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SENSATION[サンサシヨン]

Sensation:印象・感覚・刺激・興奮 Concept:雑草魂 Keyword:20世紀ノスタルジア

コタツの話

2017-02-05 11:38:00 | endroit
アルベール・カミュは閉所恐怖症だったらしい。飛行機に乗れなくて、それで日本に来なかったし、『アメリカ・南米紀行』は船旅である。最後は自動車事故で亡くなったわけだが、それはカミュにとっては最悪だっただろう。まあ事故死など、すべて最悪に決まっているのだが。

ところで閉所嗜好というものもある。学生時代、友達の友達という縁で何度か話した医学部の精神科志望の学生は、それはやはり子宮回帰願望と関係あるでしょう、と月並みなことを言っていた。(しかし彼がなぜ私に興味を持って何度もアパートに遊びに来たのか、今もって謎である。こっちはまだ卒論も書かない単なる文学少年だよ? とにかく彼の持ってきたショートケーキをぱくついて、彼の持ってきたウィスキーを紅茶に垂らした。)

初めは、洋ダンス。下に二段の引き出しがついていて、上の洋服掛けのスペースは子どもにはちょうどいい高さだった。そこに入って扉を閉めると、ほとんど真っ暗になるが、扉の隙間から光が漏れてくる。それで完全な孤独にはならないのだった。子どもの私はバターが好物で、タンスに上がってそこでバターを食べていた。(食べていた、のだ本当に。1個くらいは食べたようだ。)だが成長して重くなったためか、仕切りの板を踏み抜いたことを、父はその後、多少恨みがましく、いつまでも言っていた。あれは彼らの新婚道具だったはずだから。

それから、押入れ。これは誰にも記憶があるだろう。小川洋子の『猫を抱えて象と泳ぐ』のリトル・アリョーヒンが、やはり閉所嗜好者で、押入れを改造した小部屋で寝て、天井にチェスのマス目を描いてもらったのは、閉所マニアとしては快哉を叫ぶ場面である。小川さんの小説は、(『アンネの日記』由来の)監禁のモティーフが頻出するので、しぜん、閉所も頻出する。一つだけ挙げれば、『最果てアーケード』集中の「ノブさん」は、ドアノブ屋で陳列されているドアノブの奥に小部屋があって、そこで母を喪った少女が心を癒される話だ。傑作である。いや、小川作品はどれもこれも傑作なのだが。

最近、部屋にコタツを入れた。冬場、私は温風ヒーターの設定温度をいつも12度にしている。それ以下に設定できないからだが、これで通常は室温が14度くらいにはなる(外気温がマイナス5度以下などでない限りは)。コタツに当たっている時は、温風ヒーターを止めても下半身から十分に暖かい。手が冷えると手も中に入れて暖まる。北国の子どもにとって、コタツほど身近な閉所もないだろう。ずっぽりと腰、腹まで入って温(ぬく)まっていると、父は必ず、ケツから入るな、と叱った。いや、文字通りケツ「から」入るのは難しいよ、とその時は思ったが、コタツに入ると動けなくなることは確かである。

春になるとコタツは片付けられるが、しばらくは部屋に立てかけてあった。それで、例の洋ダンスと、隣の部屋との間を仕切る襖のL字の部分に、コタツ本体と天板とを使い、上からコタツ布団を掛けて密閉空間を作る。完全に立方体の閉鎖空間ができるのだが、やはり子どもにとっては開口部もないと不安である。そこで、掃除機のパイプを通して空気の通路を作る。これは、外部との連絡にも一役買った。妹と二人、コタツ空間の内外でこのパイプを伝声管にして連絡を試みている私に、去年亡くなった母は、汚い、やめなさい、と言ったが、無理にやめさせるわけでもなかった。

私は小学校の中学年くらい、妹は幼稚園の年長くらいだっただろう。その後、程なくして病んだ母は、その頃は、まだまともなことを言うことができたわけだ。掃除機のパイプが汚いなんて、その時は全く思わなかった。今でも、あまり思わない。妹はこんなことを覚えていないだろう。私はといえば、今でもなお閉所嗜好である。これは直るものではなさそうだが、別段、広場恐怖症でもないので実害はない。でも、特に広々としたところが好きということはない。乗り物の中や、小さな部屋に閉じこもっている時が一番安心することは変わらない。それにしても、彼はちゃんと精神科医になっただろうか。

計機工場の話

2016-08-14 09:16:00 | endroit
学校から帰ると鞄を投げ出し、自転車の前かごにボールを乗せて計機工場へ向かう。北へ行くと左はとうもろこし畑、右はりんご園。それを過ぎると高い欅林があり、やがて精神病院の箱清水から右へ折れて、直進すれば大通に合流する。その角に、木立に囲まれた計機工場があった。向かいは高校だ。そこは、造成地の草野球と並んで、もう一つの根拠地だった。

計機工場は計機工場だったのだろう。つまり、計機を作っていたに違いないのだが、外から見ると窓の向こうに確かに機械が動いていそうな気配と、それから窓の下の廃棄物の箱に、ネジ切りとか板金とかその手の金くずが見える以外に、何をする工場だったのかよく分からなかった。そこは「ケイキコウジョウ」という名の固有の場所だった。しかし、そこにはバレーコートがあって、夕方、ラフな仕事着の従業員たちが出てきてボールを打ち始めるまで、常時ネットを張りっぱなしのコートは私たちの独壇場だった。もちろん、ネットの上に手など届かない。だから、サーブを打って、山なりのボールを相手に打ち返す繰り返しをバレーと称していたに過ぎない。でも、私たちはそれなりに真剣だった。

木立で区切られた隣にはテニスコートもあり、さらにその向こうは一面の草わら(空き地)だった。横は医大のグラウンド、奥へ行くとたばこ試験場の広い敷地があった。一度、たばこ試験場から出火した際、父のバイクに乗せられて見に行った覚えがある。冬ともなるとその一帯は見渡す限りの雪の原となり、ネットが撤去されてバレーのできない私たちはそこを走り、転げ回って遊んだ。こんどバレーをやるんだ、と言うと、父は革のボールを買ってくれた。そのボールは、何年か経っても友だちの中で一番白かった。

あの時の友だちの名前をすべて覚えている。男女半々の6人メンバーで、中心は女の子だった。ちょうど「サインはV」が流行った頃で、私は(ジュン・サンダースの)骨肉腫に罹らないか本気で怖がった。もちろん、毎週欠かさず見ていた。基本的なルールや、回転レシーブだの何だの、教本も指導者もなくそれから学んだ。野球のルールだって勉強したわけではない。TVラジオを見て聞き、あるいは知っている友だち同士で教え合って、いつの間にか覚えてしまう。ユニフォームを着たり、指導者について本式のグラウンドやコートで練習をする、などというのは、遠いどこか(都会)の話に過ぎなかった。

とはいえ、時たま試合はあった。普段は単に球のやり取りをしたり、3人ずつに分かれてネットを挟んで打ち合ったりするだけだったが、隣の組にも似たようなグループがあり、そのチームと対戦をしたのである。その日ばかりは先生に頼んで日曜日に来てもらい、校庭にネットを立て、ラインを引いて試合を行った。先生が審判をしたのだっただろうか。その先生は私の父と同い年だったが、脳いっ血で若くして亡くなった。卒業後、道で会ったとき、私の顔を見て「髭おがって!」(髭生えたな)と言われたのが最後の言葉だ。先生は、私たちが(かなり真剣に)バレーをやっている、ということを認識していただろう。

スポーツ店に行って、膝当て、肘当てやゼッケンを買い込んだ。試合と言っても、普段から攻撃の練習は全くしていない(ネットが高くてできない)のだから、サービスポイントを別とすれば、相手のミスで得点する以外にない。勝った気もするが、どちらが勝ったのかもはっきり覚えていない。「時たま」と書いたが、2度目があったかどうかもはっきりしない。けれども、こうして試合ができるのだ、と思ってまたいつものかなり真面目な練習(遊び)に戻った。それにしても、自分たちはチームだ、という確認や約束をしたこともなく、文字通り自然発生的に集まっていたのだ。

中心の彼女はバレー以外のことでも皆の中心だった。彼女は言葉遣いから何からとても大人びて見えた。私も含めて男の子は彼女に憧れていただろう。私たちのグループ以外から見れば、あれは女の子に率いられた妙な連中だと映っていたに違いない。一度、バレーコートのことで少し揉めたのだったか、彼女が工場の従業員(もちろん大人だ)に手紙を書いたことがあった。直接渡したのではなく、手紙をネットにでも結びつけたのだったか。彼らは何の断りもないのに勝手にコートを使わせて、ごくまれには打ち方を教えてもくれたのだ。

中学への進学が決まった後、彼女をバレーコートに呼び出してちょっとだけ話をした。いや、何も話をしていない。彼女は、これからすぐ人と会う約束があるから、と言い、私も特に用はなかった。それが、あれほど通い詰めた、あの計機工場に行った最後である。あの頃、いずれ何かがなくなるとか、失うという予感や観念を全く持っていなかった。とはいえ、後から思えば、あれは自分なりにその時間の終末を区切る行為だったかもしれない。

計機工場はなくなり、バレーコートもテニスコートも跡形もない。木登りをした工場の木立も失われた。今あの辺りは、銀行、スーパー、そして例によって住宅地だ。高校だけは建物の代が替わって今でもある。バレーのルールもかなり変わったが、ただ、ボールのあの革の匂いとともに、木立と藪に囲まれたコートの地面を走って跳んで転げ回った感触だけは、体の芯に浸みついたままである。

遊び疲れて夕暮れになり、白いボールが見えなくなると、私たちは分かれ、また自転車に乗って帰って来る。精神病院の急な角を曲がる時、無灯火の私はバイクとぶつかりそうになり、怒鳴られることもあった。夏でもその時間になると汗が冷えて涼しくなった。欅林もりんご園もとうもろこし畑も、すべて黒い影となり、朔太郎の詩に出てくる自然の魔物のようだ。家に入ると、ことのほか灯がまぶしく感じられた。明日もまた、ボールを追うのだ。

篠竹の藪

2016-08-13 11:53:00 | endroit
家を出て西側にしばらく歩くと河が流れていた。最初その辺りは一面、大人の背丈ほどの篠竹の藪だった。それが河岸まで続いていた。次には、人一人通れる小道が切り開かれた。その道を切り開いたのが父であったかどうか分からないが、たぶん違うだろう。物理的な能力以前に、そもそも勝手に道を通すことは父にできるはずがない。その頃の父は、35歳くらいだっただろう。一緒に歩くたび、篠竹の切株で足を踏み抜くなよ、と言われた。父は篠竹を少し切り取ってきては、それを立て並べて庭の花壇を作っていた。

篠竹の小道をはるかに進むと(子どもの私にとって、それははるかな道だった)、最終的にはやはり藪に隠された河の入江に行き着いたようだ。だが、そこまで行ったのがその頃なのか、もっと後なのか、記憶の時間が錯綜している。その手前はわずかな低地に田んぼがあり、細い用水路や肥溜もあった。入江では流れが緩やかになり、岸近くでは逆流していた。浮かんでくるビン類がゆっくりと回って流れるのを、飽きもせずに見ていた。

ただ、それは北から南へ流れる河のやや上流方面で、下流は切り立った断崖絶壁となっていた。手掛の松、という名前のある旧跡の辺りだ。そこは火山岩が露頭となった文字通りの断崖で、川辺に降りると、コンクリートで固めた古い船着場の跡があった。もっとも、それを私は今でも船着場と信じているが、根拠があるわけではない。その前の水は、底の見えない深い淵になっていた。

その河の水は上流にある鉱山の排水のため、黄土色に濁っていた。酸性度が高く、河底にまで続く火山岩脈の露頭が、赤く侵食されていた。上流にダムができ、貯水するために放流を止めることがあると、川底がほとんど露出し、飛び石を伝って河の真ん中や、中洲まで渡ることができた。やや大きめの中州では、蛇の抜け殻を見つけた。放流が始まる際に、一帯には録音の警報(女声)が流される。発電、放流のため、河の水が増えてきます。河に、入らないでください。その声は決して忘れられない。

やがて、ブルドーザーが篠竹の藪をなぎ倒し、道を付けた。その頃には高台の側には畑が出来、畑の西側には防風林がまばらに作られていた。これもまた、篠竹の藪と同時的だったのかも知れない。まだ周りには一軒の家もなかった。今は一帯が住宅地となっている。その住人たちに、あなた方が来る前のことを私は知っている、と言いたい気がするが、何、私だってよそから来たのであり、篠竹の藪以前のことは知らないのだ。冬になると河の方へと吹き下ろす風で雪が砂丘を作っていた。まさに風紋が、陽が当たると雪の上に影を落としていた。

防風林の下は家の高さほどの切り通しの崖で、そこから断崖まで、土地は削られてならされていた。削った土を断崖の斜面の方へ寄せて行く方式で造成されている。前からあった電柱が、土台部分の周りをすべて抉られ、土を円柱形に残して見上げるように高く立っていたのを覚えている。あれは不思議な光景だった。電柱がまるで電線にぶら下がっているように点々と続いていた。造成地は区画され、まばらに家が建って行くが、数年の間は子どもたちの格好の遊び場だった。

まだ柔らかな造成地は、雨が降るとぬかるんだ。断崖の近くで遊んでいたら長靴が地面から抜けなくなり、靴を脱いで家に帰ったことがある。切り開かれたばかりの造成地は、河へと落ち込む斜面に以前からの木々が残っていて(そのうちのあるものは造成に伴ってなぎ倒されていたが)、冬になると野ウサギの足跡や糞が見られた。一度は逃げ去って行く冬毛のウサギの姿を見たこともある。

区画に壁ができると、その区画を使って子供たちは野球をした。広さも人数も足りないので、いわゆる三角ベースというやつだ。敵味方を一応分けるが、足りなければ互いに補い合う。一塁手も二塁手もいない時は、球が投手に返るまでの時間を一、二、三というように声で計って、一定時間に戻らなければセーフ、戻ればアウトにした。打球が壁を越えればホームラン。せいぜい、住宅地二区画でやっているのに、球がよくなくなった。新球を買ってほしいという私に、父は、皆で出し合って買えよ、とよく言っていた。結局はいつも買ってくれたが。

父は、グローブとキャッチャーミットを買ってくれた。キャッチャーミットを持っている子どもはいなかったので、いつもそれを皆で使っていた。バットは持っていなかったので、それは誰かに借りていた。ファーストミットを持っていた年長の友だちが、中学校へ進学した後だったろう。久しぶりに、野球をやろう、と誘うと、すっかり大人びた彼はそれでもミットを持って一緒に来てくれたが、あの区画には既に家が建っていて、もう野球のできるスペースはどこにもなかった。篠竹も畑も防風林も野ウサギもすべてが消え、今では川辺の断崖まで、びっしりと住宅が立ち並んでいる。

今朝、父に電話して母の容態を聞いた。小康状態だな、医者は新たな治療法を試みる、と言っていたが、と父は語った。すべては、五十年前の記憶だ。

教会のある風景

2016-08-11 09:42:00 | endroit
河がすぐそこまで来ている公園の
上には教会の尖塔が見えていたはずだ
定時に鐘が鳴らされた憶えがある
その鐘の音を「あんじぇらす」と友は詩に書いた

彼は手紙を「友よ」と書き出していた
その言い回しを今は借りてみる
その友と何十年も会っていないように
その町はもうどこにもありはしない

公園の柳の枝が目の前の河の面まで垂れていた
河はさざ波で光りながら 柳の葉を揺らしていた
(河の流れて行く方が南だ)
だがほんとうにあの風景はあったのだろうか

河の名前はよく知っていて
それは片時も忘れるはずがない
だがその名に含まれる神話的要素は不要だ
それはただ あの光景の一部を占める河にすぎない

子どもに町名など関係ないから
あの鉄棒のあった小さな広場が
どこの町だったかも分かりはしない
ただそれが どの辺りかその感覚は体で覚えている

いつか行っても訪れないだろう
それどころか 確実に今はもうないだろう
あそこでいったい何をしたのだったか
ただ行っただけ ということがあるだろうか

あのときあそこでデジャヴュを見た気がする
今デジャヴュを見たよ と言った気がする
教会と公園と柳と河のある あの場所で
だがほんとうにあの景色はあったのだろうか

あれほど公園が河面近くにあったとは思われない
二つの異なる場所を結びつけただけだったのかも知れない
だが あの景色はほんとうにあったのだ
私がそれを記憶しているかぎり


高原について

2014-01-29 12:45:00 | endroit
駅に着くとすぐに電車が入線した。

目の前に券売機がある。

目的地を探そうと表示を見るが、行こうとする「○○高原」がどこの高原か思い出せない。

区界、遠野、奥新川、面白山、あるいは、ニセコ?

焦っているうちに電車は走り出す。

   ……目覚めてからもしばらく、ここがどこか分からなかった。

      たびたび見る夢。