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野球日誌

プロ野球を始め、野球に関する私的日誌

背番号あれこれ(2)

2006-09-11 01:07:21 | 背番号物語


野手番号

 一般的に野手が一桁、投手が10番台の背番号が普通だ。厳密に言うと“10”は野手番号なので「一桁と10は野手番号」とか「10を除く10番台が投手番号」と言うべきか?

栄光の背番号”3”

 同じ一桁の中でも人気の差があり、やはりバッターの憧れの背番号と言うとミスタープロ野球、長嶋茂雄の3となるか?これは大きい背番号が普及してきた今日でもその傾向があり、3はまさしく「永久に不滅だ」。

 若い読者諸氏のために書いておくと、何もミスターが付けていたから3が大打者の代名詞になった訳ではない。もともと背番号3がバッターとしての勲章だから鳴る物入りで入団した長嶋に3を与えたと言った方が正しいだろう。それは長嶋とほぼ入れ違いに球界を引退した天才バッター大下弘も3を付けていた事からも分かる。特に大下は東急セネタースから西鉄ライオンズに移籍する際も背番号3を継続して付けたのだから、3に対してかなりの愛着があったと思われ、それは既に当時から最高のバッターの付ける背番号と位置づけられる証左になるのではないか?同じく昭和20年代は小鶴誠(松竹ロビンス)も付けていた。

 巨人でも初代背番号3は初の三冠王・中島治康だし、プロ野球発足当初から背番号3は打者の最高の番号だったと思われる。筆者の予想ではこれはベーブ・ルースが背番号3を付けていた事に由来するのではないか?因みに背番号3はニューヨーク・ヤンキースの永久欠番である。ただ、長嶋が “背番号3の御威光”をさらに広めたのは間違いあるまい。

”世界のビッグ1(ワン)”

 3とともにと人気の野手番号は“世界のホームラン王”・王貞治の代名詞ともいえる1。この1と3がやはり双璧の人気番号だろうか?

人気のない”2”

 同じ一桁でも2はあまり人気がない?70余年を数える我が国のプロ野球でも2の「スーパースターはまだ出ていない。広岡達朗(巨人など)が一番の大物か?メジャーではデレク・ジーター(ニューヨーク・ヤンキース)がいるが・・・。
4は、これは何も野球の背番号に限った話しではなく世の中一般的な事だが、「し」から「死」に通じて嫌われ、あまり日本人選手が付ける番号ではなかった。球界で唯一の4の永久欠番である巨人の4は黒沢俊夫選手の背番号であり、現役中に亡くなっている。子供心に思っていたがさほど実績のない黒沢選手の背番号が永久欠番になったのは「4が縁起が悪いのと、実際現役中に亡くなったからかなぁ?」なんて考えていた。勿論、投手上位の時代で終身打率3割を超えていたことからかなりの打者であったことは間違いあるまい。実績と殉職への畏敬の念から永久欠番にしたのかなと考えていた。

日本人に少ない”4”

 日本人選手に嫌われることで自然外国人が付ける事が多かった。外人投手の双璧の一人、阪神のジーン・バッキーはこの4を付けていた。そう言えば藪恵壹も晩年、4を付けていた。阪神タイガースというのは偶然か?4の投手は珍しいが、近頃では日本ハムの武田投手が付けていた。
私が記憶ある中では中日のモッカやヤクルト・近鉄のマニエルも4である。確か西鉄時代の基満夫選手が4だった記憶がある。それから西武時代の片平晋作選手。日本人としては珍しい4の選手だった。

 5も良い番号だがよく考えるとスーパースターが出ていない。

 6の大物と言えばロッテ・オリオンズの落合博満か?中日に移籍しても6を付けたが(何と6を付けていた上川が交換要員だったので空いていた)、巨人に移籍すると篠塚利夫(和典)が付けており、篠塚も首位打者2回の大物のため、さしもの三冠王も篠塚が現役の1年目だけは60を付けた。それが偶然にもプロ野球発足、つまり巨人の前身が出来て60年目、そして巨人第60代の4番打者ということで見事に語呂があった。世の中何が幸いするか分からない。
 古い世代なら6の代表として怪童・中西太を推す人も多いだろう。南海のスタンカ投手は投手では珍しい6。

 7はその中西の同僚、豊田泰光の背番号だが、その後は“世界の盗塁王”・福本豊が代表か?同時期にセリーグで盗塁王として活躍した、赤い手袋・柴田勲も7。7は韋駄天のイメージか?
 近年では“現”メジャーの(いつ落ちるか、または国内帰国か分からない)松井稼頭央(ロッキーズ)が西武時代に7を付けていた。奇しくも同じメジャーの井口資仁(シカゴ・ホワイトソックス)もダイエー時代は7だった。国内では阪神タイガースの今岡豊、読売ジャイアンツの二岡智宏。7はショートのイメージか?井口は入団当初はショートだった。その後セカンドへコンバートされる。今岡ももともとはショートだったが、その後は三塁や二塁を守っている。松井はメッツ時代にショート失格の烙印を押されセカンドへ。今では遊撃を守るのは二岡だけか・・・。そう言えば宇野勝(中日)も7だった。

大物の多い”8” 

 8は大物が多い。ミスター赤ヘル・山本浩二(広島東洋カープ)を推す人が一番多いかもしれないが打撃の職人・山内一弘(大毎オリオンズ等)も闘将・江藤慎一(中日ドラゴンズ等)もいる。

 9は元来はキャッチャー番号だが、近年はその“ルール”が守られていない。巨人では吉田孝司、村田など昔から捕手が付ける事が多い。中日の中尾義孝も9を付けていた。9にもスーパースターが見当たらない。

 10は大学でキャプテン番号。そのためピッチャーがキャプテンになると3年生次に18を付け、4年次に10を付けるエースもいる。10のピッチャーもピンと来ないし、最上級生になったら18を“剥奪”されているみたいで何か違和感がある。
 プロ野球では強打者に多く、代表は張本勲(東映など)。その他首位打者を分け合った事もあるあぶさんこと、永淵洋三(近鉄)。そしてライバルでもある加藤英司(阪急など)。
 昭和35年の新人王、堀本律夫(巨人)は投手としては珍しい10。
阪神では10が永久欠番。初代ミスタイガース・藤村富美男の背番号だ。


続く。
  ”背番号物語”は毎週月曜日発信です。次回は投手番号の10番台です。お楽しみに!

背番号あれこれ(1)

2006-09-05 00:58:32 | 背番号物語



背番号今昔 

 最近はイチロー選手(シアトル・マリナーズ 51)や松井秀喜選手(ニューヨーク・ヤンキース 55)の影響か、大きい背番号も受け入れられるようになってきた。一昔前なら、レギュラーは小さい番号が普通だった。例えば、特に高卒に多かったと思うが、下位指名で入団した選手は大きい番号しか貰えず、数年の下積みの後レギュラーになって初めて一桁番号を貰えたものだ。大きい背番号から小さい背番号になるのが“出世の証”だった。ところが今は一流選手になっても入団時の大きい背番号、所謂(いわゆる)“重い番号”をそのまま付け続ける選手が増えた。先の2選手も日本での実績を認められ、メジャーでも自らの希望で同じ背番号を付けている。

 前記の2選手以外にも国内組では福岡ソフトバンクホークスの川崎宗則内野手(52)、東京ヤクルトスワローズの五十嵐亮投手(53)、阪神タイガースの赤星憲広外野手(53)、千葉ロッテマリーンズのジョニーこと、黒木知宏投手(54)などが一流選手になっても大きい背番号を継続して付けている。

 昭和50年代に巨人では駒田徳広内野手(50)・吉村禎章外野手(55)・槙原寛己投手(54)の3選手が“50番台トリオ”として売り出した事があった。しかし全員レギュラー(ローテーション投手)の座を掴むとそれぞれ駒田は10・吉村は7・槙原は17の背番号に“出世”した。

 五十嵐投手は球団からエース級の番号である11を打診されても断ったという話しを聞いたこともある。時代も変わったものだ。



続く ”背番号あれこれ”は毎週月曜日発信です。乞うご期待!