
大学の旧正門から続くスロープで、冬はスキーをした。この道はもっと広い道だと思っていた。台風で街路樹が倒壊したので植替したらしい。正門だった頃にはこの辺にも学生が多くて、子どもと遊んでくれた。今、学生はちらほら自転車で通るだけ。坂の終わりの梨木町裏踏切の近くに、友達の家があった。部屋で相撲を取り、外で銀玉鉄砲や2B弾で遊んだ。踏切を越えて道は左に折れ、夕顔瀬通を横断して、私の入学した小学校まで歩いた。ものすごい暑さ。ちょうど一年生が先生に先導されて下校してきた。道だけは変わっていない。
道を戻る。この角に犬がいて怖かったのを覚えている。踏切から左に折れる。銭湯に行く途中、この辺の水路で蛍を見た。まわり中、田んぼで、夏、窓硝子はウンカでびっしり覆われた。縫針と蠅で蛙を釣った。蝗の群れ。今は全く、民家で埋まっている。田んぼの中に建った社宅アパートは、今もアパートだ。このコンクリートで膝に擦り傷を作った。黒いブロック塀の古さは当時のままかも知れない。私の育った借家群は、今でも貸家のように見えた。あの頃どの家にも子どもがいた。今は住宅地なのに人気がない。

道の向こう側に山田線の線路が見えた。初めは蒸気機関車が走った。食品工場が出来て、廃水池に水生昆虫が発生した。田んぼは色を変える。緑、黄、そして刈り入れが終わり、茶色の地肌が出る。私が気管支炎になった時、父は私を負ぶってこの田んぼを突っ切り、正門から農学部を抜け、一高の脇を通って、上田通りの山田医院まで連れて行ったはずだ。その道のりは、当時としても遠かっただろう。あの2年間は、最近の2年間の10倍くらいの長さがあった。
虫の群れ、雪遊び、子どもたち。あれから私はその時間と魂とをこの場所に置いたまま、40年間、無意味な人生を過ごしてきた。おとなの仕事は、ふるさとに帰ることではない。その意味が何だか分かったような気がした。ここに帰ってきて、その時間と一致することなどできはしない。たとえ出来たとしても、何かが生まれるわけではない。おとなの仕事は、今もこれからも、分かり切っている無意味な人生を続けることでしかないのだ。でも、私はこの場所を忘れない。