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SENSATION[サンサシヨン]

Sensation:印象・感覚・刺激・興奮 Concept:雑草魂 Keyword:20世紀ノスタルジア

塀とヨーグルト

2011-04-17 21:01:00 | endroit
 寮の隣は高校のグラウンドだった。前には幼稚園があった。(この幼稚園に入るのかな)と、幼心に考えていた。転居したのでそうはならず、転居先の町の幼稚園はいっぱいだったので、結局私は幼稚園には行かなかった(と、最近になって私は父から聞いた)。

 グラウンドではいつも野球部が練習をしていた。守備に散らばる部員たち。打撃と捕球の音。白い帽子とユニフォーム。父は幼い私を連れて野球を見に来て、草の生えた土手の上に座っていた。土手の土から古い乾電池を掘り出した私は、それを思い切り父の背中に投げた。後ろを向いていた父の背骨のあたりにそれは命中し、痛がった父は、家に帰ってからも、(こいつが投げたのが当たってな)と母に言って、自分で背中をさすっていた。

 グラウンドのはるか向こうで、夕陽が雲と山を焼いていた。

 幼稚園の道から寮の敷地に入ると、右側のグラウンドとの仕切りに高いトタンの塀があった。左側に寮の建物があり、共同の勝手口にはたくさんの靴があって、足洗いの水道が出ていた。水遊びをしていた私は、ひしゃくで水をすくっては、寮の住人(つまり高校の先生やその家族)の靴に、一つずつ水を入れていた。

 勝手口を入って廊下の右側に部屋があったはずだ。たぶん、台所と居間の二間だっただろう。台所には、黒く細い鉄パイプの脚のある食卓テーブルがあり、その卓(の裏)を私はいつも下から見上げていた。居室の窓の外には植え込みの庭があり、その庭で私は遊んでいて、外から中を見た覚えがある。父と母のいる部屋の中では、テレビで時事放談をやっていた。あるいは、大雨とあじさい。

 寮は二階建てだったはずだ。廊下の両側に階段があって、一方の階段の下には便所があった。子どもたちがたくさんいて、階段を上ったり下りたり走り回った。ある日、私は便所に入り、過って壺の中に落ちたのだが、下には何もなく、足が立つ高さだった。それでも、一人では上がれなくて大声で泣き、誰か大人が来て助けてくれた。その時にその人が便所のドアから顔を見せたのを覚えているような気がする。

 「及新」というのが市内唯一のデパートだった。母が(今日は及新に行く)というと嬉しくなったものだが、子どもがそうであるように私はデパートでは駄々をこねたのだろう。父は、(チリ地震津波で船が町中に打ち上げられたのを見に行った)と言うのだが、それは覚えていない。でも、文字通り湾曲した入り江を自転車に乗せられてぐるっと回って見たのは今も目に浮かんでくる。(峠から見ると、製鉄所のせいで町がもやの下に沈んで見える)という話もあった。

 プラモデルがとても流行した頃だ。父は私のために(あるいは自分のためにも)、しばしばプラモデルを買ってきては組み立てた。戦車、戦闘機、戦艦……。板塀を背景に、プラモデルの箱を手に嬉しそうに笑っている私の写真が残っている。ロケットのプラモデルを父が作り、バネで空に飛ばしてパラシュートで回収するというので、近所の空き地に出かけて発射した。だが、パラシュートはきちんと開かず、それは近所の屋根に上がってしまい、一度で取れなくなった。

 祖父も、父と同じ高校に勤めていた。祖父は、幼稚園の方から寮の玄関に来ては、鞄からヨーグルトの瓶をひとびん出して、それを私にくれた。黄色いヨーグルトの甘味が目当てで、私は毎晩、玄関に出て祖父の帰りを待った。夕闇の迫る道の向こうに、幼稚園の白い柵と建物が見えた。(この幼稚園に入るのだな)と、私は思っていた。

 祖父の大きな黒い革鞄。

 沿岸部にしては、冬はけっこう雪が積もった。寮は、その当時既にかなり古びて黒くなっていた。高校のグラウンドと隔てる寮のトタンの塀も、ところどころ穴があくほどだった。その黒い塀も、下の方が吹きだまりの雪に埋もれて見えなくなった。でも、暑い寒いという感覚はまだなかった。私の幼い頃。釜石市はそんなところだった。

ケンタウルス、露をふらせ

2010-03-23 17:49:00 | endroit
 夜、部屋を閉め切り、こつそり、その地図を開いた。赤、緑、黄の美しい絵模様。私は、呼吸を止めてそれに見入つた。隅田川。浅草。牛込。赤坂。ああなんでも在る。行かうと思へば、いつでも、すぐに行けるのだ。私は、奇蹟を見るやうな気さへした。


 私はSD市の高台にあるK町といふところで、賄(まかな)ひ付きの下宿に住んでゐた。隣の部屋の工学部生から譲り受けたアルバイトのため、下宿のをばさんに、朝6時に朝食を出してもらつてバスに乗り、高台から下りて、駅からSS線で隣のSG市の電電公社に出かけた。仕事は電設工事の手伝ひで、自動交換機の林立するフロアの頭上に配電スペースがある。鉄骨で組まれた櫓(やぐら)といふ案配だ。配電スペースだから、腕ほどもある太い電線が縦横に蛇行してゐるほか、巨大な電流を通すために、赤青に塗り分けられた鉄道レールのお化けみたいなエ字型のバーが渡されてゐる。その、地上3mほどの櫓に上がり、さらにその2mほど上にある天井に火災感知器を点々と設置し、それらの間を電線で結んで電源に接続する。

 私はその仕事の下働きとして、機材を運んだりゴミ掃除をしたり、あるひは作業員への伝令を受け持つたりした。初日は、カタカタ自分で動いて交換する機械が物珍しかつたが、上がつてみると3mといふのは思ひのほか高く、怖くてもうやめようかと思つた。だが、そこで私は半月の間働いた。

 棟梁はさらに隣のI市から来てゐて、やくざを気取つてゐたがいい兄(あん)ちやんだつた。一度はそのIの川開き祭に連れて行つてもらひ、彼のアパートに泊まつた。その町に河口のあるK川は、はるか北の、私の郷里から流れてくる川でもあつた。だからとても愛着があつた。夜、飲み屋から戻つて来て、布団を敷いた後、成田の管制塔占拠のニユースを二人で見た。右翼(やくざ)を自称してゐた彼は、(気持ちは分かるがソ連の旗を掲げるのは……)と言つてゐた。彼の書棚から私は五稜郭戦争の本を借りた。

 翌朝、車で出発し、途中で次々と若い作業員たちを拾つて現場に向かつた。若い作業員たちと私は、それなりに結構仲良くしてゐた。彼らの話は、女の子のことばかりだつた。そのうちの一人は、もう結婚してゐた。彼らは私を君付けで呼んでゐた。私の方が彼らより年上だつたのだが、私はどちらかといふと人に使はれるのが好きなのだ。棟梁は毎日、電電公社の食堂で私たちに昼飯を奢つてくれた。すみません、いただきます、ぺこりと頭を下げて食べる、わかめととろろ芋といふやうな昼食はうまかつた。

 どうしてこんな話を書くのか。これと卒業論文とは、思ひ出の中で切り離すことができない。半月の仕事の後、私は8万なにがしかのバイト料を手にした。棟梁は電設会社の事務所(それはまるきり掘つ立てのプレハブ小屋だつた)まで私を車で送つてくれた。私はお礼を言ひ、このことは一生忘れません、とやや大げさに付け足して、車の窓から手を差し入れて握手までしたのだが、実際、忘れてはゐない。それには理由がある。

 その8万のうち5万ほどを使つて、私は叢文閣版の有島武郎全集を、SD市の古本屋M堂から購入した。前から目を付けてゐたのだ。M堂の店長が、車でK町の下宿までそれを運んでくれた。2階の部屋から車が着いたのを見て、うれしくて階段を駆け下りた。まだ現行の筑摩書房版は出てをらず、全集は大正末・昭和初期に出た叢文閣版か新潮社版しかなかつた。全作品を網羅してゐたわけではなく、また勿論かなり古びてもゐたが、それでも天金の分厚い本が本棚に並ぶと壮観だつた。その時まで私の本棚にあつた全集は、1冊ずつ買ひ求めた新潮社のカミユ全集だけだつただらう。

 その3年の夏休みが終はると、唐突に、先生の「五十の賀」とかいふ触れ込みの宴会があつた。出席してみるとそれほどの人数でもなくて、いつもの飲み会とさうは変はらなかつた。卓から離れて、幾人かの同級生と私は話した。(夏休み何してたの?)と訊かれて、(アルバイトをしてゐた)と答へたのには、少し誇らしい気持ちが混じつてゐた。卒論を書く作家の全集を買ふために働いたのだ、と。

 本格的に卒論の勉強を始めたのは4年になつてからだ。それまで3年間住んだK町の下宿を出て、やはり山手のMが丘のアパートに移り、夏休みに全集を読み耽つた。もともと読みやすい組版ではなく、古い本なので染みや傷みもある。中でも英文日記が難物だつた。有島は候文の手紙や係り結びのある擬古文の日記も書くことができたが、他方では幼い頃から英語の教育も受けた人である。渡米渡欧の際の船旅の様子が、本格的な英文で書かれた日記には、当時翻訳はついてゐなかつた。

 Mが丘のアパートの一室で、昼からスタンドをつけて辞書首つ引きで唸つてゐると、窓の外から子どもたちがのぞく。その部屋は一階にあり、窓の外の狭い庭に子どもたちが勝手に入り込むことがあつた。女の子が(お勉強?)と言ひながら窓の下を通つて行く。欧州から帰る航海日誌のインド洋を過ぎたあたりで、「稲妻が光つてPhosphorescentな明滅が船の進路に見えた」といふやうな文章がある。Phosphorescent? 辞書を引いてそれが「燐光」の意味だと初めて知る。さういふことの繰り返しだつた。紙さへも黄ばんだその全集を読むのはつらかつたが、でも、これを読まないことには、ここから前へは進めないのだと、決意を固めて読み進めた。

 それから立派な筑摩書房版の全集が、第4巻の『或る女』を皮切りに刊行され、卒論を完成した頃には数冊も出てゐた。それには英文日記の翻訳もついてゐた。それから修論。修論を書き上げた時には、これで何とかなる、と感じた。村上春樹が『風の歌を聴け』を書いた時に、これで後は小説家としてどうにかやつていけると思つた、とどこかでいつてゐたが、それほどではないにしても、とりあへずこれだけのことが書ければ、これからもどうにかなるだらうとは朧気にも確信があつた。

 それ以来、30年になるのだが、そして間に10年くらゐは確かに遠ざかつてゐた時期もあるのだが、卒論と修論で学んで考へて書いた言葉の塊は、いつもいつも私の心の中のどこかにあつて、行き詰まると私は必ずそこへ戻り、解決に必要な言葉を取り出しては、何とかしのいで来た。SG市の電電公社の交換機の林と配線の束、その時一緒に働いた棟梁と仲間たち、見知らぬ港町を歩いた川開き祭の夜、古本屋とそこで買つた古ぼけた藍色の布張りと茶色の箱の全集。私の心の中にはまだまだあの頃仕入れた言葉の塊が詰まつてゐて、その言葉を使へばどんなところにだつて行ける。私には隅田川も浅草も牛込も赤坂も関係がない。現実よりも素敵な世界が夢の中にはあつて、その夢の通路をとほつて私はどこにでも行けるし、消えた(消えぬ)過去をもう一度体験することもできる。死んだ者や、もう二度と会へない人とも、会ふことができる。行かうと思へば、言葉を用ゐて、いつでも、そこへすぐに行ける。

 「綺麗な花だなあ。」
 と若い編輯者はその写真の下の机に飾られてある一束の花を見て、さう言つた。
「なんて花でせう。」
 と彼にたづねられて、私はすらすらと答へた。
「Phosphorescence」




※引用(順に)
太宰治「東京八景」
太宰治「フォスフォレッスセンス」
 

Snowy place

2009-03-21 20:18:00 | endroit
 朝になると、雪の砂丘ができていた。風の力で、片側が山になり、片側がけずり取られる、あの、砂丘の形に。雪の砂丘の縁(ふち)から、粉砂糖のように雪が吹き飛ばされて舞う。それが朝日にきらきらと光った。明るい朝。空は真っ青だ。

 それは、家の裏の畑地だった。もっとも、いつそこが畑地になったのか分からない。そのあたりは、川へと続く篠竹の藪が一面に広がっていた。道さえなかったその篠竹の藪を、人が二人通れるくらいの幅で刈り払い、川に出られるようにしたのが父なのか、そうでないのか、父に訊ねたところで、たぶんもう覚えていまい。

 それを覚えているのは、私だけだろう。

 あれほどきらきらと美しい雪を、私は見たことがない。あらゆるものが凍りつく、そんな厳しい朝に、私はなぜその場所にいたのだろう。もしかしたら、私はそれを見たのではなかったのかも知れない。しかし、それでも、その雪の場所が、私の場所であることに変わりはない。

 私はたくさんの町に住んだ。どの町も、雪の降る町だった。生まれた土地は、その緯度としては暖かな海岸だったが、地形的にたくさんの雪が降った。寮と校庭を隔てるトタンの塀に、吹きつけた雪が積もっているのを記憶している。でも、そこでの記憶はわずかしかない。

 ここでは、雪は幕となって打ちつける。降るというのではない。まるで、見えない中空に立った巨大な魔ものが、幕を払って叩きつけるように、雪の幕は何度も地表に打ちつける。暗く、見えない空から、灯(あかり)の差す高さに現れると、雪は面となって地表に折り重なる。あるいは、雪の弾幕。これでは、一晩でこれほども積もるわけだ。

 ある町では、一晩のうちに積もった雪が、まるで地上の流氷のように、多くの塊になってその辺に転がっていた。それほど降らない町なのに、降ると変な降り方をする、そういう町だ。着雪が電線を切断して長期間停電したり、凍結のため車が坂を登れなくなったりする、そんな町だった。(その町は坂の町だった。)そこでも、その朝、私は地上の流氷を避(よ)けたり、踏みしだいたりして外へ出た。

 また別の町。しんしんと静かに降り続ける雪が、すべての音を吸収して、夜はまったく沈黙が支配した。城跡の公園に、夜入ると、まるで隔離された島にいるような気がした。今はもう、そういう時間に入園することは許されないだろう。そういえば、私が住んだ町は、そのほとんどが城下町でもあった。城下町でない町の方が、むしろなじみが薄い。

 でも、雪の降る町は、生きている限りは、今でも見られるし、これからも見られる。私はそれをあなたに伝えることもできる。なぜなら、あなたもそれを見ることができるだろうし、見たことがあるように思われるからだ。ほら、これだよ、ここがそうなんだ、と言って、伴うことができるかも知れない。あくまでも可能性の話だけれど。

 しかし、雪の砂丘の形状、その美しさだけは、とても言葉で説明できるものではない。あるいは、学校へ通う途中、道の両側の高い松の木の枝が、道の上空で交差している、その枝々を、飛びうつる栗鼠が、空から雪の塊を落としてくる。栗鼠は、もちろん夏もいたのだろうが、冬になると、雪を落とすのでその所在が知れた。背景には真っ青な空。朝になると晴れわたる空が、気温をぐんと、おし下げるのだ。

 栗鼠は、とうに死んだだろう。高松の木々も、それを見上げた子どもも、今はどこにもない。畑地さえ存在しない。すべてが区画され、住宅地となり、雪は単なる天候となったのだろう。今でも、いや今は前にもまして、冬は、つらく厳しい。冬は、苦しく痛い季節だ。でも、私の中には冬があって、その冬は、もう存在しない根源として、私の心を支えている。雪の砂丘の美しさは、決して再現できず、伝えることもできない。私が死んだら、その記憶も一緒に死ぬのだろう。そのような映像、それがどれほどあることか。



 煙草試験場の前の、まっ白な雪に覆われた畑地を、仲間たちと歌を叫びながら走っていった。 

新しい町

2007-10-07 13:43:51 | endroit
 引っ越しの荷物に自転車を含めた。郷里の町では、川向こうの町外れの高校に合同練習に行くのすら、1時間近くもかけて自転車で行っていた。大学の授業が始まる直前(その大学には入学式がなかった)、キャンパスの周りを自転車で回った。でも、そこへ行くのは大変だった。急坂の山を越えていかねばならない。押して歩かなければならない距離が長すぎる。大学のバス停も坂の途中だった。勝手が違った。間もなく、私は長町駅前の日通まで自転車で行き、そのまま自転車を送り返した。それからその町を出るまで、私は自転車に乗らなかった。

 本棚はさっそく必要だったので、駅前のEという大きなスーパーに買いに行った。スチール製のがあったので、店員にこれを買うから、すぐ配達してほしい、と言った。若い男の店員は、忙しいらしく、これは展示用で、商品はここにはない、新潟県の倉庫から取り寄せなければならない、とイヤそうに言う。新潟県?(ここは宮城県なのに)と思ったが、要するに取り寄せるのが大変ですぐには無理だと言いたいのだなと思い、面倒になって買うのをやめた。それが新潟県ではなくて、苦竹(にがたけ)という地名であることを知ったのは、ずっと後のことである。あの町では、とにかく人とのコミュニケーションが難しかった。

 でも、その次の町ほどではない。その町の大学の近くの文房具店でシャチハタの替えインクを、他のものと一緒に買った。(よくこんなの見つけたね)と店のおばさんが言うので、そっちが店に並べたのじゃないかと思ったけど、(目を皿のようにして探したからね)と答えたら、(お客さん、ここの人じゃあないね)と言われた。そんな語彙が珍しかったのだろうか。ある事件のニュースで、(犯人は標準語を話していました)と伝えていた。他所者が常にマークされる町だった。自分たちに自信がないのだろう。そのくせ、強力な自尊心をもち、他所者とは違う、という意識も持っている。あの町の夜の暗さは深かった。

 今のこの町に来た時、真っ先に大学生協で自転車を買った。その晩、駅前のダイエーを目指して自転車で出掛けた。以前にも遊びに来て、ダイエーがあることは知っていた。その前の町にはダイエーはなかったが、代わりにイトーヨーカ堂がバスターミナルにあった。郷里の町でも、大学の町でも、私はダイエーで衣類を買っていた。ダイエーにさえ行ければ生活できると思っていた。――思ったよりダイエーは遠かった。思ったより、町は暗かった。ヨーカ堂の町の暗さから、少しは逃れられるかと思っていた。扇状地で、自転車にはややきつかった。クルマがないと暮らせない土地、というのが、この国の大半に広がっているのだ、ということを、私はようやく認識せざるをえなかった。

 この町の出身者に、「この町はいいところだろう?」と聞かれたことがある。「……」。私は5つの町に住んだ。生まれた町の記憶はわずかだから、4つと言うべきか。しかし、ある土地に望んで住んでいる人なんて、どれくらいいるのだろうか。いるとしたら、それはまことに幸運な人だ。この自由な社会においても、望む場所に自由に住むことは実際にはできない。できるのは、命ぜられてあるその新しい町に、できるだけ自分を順応させ、住んでいる間だけは歩調を合わせることだけだろう。

 町は、暴力である。その比喩は、ほぼ有効であると思う。もちろん、いい人もいれば悪い人もいるし、友達になる人も敵になる人もいるのは、どの町だって変わらない。もちろん、私はどの町でも多くの人にお世話になり、多くの店員さんに親切にしてもらった。でもね、やっぱりこう思わずにはいられない。住んで暮らすということは、余儀ない運命であって、自分では選べない、不条理な事態なのだと。

 私はまた、どこかの新しい町で暮らすだろう。その町を歩き回り、違和感を感じながら、それでもこの町に、しばらくの間とどまるほかはないということを、いつも感じ取って行くだろう。その町がどこであれ、私が生きて住むことを続ける限りは。

身体の地図

2007-08-09 09:40:46 | endroit
 朝日が部屋に差し込むころ、私は(ここはどこだろう?)と毎日のように思う。東側に面した窓だから、東側の感覚が身体に入ってくる。南からなだらかな斜面の細道を登ると、小さな五叉路に出る。丘の上の林檎園には牛がいて、時おり、鳴き声が聞こえる。さらに朝は鶏の声。

 この林檎園を突っ切ると祖母の家への近道だった。細道を下ると街へ続く平地が広がる。初めは田んぼ、次いで整地されて住宅地となり、そしてバイパスが通った。初めは私の部屋、2階の窓から、街の向こうの平野や山々まで見渡すことができた。だが、前の家がアパートに変わり、何も見えなくなった。畑も田んぼも今はない。林檎園すら、住宅地に変わってしまった。

 だが、それはここではない。朝日が部屋に差し込み、私が思う(ここ)は、ここではない。その家の窓は南側にあった。私はその家に10年ほどしか住まなかった。でも、9歳から18歳くらいまでの間のその感覚は、私の身体から決して外へ出て行かない。ここは、住宅地だが、山も川もバイパスも全然違う位置にあって、朝、目覚めてから身体感覚を修正するのに時間がかかるのだ。

 ここだけではない。どこで目覚めても、私という身体の地図は、一つだけしかない。あれから30年も経つのに、それは決して変わらなかったし、恐らくは死ぬまで、それは変わらないだろう。その地図は、私の身体に書き込まれていて、私だけにしか分からず、意味を持たず、そして私とともに消えるのだろう。

 それについて、書くべきだろうか。そんなことが、誰に何の意味があるのか。私だけにしか通用しない理法について、誰かに語るべきなのだろうか。いや、別にそれは身体地図だけの問題ではない。私が考えたこと、感じたことを、あなたに伝えることに、いったいどんな意味があるのだろう。その場合、意味、とは何なのか。あなたに尋ねたい。私にとって大事なことは、あなたにとっても大事なことなのか、と。