あの頃、父は帰ってくると居間の掃き出し窓を外から開けて、買い物袋を中に入れた。掃き出し窓のあるテラスの側を回って玄関にたどり着く導線の家だった。父はテラスに通勤用のホンダのカブ(バイク)を置いたが、その習慣は通勤の足がホンダの軽に変わってからも続いた。そのテラスも、父が木材とブロックと波型のプラスチック板で作ったものだった。
四畳半の居間には、TVとコタツとストーブがあった。掃き出し窓側の角にTVがあり、コタツの掃き出し窓の側は妹の場所だった。その反対側の壁が私で、父はその間のコタツの辺にいたが、隣の部屋との段差に腰下ろしていた。居間は板の間で、隣の父の寝室は畳敷きだったから段差があった。母がいた時、母はどこかにいたのだろう。でも、母が居間のどこにいたかは思い出せない。母には定位置がなかったのだろうか。
それはさておき、父が買ってくる食料品で夕飯にするのが基本だった。唐揚げ、天麩羅、ポテトサラダ。父が帰ってくるとだいたいそれを食べる。チョコバーやお菓子も袋に入っていることがある。そのおかずと飯で夕飯にする。野菜がないと、庭に埋めていたパセリの鉢からパセリをもいできて食べた。その後しばらくして、さらにインスタントラーメンを食べるのが、中学生の頃はほとんど日課だった。
インスタントラーメンの作り方を父から教わった。そもそも火の着け方も。マッチを擦ってからガスの栓を捻るのだ。インスタントラーメンに直接入れて柔らかく煮込むほうれん草はうまかった。高校の時の朝ごはんが、肉とほうれん草入りのラーメンということがしばしばあった。私は受験勉強をしていたので一番遅く起きると、父と妹はもう出かけていて、私の分のラーメンが鍋に残っていた。その頃はもう、とうに母はいなかった。
中学も高校も給食はなく、弁当を持っていかなければならない。父は私に弁当を作ってくれた。だいたいは、電気の魚焼き器で焼いた鶏肉の塩焼きか、特産だったマスの小ぶりの塩焼きが、ご飯と一緒に弁当箱に入っていた。父はサンドイッチ作りが得意だった。とはいえ、ハムとレタスとバターしか入っていない。それを一口食べた級友は、お前のお母さんは料理が上手だね、と言っていた。
私と妹は、クリスマス近くになると父がケーキを買ってきてくれるのではないかと心待ちにしていた。実際、買ってきてくれることもあった。丸いクリスマスケーキのことも、カットされたケーキのこともあった、一度だけ、アイスケーキを買ってきてくれたのは今でも記憶に残っている。それは私が食べた最初で最後のアイスケーキだった。でも、クリスマスにもケーキではなく、当時流行っていたチョコバーだけのこともあった。父は、これがケーキだ、と笑って言った。
ときどき、食べ物がなくなると、私と妹は最後の食べ物をめぐって争った。妹が泣き出すと、父は、妹にやれ、食いもんのことで喧嘩するな、たった二人の兄妹(きょうだい)じゃないか、とたしなめた。また父は、残りを全部食べろという時に、さらえろ、と言った。最近になって妹は、あれは、父の出身地の京都の方の方言だった、周りの人に通じないので調べたから、と教えてくれた。
母がいなくなった後、近くに住んでいた祖母や、まだ嫁いでいなかった一番若い叔母が、クリスマスに訪ねてきた。小学生と中学生の私たち兄妹が寂しいと気遣ったのだろう。中学一年の私は得意だったギターで伴奏して、妹と二人、彼らの前で「清しこの夜」を歌った。でも、長じて三年生ともなると、歌うのはもう気恥ずかしかった。それでも祖母は一生懸命、歌ってくれた。孫が大学生になるまで生きているとは思わなかったな、と言っていた祖母は、私が大学三年の時に亡くなった。
「掃き出し窓」という言葉を覚えたのは、ずっと後、いい大人になってからのことだ。雪国のこととて、窓は二重になっていて、間にスペースがあった。小さい頃はそのスペースに入(はい)れた。掃き出し窓の前に、小三の時には最初の勉強机が置かれた。冬は内側の曇りガラスの窓を開けて、外に雪が積もったか見た。エンジンの音がして、父がテラスにバイクを駐(と)める。私と妹が駆け寄る。ほら、掃き出し窓が外から開(ひら)く。
四畳半の居間には、TVとコタツとストーブがあった。掃き出し窓側の角にTVがあり、コタツの掃き出し窓の側は妹の場所だった。その反対側の壁が私で、父はその間のコタツの辺にいたが、隣の部屋との段差に腰下ろしていた。居間は板の間で、隣の父の寝室は畳敷きだったから段差があった。母がいた時、母はどこかにいたのだろう。でも、母が居間のどこにいたかは思い出せない。母には定位置がなかったのだろうか。
それはさておき、父が買ってくる食料品で夕飯にするのが基本だった。唐揚げ、天麩羅、ポテトサラダ。父が帰ってくるとだいたいそれを食べる。チョコバーやお菓子も袋に入っていることがある。そのおかずと飯で夕飯にする。野菜がないと、庭に埋めていたパセリの鉢からパセリをもいできて食べた。その後しばらくして、さらにインスタントラーメンを食べるのが、中学生の頃はほとんど日課だった。
インスタントラーメンの作り方を父から教わった。そもそも火の着け方も。マッチを擦ってからガスの栓を捻るのだ。インスタントラーメンに直接入れて柔らかく煮込むほうれん草はうまかった。高校の時の朝ごはんが、肉とほうれん草入りのラーメンということがしばしばあった。私は受験勉強をしていたので一番遅く起きると、父と妹はもう出かけていて、私の分のラーメンが鍋に残っていた。その頃はもう、とうに母はいなかった。
中学も高校も給食はなく、弁当を持っていかなければならない。父は私に弁当を作ってくれた。だいたいは、電気の魚焼き器で焼いた鶏肉の塩焼きか、特産だったマスの小ぶりの塩焼きが、ご飯と一緒に弁当箱に入っていた。父はサンドイッチ作りが得意だった。とはいえ、ハムとレタスとバターしか入っていない。それを一口食べた級友は、お前のお母さんは料理が上手だね、と言っていた。
私と妹は、クリスマス近くになると父がケーキを買ってきてくれるのではないかと心待ちにしていた。実際、買ってきてくれることもあった。丸いクリスマスケーキのことも、カットされたケーキのこともあった、一度だけ、アイスケーキを買ってきてくれたのは今でも記憶に残っている。それは私が食べた最初で最後のアイスケーキだった。でも、クリスマスにもケーキではなく、当時流行っていたチョコバーだけのこともあった。父は、これがケーキだ、と笑って言った。
ときどき、食べ物がなくなると、私と妹は最後の食べ物をめぐって争った。妹が泣き出すと、父は、妹にやれ、食いもんのことで喧嘩するな、たった二人の兄妹(きょうだい)じゃないか、とたしなめた。また父は、残りを全部食べろという時に、さらえろ、と言った。最近になって妹は、あれは、父の出身地の京都の方の方言だった、周りの人に通じないので調べたから、と教えてくれた。
母がいなくなった後、近くに住んでいた祖母や、まだ嫁いでいなかった一番若い叔母が、クリスマスに訪ねてきた。小学生と中学生の私たち兄妹が寂しいと気遣ったのだろう。中学一年の私は得意だったギターで伴奏して、妹と二人、彼らの前で「清しこの夜」を歌った。でも、長じて三年生ともなると、歌うのはもう気恥ずかしかった。それでも祖母は一生懸命、歌ってくれた。孫が大学生になるまで生きているとは思わなかったな、と言っていた祖母は、私が大学三年の時に亡くなった。
「掃き出し窓」という言葉を覚えたのは、ずっと後、いい大人になってからのことだ。雪国のこととて、窓は二重になっていて、間にスペースがあった。小さい頃はそのスペースに入(はい)れた。掃き出し窓の前に、小三の時には最初の勉強机が置かれた。冬は内側の曇りガラスの窓を開けて、外に雪が積もったか見た。エンジンの音がして、父がテラスにバイクを駐(と)める。私と妹が駆け寄る。ほら、掃き出し窓が外から開(ひら)く。