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SENSATION[サンサシヨン]

Sensation:印象・感覚・刺激・興奮 Concept:雑草魂 Keyword:20世紀ノスタルジア

掃き出し窓の話

2019-03-06 18:39:00 | vie
 あの頃、父は帰ってくると居間の掃き出し窓を外から開けて、買い物袋を中に入れた。掃き出し窓のあるテラスの側を回って玄関にたどり着く導線の家だった。父はテラスに通勤用のホンダのカブ(バイク)を置いたが、その習慣は通勤の足がホンダの軽に変わってからも続いた。そのテラスも、父が木材とブロックと波型のプラスチック板で作ったものだった。

 四畳半の居間には、TVとコタツとストーブがあった。掃き出し窓側の角にTVがあり、コタツの掃き出し窓の側は妹の場所だった。その反対側の壁が私で、父はその間のコタツの辺にいたが、隣の部屋との段差に腰下ろしていた。居間は板の間で、隣の父の寝室は畳敷きだったから段差があった。母がいた時、母はどこかにいたのだろう。でも、母が居間のどこにいたかは思い出せない。母には定位置がなかったのだろうか。

 それはさておき、父が買ってくる食料品で夕飯にするのが基本だった。唐揚げ、天麩羅、ポテトサラダ。父が帰ってくるとだいたいそれを食べる。チョコバーやお菓子も袋に入っていることがある。そのおかずと飯で夕飯にする。野菜がないと、庭に埋めていたパセリの鉢からパセリをもいできて食べた。その後しばらくして、さらにインスタントラーメンを食べるのが、中学生の頃はほとんど日課だった。

 インスタントラーメンの作り方を父から教わった。そもそも火の着け方も。マッチを擦ってからガスの栓を捻るのだ。インスタントラーメンに直接入れて柔らかく煮込むほうれん草はうまかった。高校の時の朝ごはんが、肉とほうれん草入りのラーメンということがしばしばあった。私は受験勉強をしていたので一番遅く起きると、父と妹はもう出かけていて、私の分のラーメンが鍋に残っていた。その頃はもう、とうに母はいなかった。

 中学も高校も給食はなく、弁当を持っていかなければならない。父は私に弁当を作ってくれた。だいたいは、電気の魚焼き器で焼いた鶏肉の塩焼きか、特産だったマスの小ぶりの塩焼きが、ご飯と一緒に弁当箱に入っていた。父はサンドイッチ作りが得意だった。とはいえ、ハムとレタスとバターしか入っていない。それを一口食べた級友は、お前のお母さんは料理が上手だね、と言っていた。

 私と妹は、クリスマス近くになると父がケーキを買ってきてくれるのではないかと心待ちにしていた。実際、買ってきてくれることもあった。丸いクリスマスケーキのことも、カットされたケーキのこともあった、一度だけ、アイスケーキを買ってきてくれたのは今でも記憶に残っている。それは私が食べた最初で最後のアイスケーキだった。でも、クリスマスにもケーキではなく、当時流行っていたチョコバーだけのこともあった。父は、これがケーキだ、と笑って言った。

 ときどき、食べ物がなくなると、私と妹は最後の食べ物をめぐって争った。妹が泣き出すと、父は、妹にやれ、食いもんのことで喧嘩するな、たった二人の兄妹(きょうだい)じゃないか、とたしなめた。また父は、残りを全部食べろという時に、さらえろ、と言った。最近になって妹は、あれは、父の出身地の京都の方の方言だった、周りの人に通じないので調べたから、と教えてくれた。

 母がいなくなった後、近くに住んでいた祖母や、まだ嫁いでいなかった一番若い叔母が、クリスマスに訪ねてきた。小学生と中学生の私たち兄妹が寂しいと気遣ったのだろう。中学一年の私は得意だったギターで伴奏して、妹と二人、彼らの前で「清しこの夜」を歌った。でも、長じて三年生ともなると、歌うのはもう気恥ずかしかった。それでも祖母は一生懸命、歌ってくれた。孫が大学生になるまで生きているとは思わなかったな、と言っていた祖母は、私が大学三年の時に亡くなった。

 「掃き出し窓」という言葉を覚えたのは、ずっと後、いい大人になってからのことだ。雪国のこととて、窓は二重になっていて、間にスペースがあった。小さい頃はそのスペースに入(はい)れた。掃き出し窓の前に、小三の時には最初の勉強机が置かれた。冬は内側の曇りガラスの窓を開けて、外に雪が積もったか見た。エンジンの音がして、父がテラスにバイクを駐(と)める。私と妹が駆け寄る。ほら、掃き出し窓が外から開(ひら)く。

造成地について

2016-08-12 10:13:00 | vie
西に向いた河岸段丘の造成地
区画の間にはブロック塀
それを越えればホームランだ

投球 西陽とボールが重なり
瞳 いっぱいに満ちた光の中で
僕は水平にバットを振り抜いた

クリスマス・イヴ

2006-08-17 11:38:20 | vie
 トロンボニストはスペード、フルーティストはハート、もう一人のトロンボニストはクラブ、そして銀色のコルネッターはダイヤ、それぞれがそれぞれのエース。お互いをカードのエースで呼び合った4人は、気がつくと一緒に行動していた。うち2人は下宿生だった。3人とも背が高く、私だけがやや小さかった。それはまだ、私に、希望という二文字が存在していた年頃のことだった。

 医者の息子のスペードは、上(かみ)の橋の近くのマンションの一区画に一人で住んでいた。自由で使い勝手がいいので、私たちはたいがい、そこに集まっていた。コンサートの後、OBになってからも、そこに大勢の、現役・OBOGの部員たちが集まった。オープンリールのテープレコーダーがあった。星新一のショートショートが、スペードのエースは好きだった。

(そこで私は、クラリネットの彼女からジョージ・ハリスンのLPを聴かされた。大人になってから、”All Things Must Pass”を買った。彼女は私に恋をして、私はそれを受け入れず、私が彼女に恋をした時、彼女は私を受け入れなかった。まるで、ヴィクトル・シクロフスキイの小説理論みたいに。あのLPは、スペードのエースのものだっただろう。)

 音だけにはめっぽう、厳しかった。”鬼”と言われたコンダクター&ユーフォニゥムが登場してから、ほとんど、体育会系のような練習が始まった。(映画『スウィングガールズ』は、かなりの線、活写している。)彼は、休み時間という時間にずっと、スコアを眺めていた。練習を怠けると、彼は私たちを厳しく詰(なじ)った。軟派な私たちは彼を恐れていたが、たぶん畏敬もしていたのだろう。彼のおかげで、私たちのバンドは県大会を初めて突破した。

 私たち、カードのエース4人は、仲が良かったのだろうか? 都会派気取りで女に手が早いハート(それでいて結構、浪花節)、善人で正義派だがやや鈍なスペード、スポーツマンで美形だが必ずしも積極派ではないクラブ、成績はいいが信用できないタイプのダイヤ。皆、牽制し合いながら、たぶん距離を置いていた。嫌なことは嫌だと言っていた。でも、お互いに、常に優しくし合っていた。




 その年のクリスマスイヴ、3人は夜、ハートの下宿に集まると言っていた。父が厳しかった私は、たぶん行けないな、と告げた。だが、どういうわけか、私はその晩、静かな降雪の中を歩いて出かけた。たまたま父がいなかったのかも知れない。ハートの下宿は、岩大のキャンパスに面していた。岩大前の、ナトリウム燈で橙色に照らされた雪道を降りて、私は彼の下宿にゆっくり歩いた。何か家にあった酒を持っていったかも知れない。あるいは、チョコを。

 お前が来るとは思わなかった、とハートが言った。飲み方もよく分からないウィスキーを、床に腰下ろして、薄暗い部屋で、3人は既に飲んでいた。菓子類が床に置かれていたと思う。何を話したのか覚えていない。盛岡の12月。すべての動きが止まるほど、とても寒くて、静かだった。その下宿で以前に、クラリネットの物語を4人でしたことがあった。彼女の相談を3人は既に聞いていた。知っていたなら、どうして僕に知らせなかったのだ?、と私は詰問した。お前に言おうなんて、思いもしなかったよな、と3人は顔を見合わせた。

 クリスマスイヴに、外に思い出はない。私のクリスマスイヴに、笑顔などなかった。それ以来、私は仲間を作らなかった。その時の彼らだって、ほんとうに仲間かどうかは怪しい。あなたには分からないだろうか、仲間がいないということの深い意味が。「ああいうかなしいことを、お前はきっと知らないよ」(「黄色のトマト」)。私は悲しいからこそ、孤独の中で言葉を紡いで私になったのだし、私にもしも、それ以降のこれまで、仲間と呼べる仲間がいたら、たぶん私は私ではなかっただろう。

 でもね、ほんとうは私は今でも、ハートのエースの下宿を目指して歩いているように思うよ。しんしんと雪の降り積もるクリスマスイヴの、ナトリウム燈の橙色の道を、友達の下宿を目指して。その部屋には、ささやかだけど温もりが待っている。たぶん、私に仲間がいなかったというのも、それは嘘なのだ。私はいつだって、仲間たちによって生かされていたのだ。ねえ、あなたはそれを見なかっただろうか? 私が雪道を街灯に照らされて、新雪を踏みしめ、静かに歩いていく後ろ姿を、あなたもそこにいて見たのではないか?

     (画像:岩手大学構内、2006.7.14)

mauvais gourmet

2006-06-29 13:35:24 | vie


 あの頃、帰り道にあった小さな回転寿司で毎日のように食べた。客のいない薄暗い回転寿司。回転台に皿が載っていない回転寿司。さすがに、野菜を摂らないと、と思ってカッパ巻を必ず食べた。カッパ巻と蝦出しのみそ汁の味しか覚えてない。

 その向かいの居酒屋食堂。天井が無意味に高く、ミュージアムのような形態で、「スポーツ新聞はないの?」とおばさんに持ってこさせて、新聞を見ながら、焼き肉定食かなんか食べていた。夏は瓶ビール。冬は、平清水焼の白い銚子を火傷するまで熱燗にしてもらって。

 その店は、新築する前は、ものすごく脂ぎった中華食堂だった。まだ明るいうちから帰りに自転車で乗りつけて、ビールとカツ丼とか食べた。頁の端がささらになった少年マンガ誌を読みながら。しょっぱいキウリの漬け物がつまみに出て、それを楊枝で刺して飲んだ。

 そうして、飲んで、食べていた。どれもこれも、それなりに美味かった。料理の味や品格で、あれこれ言うなんて理解できない。粗食、悪食けっこうじゃないか。グルメブログなんて、見る気もしない。そうやって、私は仕事をし続けてきたのだ。

 YOU-Campus総会。議事を終えた後の昼食会で、学長連が食べている間、私はeラーニングのプレゼンをした。終わってから、皆が立ち去り、まわりの後片付けと並行して、一人お昼を食べた。さすが、お昼弁当とはいえ、ホテルの料理は、美味しかった、ような気がするな。