寮の隣は高校のグラウンドだった。前には幼稚園があった。(この幼稚園に入るのかな)と、幼心に考えていた。転居したのでそうはならず、転居先の町の幼稚園はいっぱいだったので、結局私は幼稚園には行かなかった(と、最近になって私は父から聞いた)。
グラウンドではいつも野球部が練習をしていた。守備に散らばる部員たち。打撃と捕球の音。白い帽子とユニフォーム。父は幼い私を連れて野球を見に来て、草の生えた土手の上に座っていた。土手の土から古い乾電池を掘り出した私は、それを思い切り父の背中に投げた。後ろを向いていた父の背骨のあたりにそれは命中し、痛がった父は、家に帰ってからも、(こいつが投げたのが当たってな)と母に言って、自分で背中をさすっていた。
グラウンドのはるか向こうで、夕陽が雲と山を焼いていた。
幼稚園の道から寮の敷地に入ると、右側のグラウンドとの仕切りに高いトタンの塀があった。左側に寮の建物があり、共同の勝手口にはたくさんの靴があって、足洗いの水道が出ていた。水遊びをしていた私は、ひしゃくで水をすくっては、寮の住人(つまり高校の先生やその家族)の靴に、一つずつ水を入れていた。
勝手口を入って廊下の右側に部屋があったはずだ。たぶん、台所と居間の二間だっただろう。台所には、黒く細い鉄パイプの脚のある食卓テーブルがあり、その卓(の裏)を私はいつも下から見上げていた。居室の窓の外には植え込みの庭があり、その庭で私は遊んでいて、外から中を見た覚えがある。父と母のいる部屋の中では、テレビで時事放談をやっていた。あるいは、大雨とあじさい。
寮は二階建てだったはずだ。廊下の両側に階段があって、一方の階段の下には便所があった。子どもたちがたくさんいて、階段を上ったり下りたり走り回った。ある日、私は便所に入り、過って壺の中に落ちたのだが、下には何もなく、足が立つ高さだった。それでも、一人では上がれなくて大声で泣き、誰か大人が来て助けてくれた。その時にその人が便所のドアから顔を見せたのを覚えているような気がする。
「及新」というのが市内唯一のデパートだった。母が(今日は及新に行く)というと嬉しくなったものだが、子どもがそうであるように私はデパートでは駄々をこねたのだろう。父は、(チリ地震津波で船が町中に打ち上げられたのを見に行った)と言うのだが、それは覚えていない。でも、文字通り湾曲した入り江を自転車に乗せられてぐるっと回って見たのは今も目に浮かんでくる。(峠から見ると、製鉄所のせいで町がもやの下に沈んで見える)という話もあった。
プラモデルがとても流行した頃だ。父は私のために(あるいは自分のためにも)、しばしばプラモデルを買ってきては組み立てた。戦車、戦闘機、戦艦……。板塀を背景に、プラモデルの箱を手に嬉しそうに笑っている私の写真が残っている。ロケットのプラモデルを父が作り、バネで空に飛ばしてパラシュートで回収するというので、近所の空き地に出かけて発射した。だが、パラシュートはきちんと開かず、それは近所の屋根に上がってしまい、一度で取れなくなった。
祖父も、父と同じ高校に勤めていた。祖父は、幼稚園の方から寮の玄関に来ては、鞄からヨーグルトの瓶をひとびん出して、それを私にくれた。黄色いヨーグルトの甘味が目当てで、私は毎晩、玄関に出て祖父の帰りを待った。夕闇の迫る道の向こうに、幼稚園の白い柵と建物が見えた。(この幼稚園に入るのだな)と、私は思っていた。
祖父の大きな黒い革鞄。
沿岸部にしては、冬はけっこう雪が積もった。寮は、その当時既にかなり古びて黒くなっていた。高校のグラウンドと隔てる寮のトタンの塀も、ところどころ穴があくほどだった。その黒い塀も、下の方が吹きだまりの雪に埋もれて見えなくなった。でも、暑い寒いという感覚はまだなかった。私の幼い頃。釜石市はそんなところだった。
グラウンドではいつも野球部が練習をしていた。守備に散らばる部員たち。打撃と捕球の音。白い帽子とユニフォーム。父は幼い私を連れて野球を見に来て、草の生えた土手の上に座っていた。土手の土から古い乾電池を掘り出した私は、それを思い切り父の背中に投げた。後ろを向いていた父の背骨のあたりにそれは命中し、痛がった父は、家に帰ってからも、(こいつが投げたのが当たってな)と母に言って、自分で背中をさすっていた。
グラウンドのはるか向こうで、夕陽が雲と山を焼いていた。
幼稚園の道から寮の敷地に入ると、右側のグラウンドとの仕切りに高いトタンの塀があった。左側に寮の建物があり、共同の勝手口にはたくさんの靴があって、足洗いの水道が出ていた。水遊びをしていた私は、ひしゃくで水をすくっては、寮の住人(つまり高校の先生やその家族)の靴に、一つずつ水を入れていた。
勝手口を入って廊下の右側に部屋があったはずだ。たぶん、台所と居間の二間だっただろう。台所には、黒く細い鉄パイプの脚のある食卓テーブルがあり、その卓(の裏)を私はいつも下から見上げていた。居室の窓の外には植え込みの庭があり、その庭で私は遊んでいて、外から中を見た覚えがある。父と母のいる部屋の中では、テレビで時事放談をやっていた。あるいは、大雨とあじさい。
寮は二階建てだったはずだ。廊下の両側に階段があって、一方の階段の下には便所があった。子どもたちがたくさんいて、階段を上ったり下りたり走り回った。ある日、私は便所に入り、過って壺の中に落ちたのだが、下には何もなく、足が立つ高さだった。それでも、一人では上がれなくて大声で泣き、誰か大人が来て助けてくれた。その時にその人が便所のドアから顔を見せたのを覚えているような気がする。
「及新」というのが市内唯一のデパートだった。母が(今日は及新に行く)というと嬉しくなったものだが、子どもがそうであるように私はデパートでは駄々をこねたのだろう。父は、(チリ地震津波で船が町中に打ち上げられたのを見に行った)と言うのだが、それは覚えていない。でも、文字通り湾曲した入り江を自転車に乗せられてぐるっと回って見たのは今も目に浮かんでくる。(峠から見ると、製鉄所のせいで町がもやの下に沈んで見える)という話もあった。
プラモデルがとても流行した頃だ。父は私のために(あるいは自分のためにも)、しばしばプラモデルを買ってきては組み立てた。戦車、戦闘機、戦艦……。板塀を背景に、プラモデルの箱を手に嬉しそうに笑っている私の写真が残っている。ロケットのプラモデルを父が作り、バネで空に飛ばしてパラシュートで回収するというので、近所の空き地に出かけて発射した。だが、パラシュートはきちんと開かず、それは近所の屋根に上がってしまい、一度で取れなくなった。
祖父も、父と同じ高校に勤めていた。祖父は、幼稚園の方から寮の玄関に来ては、鞄からヨーグルトの瓶をひとびん出して、それを私にくれた。黄色いヨーグルトの甘味が目当てで、私は毎晩、玄関に出て祖父の帰りを待った。夕闇の迫る道の向こうに、幼稚園の白い柵と建物が見えた。(この幼稚園に入るのだな)と、私は思っていた。
祖父の大きな黒い革鞄。
沿岸部にしては、冬はけっこう雪が積もった。寮は、その当時既にかなり古びて黒くなっていた。高校のグラウンドと隔てる寮のトタンの塀も、ところどころ穴があくほどだった。その黒い塀も、下の方が吹きだまりの雪に埋もれて見えなくなった。でも、暑い寒いという感覚はまだなかった。私の幼い頃。釜石市はそんなところだった。