の逃避行の反復。

 異様なまでの反復は、その陳列性により、線状的な物語の自立性を内破する。特に、日常の反復は日常性を異化する。ヤクザ映画のパロディである『ソナチネ』は、ヤクザ映画のコードを各ショットにおいて反転すると同時に、沖縄の海岸での無意味な待機の日々を描いて、この反転を決定づける。(『BROTHER』もまた。)日常の反復はロードムーヴィーの構造と親近しやすい。『HANA-BI』『菊次郎』『Dolls』がそうであり、『3-4』『ソナチネ』の沖縄、『BROTHER』のロスもそれと関連する。さらに北野映画は、サイレントではないにしても、科白に重点がない。それは、明確に映像優位のテクストであり、言語的な物語の忌避によって貫かれている。

 その典型は、聾唖者を描いた、反復する構図の典型例である『あの夏』だろう。そこでは、画面上の表象に、意味などというものはない。目に見えるものは、時間軸上における図像の反復・転移でしかなく、そこに意味(抒情)を付与する要素があるとしたら、それは音楽以外にはない。『あの夏』から音楽を取り去ったなら、抒情性は潰滅的なまでに縮減されるだろう。表象は、自らを肯定も否定もしない。程度の差はあっても、北野映画における音楽(サティ、久石)の効果は、物語を内破する映画の物語構築において、限りなく絶大である。それは、反復と抒情と、両者の意味においてそうである。

 生別した母を訪ね、案内人の遊び人根性のために、『城』的な迂回の反復を経てようやく行き着いた家で、母は見知らぬ家族と幸福そうに暮らしていた。母を求める子どもにとっての、決定的な否認である。反復と、その切断。だがそれは『菊次郎』だけではない。『その男』の銃撃戦、『あの夏』の岸に浮かぶボード、『ソナチネ』の一発の弾丸、『HANA-BI』の二発の銃声、『Dolls』の崖から転落した二人……。反復する構図は、必ずや断絶を迎える。北野は、物語を内破する反復への安住すら許さない。永続する反復、つまり永遠回帰は儀礼となり、救済となりうるからである。いわば、永遠回帰とその切断、その矛盾する構造が、北野映画のスタイルを形作る。

 例外はある。『キッズ・リターン』の結末。そして『菊次郎』。『キッズ…』は、暴力団とボクシングという、兄(あん)ちゃん受けするテーマ、挫折してもくじけず、未来を目指す物語を、クロス・カッティングと反復構造によって織り上げた、北野映画のある種の代表であり、またある種の異端でもある。確かに、所期の目標は拒まれた。だが、ここには反復=永遠回帰(リターン)はあっても、切断がない。自転車の車輪は回転し続ける。「俺たち、まだ始まってもいねえよ」という最後の決め科白は、励ましには最適で、北野の元気な部分がよく出ているとも言える。しかし、決定的断絶を欠いたその代々木感覚は、北野の、淡々と沈む、だからこそ豊かである持ち味とは対立する。最悪の場合、それは挫折=通過儀礼をまたぐ成長の物語という、陳腐な定型にすら回収されかねない。

 根源的否認。母(であれ誰であれ、自分の最も大事な人)による、拒絶。それは、自分の培った、最も親密な物語の、自分の生に埋め込まれた、初め-中-終わりのある一貫した時間の物語、つまりは祭の、暴力的な否定でもある。それは定型を破壊する暴力的な介入なのである。その否認は、癒しがたい。そしてまた、まったく逆説的なことに、物語の暴力的な否定であるからこそ、それは最も強力な物語となりうるのである。考えてもごらん、それ以上に、人生において重大な出来事など、果たしてあるのだろうか?

 『菊次郎』には『キッズ…』にはない、根源的否認がある。もっとも、だからと言って『菊次郎』が、根源的否認のシーンで終わるわけではない。『キッズ…』の決め科白が最後であったのに対して、『菊次郎』の決定的拒絶は、映画の半ばに置かれている。その前後には、『ソナチネ』の待機時間の戯れ、『みんな~やってるか!』の悪ふざけにも通ずる、遊び(慰め)の時間が長々と繋がれる。明らかに、主役が子どもであることが効いている。(『キッズ…』でも、あの2人が子どもであるとは言えないが、タイトル(キッズ)がそのコードへの回路となっている。)実は、死ぬまでは誰もが皆、子どもでしかないのだ。正男にも似て、菊次郎は、施設に母を訪ねて、一言も言葉を交わさずそこを後にする。

 祭は、必ず終わる。根源的否認の後、それでもなお生き続けるとしたなら、いや、それは多くの場合、あなたも私もそうであるのだが、それは、癒すこと、慰めること、堪えること、愉しむこと、そのような営為の反復によって、決定的な反復の停止を先送りにすること以外にない。無限循環旋律(サティ、久石)の両義性は、ここでこそ、その効果の全容を現す。その先送りを可能にするのは、芸・芸能・芸術を措いてほかにない。北野映画の、いわゆる人間主義的な局面はここに、このようなパラドックスとしてのみ滲出する。

 そのような芸術、それは、死と否定、虚無主義を根底とし、人生の幸福の根源的な否認に基づき、それを顕著に表象しながらも、しかし単純にそれに惑溺もせず、生と肯定、そして幸福への眼差しもそこに対立的に一体化させるところの、希有な緊張感を生命とするだろう。(「ありがとう……ごめんね」。)映像における、その美しく、かつ厳しい極限のスタイルこそ、北野のテクストと、他の凡百のテクストとを、決定的に隔てるものなのである。

 祭を喪った今、私は、死まで続く、長い、祭の後(ポスト・フェストゥム)の時間を生きている。どこまでも青く広がる、『あの夏、いちばん静かな海。』の空。