ドラフト1位の社会人ルーキー
ドラフト1位で入った投手であった。同期には甲子園で怪物と呼ばれたバッターがいた。同じリーグのライバルチームに指名され入団した。甲子園時代から超高校級のバッターとして騒がれた逸材であり、有名な存在であった。しかもある“事件” がその甲子園での試合で起き、それが社会的騒動となったため知名度は野球を知らない人にまで浸透していた。
また入ったチームが人気球団でもあり、さらにカリスマ的監督が自ら抽選に赴き指名権を獲得して入団したなどプロ入りの際も話題には事欠かなかった。そしてキャンプではフリーバッティングで豪快な場外ホームランを連発して、マスコミの期待に応えた。しかしこちらは社会人出身。向こうは高卒ルーキー。負ける訳にはいかなかった。
早くもプロの水に慣れた?
その長打力には無限の潜在能力を感じさせたが、さすがの怪物バッターも高卒ではすぐに先発メンバーには入れなかった。特に名門チームだけに選手層も厚く、実績のあるベテランが多いためその辺りは厳しかった。反して若い伸び伸びしたチームに入団した自分は春先からローテーション入りを果たした。自分は決して剛速球投手ではない。どちらかと言えばキレで勝負するタイプだ。力でねじ伏せる事はできないが、伸びのあるストレートは自信があった。調子が良ければ150㎞/hを出せた。また、それ以上に自信を持っていたのはスライダーであった。自分のスライダーはストレートとのスピード差があまりなかった。それがプロの選手に不慣れなのかこのスライダーでバッタバッタと討ち取れた。周りは“高速スライダー”と持てはやした。投げれば完封か1失点完投の勝利を収めた。
まさに絶頂だった。「プロなんてこんなもんか」。そんな慢心が心の中に起こった。キャンプでは少し故障すると、辛口の監督から「所詮アマレベル」と辛辣な評価を下された。それを見事に見返してみせた。「投球美人」。監督の評価が変わった。
史上最高投手の終焉
しかし、すぐに終焉はやって来た。肩を痛めた。たいして酷使された訳ではないが肘に違和感があるままスライダーを多投しすぎたのが原因だった。オールスターは辞退した。後半戦に備えた。しかし一向に快復の兆しをみせず、残りのシーズンも棒に振った。それだけではなかった。翌年もさらにまた翌年も肩は快復しなかった。いつしか忘れられた存在になった。
チーム内には同じ姓の先輩投手がいた。正しくは漢字が違うので同じ姓ではないのだが発音は同じだった。やはり社会人経由で入団した投手で甲子園では準優勝の経験を持つ。社会人NO.1ピッチャーとして期待されて入団し、背番号もエースナンバーを付けた。そして最多勝のタイトルも獲得した。いつしか自分は忘れ去られ、そのチームの○と言えば違う方の○を指していた。
せめてもの勲章は後半戦殆どマウンドに立たなかったがそれでも新人王を取れた事であった。シーズンを通しての成績は二桁にも満たないので新人王は怪物バッターでも良かったが、何せ記者投票のタイトルだ。はっきり言えば公正さがあるわけではない。何とか新人王は手に出来た。しかしそれだけであった。プロにしがみついたが結局新人時代のキレのある球は戻ってこなかった。球団も温情で年俸ゼロのまま在籍させた。が、一度壊した肩・肘は元に戻らなかった。いや、メッキが剥げただけと言ってもよい。自分が通用したのは相手のバッターがまだ目に慣れない短い期間だけであったのだ。慣れればいつかは打たれた。その前に故障しただけであった。しかし短期間の活躍で素人の野球ファンは「史上最高の投手」とか「故障さえなければどんな投手になっていたか」などと言ってくれる。「故障したのが却って良かったかな」。引退して数年、自分の実力が分かった今つくづくそう思う。
ドラフト1位で入った投手であった。同期には甲子園で怪物と呼ばれたバッターがいた。同じリーグのライバルチームに指名され入団した。甲子園時代から超高校級のバッターとして騒がれた逸材であり、有名な存在であった。しかもある“事件” がその甲子園での試合で起き、それが社会的騒動となったため知名度は野球を知らない人にまで浸透していた。
また入ったチームが人気球団でもあり、さらにカリスマ的監督が自ら抽選に赴き指名権を獲得して入団したなどプロ入りの際も話題には事欠かなかった。そしてキャンプではフリーバッティングで豪快な場外ホームランを連発して、マスコミの期待に応えた。しかしこちらは社会人出身。向こうは高卒ルーキー。負ける訳にはいかなかった。
早くもプロの水に慣れた?
その長打力には無限の潜在能力を感じさせたが、さすがの怪物バッターも高卒ではすぐに先発メンバーには入れなかった。特に名門チームだけに選手層も厚く、実績のあるベテランが多いためその辺りは厳しかった。反して若い伸び伸びしたチームに入団した自分は春先からローテーション入りを果たした。自分は決して剛速球投手ではない。どちらかと言えばキレで勝負するタイプだ。力でねじ伏せる事はできないが、伸びのあるストレートは自信があった。調子が良ければ150㎞/hを出せた。また、それ以上に自信を持っていたのはスライダーであった。自分のスライダーはストレートとのスピード差があまりなかった。それがプロの選手に不慣れなのかこのスライダーでバッタバッタと討ち取れた。周りは“高速スライダー”と持てはやした。投げれば完封か1失点完投の勝利を収めた。
まさに絶頂だった。「プロなんてこんなもんか」。そんな慢心が心の中に起こった。キャンプでは少し故障すると、辛口の監督から「所詮アマレベル」と辛辣な評価を下された。それを見事に見返してみせた。「投球美人」。監督の評価が変わった。
史上最高投手の終焉
しかし、すぐに終焉はやって来た。肩を痛めた。たいして酷使された訳ではないが肘に違和感があるままスライダーを多投しすぎたのが原因だった。オールスターは辞退した。後半戦に備えた。しかし一向に快復の兆しをみせず、残りのシーズンも棒に振った。それだけではなかった。翌年もさらにまた翌年も肩は快復しなかった。いつしか忘れられた存在になった。
チーム内には同じ姓の先輩投手がいた。正しくは漢字が違うので同じ姓ではないのだが発音は同じだった。やはり社会人経由で入団した投手で甲子園では準優勝の経験を持つ。社会人NO.1ピッチャーとして期待されて入団し、背番号もエースナンバーを付けた。そして最多勝のタイトルも獲得した。いつしか自分は忘れ去られ、そのチームの○と言えば違う方の○を指していた。
せめてもの勲章は後半戦殆どマウンドに立たなかったがそれでも新人王を取れた事であった。シーズンを通しての成績は二桁にも満たないので新人王は怪物バッターでも良かったが、何せ記者投票のタイトルだ。はっきり言えば公正さがあるわけではない。何とか新人王は手に出来た。しかしそれだけであった。プロにしがみついたが結局新人時代のキレのある球は戻ってこなかった。球団も温情で年俸ゼロのまま在籍させた。が、一度壊した肩・肘は元に戻らなかった。いや、メッキが剥げただけと言ってもよい。自分が通用したのは相手のバッターがまだ目に慣れない短い期間だけであったのだ。慣れればいつかは打たれた。その前に故障しただけであった。しかし短期間の活躍で素人の野球ファンは「史上最高の投手」とか「故障さえなければどんな投手になっていたか」などと言ってくれる。「故障したのが却って良かったかな」。引退して数年、自分の実力が分かった今つくづくそう思う。